1.とある小料理屋にて
街の中心から少し外れた住宅街の端に、小さなレストランがある。「ヴィヌイとパトロアの手料理屋」と名付けられたその店は、軒先にぶら下がった吊り看板が無ければ、そこが店であることを見落としてしまいそうなほどに目立たない店。そのささやかな店の扉には、昼と夕の間という時間のせいだろう、休憩時間の札がかけられている。
そんな、本来なら客はいないはずの時間に。たった二人きりの従業員の内の一人であるヴィヌイは、突然やってきて注文した料理をガツガツと食べるピリヴァヴォーレ・アティーツというお得意さまに対して、まるで挨拶のような口調で文句の言葉を並べる。
「こう見えてもねぇ、アタシらは真っ当に小料理屋をしてるのよぉ。休憩中にぃ、アナタみたいな大物が来てもねぇ、扱いに困るのよねぇ」
「悪い悪い。ちょっと意見を聞いてみたくてなぁ、……うん、うめぇ」
まあ、本気で困ってるわけじゃないけどねぇとなれ合った空気を出しながら、少し舌足らずな声で喋るヴィヌイ。そんな彼女に、見ていて気持ち良いくらいに健啖に料理を平らげながら、鷹揚に答えるピリヴァヴォーレ。正面の席に座って食べ終わるのを待つヴィヌイの気怠そうな雰囲気から、零れ落ちる色気を感じたピリヴァヴォーレは、心の中で苦笑する。
(ったく、勿体ねぇ。あんな色気の足りねえ小娘なんかより、こっちの方がそそるってぇのによ)
もう三十も半ばを過ぎたはずなのに、いや、歳を重ねたからだろうか。若い頃とはまた違う色香を匂わすヴィヌイ。ったく、これで娼婦からは足を洗ったなんて言われても納得できねぇと、そんなことを思いながら、ミラナという名の現役の娼婦を思い出す。
帝国からの客人が興味を示した、デュチリ・ダチャの女。一度会ってみたが、確かに見てくれは良い。綺麗さだけなら、今目の前にいるヴィヌイよりも上。若い頃の彼女と比べても、あっちに軍配は上がるだろう。でもなぁと、ピリヴァヴォーレは考える。――あの小娘にはこう、そそるもんが足りてねぇよなぁ、と。
◇
デュチリ・ダチャの専属娼婦だったヴィヌイと、組織の幹部となったピリヴァヴォーレ。二人が初めて会ったのは二十年も前の話。その時のヴィヌイは十代の、娼婦になったばかりの女で、その客となったピリヴァヴォーレもまだ二十代半ばの若造だった、そんな頃。
やがてピリヴァヴォーレは、組織の中で頭角を現して。最後にはドン・アティーツと盃を交わすまでに上り詰めることになる彼が、いつしか堅気の女よりもこのデュチリ・ダチャの女に魅力を感じるようになっていた。
「アンタみたいなのがお得意さまだと、正直迷惑なのよぉ」
才覚を頼りに組織を駆け上がる男が唯一相手にする女。そんな睨みのきいた肩書は商売の邪魔なのよねぇなんて言われて、うるせぇなぁ、俺の女だというのが邪魔になるのなら娼婦なんてやめちまえと言い返す。気が付けば、そんな冗談を言いあうような間柄。
そんな2人の関係が変化したのは3年ほと前。ヴィヌイがそろそろ娼婦も引退よぉなんて言いながら、パトロアとかいう女と一緒に小料理屋を始めるなんて言い出した時。
やがて彼女たちは、本当に住宅街の中に店を建てて、看板をぶら下げて、店を始めて。いつのまに料理の修行なんてしていたのか、彼女たちの作る料理は客に好評で。知る人ぞ知る店としてその商売は軌道に乗る。
――そしてこの時、この街に美味い料理を出す店で料理を作る女が生まれて。そして、ピリヴァヴォーレの情婦がいなくなる。
その日以来、ピリヴァヴォーレに情婦はいない。
◇
「で、今日はなにを聞きに来たのかしらぁ?」
頃合を見ていたのだろう、空になったグラスに発泡酒を注ぎながら、ピリヴァヴォーレに聞くヴィヌイ。そんな彼女の言葉を聞きながらピリヴァヴォーレは、手にした骨付き肉を噛みちぎって飲み込んで、口の中を押し流すように発泡酒をゴクゴクと飲み下す。
「ああ。つまんねえ事なんだが、他に聞く奴もいなくてな。――単刀直入に聞くけどよぉ? デュチリ・ダチャの女にとって、『店』ってぇのは、何だ?」
そうしてピリヴァヴォーレの口から出た質問は、世間話とも取れるような、あいまいな質問で。それでも、普段は食事をしにくるだけの彼がわざわざ「意見を聞いてみたくなって来た」と言ったのを覚えていたのだろう、ヴィヌイは真剣に、ほんの少しの時間だけ、言葉を選ぶ。
「そぉねぇ。私にとってこの店は、『私が生まれてきた理由そのもの』かしら、ねぇ?」
その言葉は、本人たちには明白で、でも他の人にはどう伝えればいいのかわからない、それでもこう言うしかない、そんな言葉だった。
◇
「アタイはねぇ、『おまえは色を売るしか生きる道はない』ってことを、こぉんなちぃさなガキの時分に、突き付けられたのよぉ。アタイにはそれしか価値がないってねぇ。――でもねぇ、それと同時に、そのために生まれてきた訳じゃない、生きていくだけの金が、力があるのなら自由に生きていい。そう教わりながら生きてきたんだ」
ピリヴァヴォーレに話をしながら、ヴィヌイはデュチリ・ダチャの、マムのことを思いだす。あの頃から変わらない、歳を取らないんじゃないかと錯覚しそうになるような、どこか人外じみたデュチリ・ダチャの経営者。アタイらみたいな専属娼婦を娼婦として扱う、その一線は絶対に譲らなかった人。……娼婦のことをわかっていて、そう扱って、それでもなお優しい人だった。
そういえばマム、ピリヴァヴォーレのことをジジイ扱いしてるんだっけと、そんなことをふと思い出して、おかしな気分になる。確かにピリヴァヴォーレもいい歳ではあるけど、ジジイはない。何より、あのマムにだけはジジイ呼ばわりされたくないわよねぇ、と。
っといけない、笑う所じゃないわぁと、ヴィヌイは他事を頭の中から振り払って、話を続ける。
「自分の好きなことをして、世の中が認めれば生きて、認められなければくたばる、店ってのはそういうモンよねぇ。だから、アタイがこの店で食っていくことができれば、アタイは色を売るために生きてきたんじゃない、この店で客に食事をふるまうために生まれてきたってことになる。アタイはそう思うんだ」
一通り話し終わったのだろう、一息ついて、テーブルの上に置いてあった飲みかけの水を飲むヴィヌイ。その話を黙って聞いていたピリヴァヴォーレは、冗談めかしつつ、今まで聞いていなかったことを聞いてみる。
「……もしもの話だけどよぅ、この店がコケてたらどうするつもりだったんだ?」
「そんときはまあ、娼婦になるために生まれて、馬鹿なことを夢見て死んだ女が一人いたってことじゃないかしら、ねぇ。――デュチリ・ダチャの女は、みんな同じようなことを考えてると、そう思うわぁ」
どこか嫌らしさのあるピリヴァヴォーレの質問に、事もなげに答えるヴィヌイ。そんな答えを予想していたのだろう、こんな小料理屋をやるために生まれてきたなんざ小せぇなぁと、大げさに肩をすくめてから、再び目の前の料理を食べ始めるピリヴァヴォーレ。
その姿は、先ほどまでと同じように、見ていて気持ちが良くなる位に健啖で。ほんの少しだけ、親しい人だけが感じ取れるほど僅かに、寂しさがにじんでいた。
◇
そうして、ピリヴァヴォーレが目の前の料理を全て平らげたところで、カランカランと音を立てて、店の扉が開けられる。
「昔なじみを連れ込むのもいいけどさあ。あと少ししたら夜の店の支度だよ。それまでには終わらせときなよ」
「ああ、小うるせぇ『ちっせぇマム』が帰ってきやがった。今ちょうど食べ終わったところだ、言われなくてもすぐに帰るさ。――あんがとよ、参考になった」
両手に荷物を持った、いかにも買い出しから帰ってきたという風体で店の中に入ってきた、この店のもう一人の従業員であるパトロアは、席に座るピリヴァヴォーレとヴィヌイを一瞥して、憎まれ口をたたく。その言葉にピリヴァヴォーレは、憎まれ口を返す。
「うまかったぜ。またよろしくな」
そう言って席を立つピリヴァヴォーレ。そのまま彼は、ヴィヌイの返事も待たずに、扉の方へと足を向けた。
◇
そうして、ピリヴァヴォーレのいなくなった店の中で。パトロアは買ってきた荷物をカウンターの上に置きながら、ヴィヌイに声をかける。
「で、どうだい? 何か売り物になりそうなネタはあったかい?」
席に座ったまま、ピリヴァヴォーレを視線で見送ったヴィヌイ。パトロアの言葉に、まるで余韻を味わっているのかのように席に座ったまま、けだるげな返事をする。
「残念だけどぉ、たとえアナタでもぉ、あのヒトは、商売には使わせないわよぉ」
「そう? それは残念。ピリヴァヴォーレの周りには、札束の匂いがプンプンしてんだけどねぇ。――ったく、妬けるよなあ、オイ」
ヴィヌイの言葉に、肩をすくめるパトロア。そろそろ夜の店の支度をする気になったのか、席を立つヴィヌイ。目の前の、さんざん食べ散らかした後のテーブルの上を片付けながら、彼女は思う。
――ホント、あんな奴がお得意さまだと、色々迷惑よねぇ、と。
◇
店を出て、ピリヴァヴォーレは考える。きっかけはミラナというデュチリ・ダチャの女の、計算外な行動だった。そいつがなんとなく「店への執着」のように思えて、ふと思い立って、ヴィヌイに話を聞いた。
――デュチリ・ダチャの女が自分の店に執着する。そいつはもう、嫌なくらいに思い知っていたはずだった。何せ、あのデュチリ・ダチャという娼館は、このピリヴァヴォーレ・アティーツの情婦になるよりも小料理屋を選ぶような女が居た娼館で、そんな女がごろごろしているような場所だ。……ったく、我ながら、なんでそんなことを忘れてたのかねぇと、そんなことを思う。
「店をやるために生まれてきたって、阿呆かよ」
ヴィヌイの言葉を思い出して、ピリヴァヴォーレは嘯く。付き合いも長い。長さだけでは語れないものもある。嫌というほどわかってしまう。それでも、そう嘯かずにはいられない。その意地さえなかったら、と。
ったく、女々しいことよなぁ、このピリヴァヴォーレ・アティーツともあろう者が。アイツは俺を選ばず、店と、あとパトロアとかいう女を選んだ、たったそれだけの話だろうが。ったく、小せぇなあと、そんなことを思いながら、ピリヴァヴォーレは帰路につく。
その足を一歩踏みしめるごとに、ピリヴァヴォーレの時が過ぎていった。
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飛び領地邸の仮面夫婦
第三章 転居騒動
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