8.契約(4)
私とエフィムの間で金銭的な条件に合意が取れて、少しホッとしたような空気が客間に流れる。
頃合いと見たのだろう、スヴェトラーナが指を鳴らすと、部屋の外に控えていたであろう使用人らしき男性が、あらかじめ準備してあったであろう替えの茶をワゴンに乗せて運んでくる。再びティーカップから心地よい香気がただよう。
熱い茶を一口含んで喉を湿らせて一息ついて。エフィムに、少し気になったことを聞いてみる。
「一週間でゴルディクライヌ三百本、一月で千二百本程度よね。どう計算しても月に200ルナストゥを払えるほどは稼げないように思えるのだけど。どうやって利益を上げるつもりなのかしら」
先に聞いた商売の話。鉄道を使って大量の商品を運搬する。ゴルディクライヌのような安酒でも量をさばけば商売になる。その理屈はわかる。でもどうしても実感がわかない、そんな私の疑問。……その疑問に対するエフィムの答えは、確かに数字上は納得できるものだった。
「そうだね。今は一本あたり、えっと……1ルナストゥで売るつもりだね」
君たちはどう思っているのかわからないけど、ゴルディクライヌは値段の割には良質の、何より珍しい酒だよ。だから帝国でも十分に売れる。そんなエフィムの言葉に意表をつかれたのだろう、ドミートリが「はい?」という、気の抜けたような声を漏らす。
5ソルストゥの酒を1ルナストゥで売る。単純計算で一月千二百本、総額200ルナストゥで仕入れた酒を1200ルナストゥで売れば、1000ルナストゥの粗利になる。この街では考えられないような高値だけど、それなら確かに、私に払う200ルナストゥくらい捻出することもできそうね、そう思ったところで、ふと思う。
……えっと、この人たちの給料、確か帝国から出てるのよね。もしかして、意外とおいしい商売をしているんじゃないかしら、と。
◇
のんびりとした空気の中、まるで世間話のような雰囲気で、私たちが疑問に思ったところをエフィムが説明をする、そんな時間が過ぎる。やがて、その疑問もそれなりに出尽くしたのだろう、部屋の中に僅かな沈黙が訪れる。
その様子を見渡して、エフィムが口を開く。
「さて。僕も今はまだ組織の客人という立場でね。最初の取引が成功するまでは、ドン・アティーツの屋敷で交渉にあたってた。でも、その取引も一週間後だ。これを終えたら、僕はこの屋敷に戻ってくることになる」
必要なことは一通り話し終えたと判断したのだろう、今日最後であろう話題を述べるエフィム。その言葉を、静かに聞き続ける。
「まだミラナとどう接していくか、正直考えていない。まだ先のことだと思ってたからね。でも、この飛び領地邸から駅まで、馬が走れる程度には道も整備したし、その駅の方も準備はできている。……実は、僕もまだ実物を見たことは無くてね。本格的な話はおいおい決めていくとしても、実際にどう運搬するのか、ミラナも見ておいた方がいいと思うんだけど、どうかな?」
多分、今日の話し合いの席で思いついたであろうエフィムの提案に、異論は無いと頷く。
「そうね。私も興味はあるし、見ておきたいわ」
私に期待されている役割が「帝国人と話ができる街の人間」でしかなかったとしても、商売に関わっていく以上、その様子を知っておくのは悪くない。それに、私にも、ささやかだけど自分の人脈と言えるような物もある。……何より、何もせずにお金を受け取るなんてことにはなりたくない。
「良かった。――僕も、ただそこにいて欲しいなんて思わない。支払う金額に見合うだけの何かをしてくれた方がありがたい。商売を広げることにつながるのなら大歓迎さ」
そんな私の考えを察したように、そう話を締めるエフィム。その言葉を聞いて決心する。――いつの日か、この人に向かって「貴方よりも稼いでしまうけど、いいかしら」という言葉を投げれるようになってやろう、と。
◇
そうして、全ての話が終わって皆が立ち上がり始めたところで。おもむろにマムが、私に尋ねてくる。
「さてと。じゃあ、明日からアンタは娼婦は廃業ってことでいいのかい?」
何でこんなときに話しかけてくるのだろう。そう思いながら、マムに返事をする。
「今までの付き合いを全部捨てる気は無いけど、娼婦として会うつもりもない。新しく客を取るのも無理。廃業でいいんじゃないかしら」
「で? 娼婦を辞めたアンタは、明日からどこに住むつもりだい?」
「もちろん、私の店の方に住むつもりだけど」
続くマムの質問にも、当然の答えを返す。娼館の外にある「自分の店」。元々あそこは、私が娼婦をやめた時のための店。予定とはかなり違う形になったけど、娼婦を辞める以上、そこに住むのが自然の成り行き。……でも、そんな私の返事を聞いて、やれやれと肩をすくめるマム。ため息まじりの表情を浮かべるドミートリに、どこか面白そうな表情を浮かべるエフィム。きっと「私の店」を知らないのだろう、頭の上に疑問符を浮かべるスヴェトラーナ。――ここにいる誰もが、私の答えを当たり前だとは思っていないと、そう感じる。
私は娼婦を続けることはできない。娼婦から足を洗う以上、娼館に住むこともできない。だから、その日のために準備しておいた部屋に住む。これのどこが不自然なのだろうと、少し理不尽さを感じた。
◇
飛び領地邸の外まで見送られて。最後に「これからもよろしく」と言いながら、右手を差し出すエフィム。「こちらこそよろしく」と右手を差し出して、彼の右手を握り返す。
そうして、彼らと別れて。帰り道、歩きながら、その右手をなんとなく眺める。
「右手がどうかしたのかい?」
「いえ。帝国にも握手の風習はあるのねと、ちょっと思って」
初めてデュチリ・ダチャで会ったときも、今日も、最後に握手を求められるまで、エフィムは決して私に触れようとしなかった。だからそういう習慣は無いのかなと思っていた。だから、最後に握手を求められたのが少し意外、そう感じたのだけど。そんな私を、少し笑いながら、ドミートリが否定する。
「……ああ、そいつはな、どっちかってぇと、帝国じゃなくて組織にそういう習慣がねぇんだわ」
俺らは、元々はチンピラの集まりだからな、ああいったのはなれ合いだって嫌う傾向はあるわなとドミートリの言葉。その言葉になるほどと頷く。多分護身的な意味もあるのだと思うけど、確かに組織流の礼儀には、大声を張りあったり形式ばった所作をしたりと、どこか距離をおいたものが多い。
組織の客人だったエフィムは、きっと彼らの礼儀をこの街の礼儀だと学んで、だから今の今まで、握手を避けてきたのだろう。
「確かに、組織だけを相手にしていると、色々と困りそうね」
そう言って、再び右手を見る。本当、順番が色々おかしいわね、そう心の中でつぶやく。
――握手ひとつ交わすのにどれだけの時間がかかったのか、そんなことを思いながら。
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飛び領地邸の仮面夫婦
第二章 飛び領地邸[エフィム邸] 了
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飛び領地邸からデュチリ・ダチャに戻って、引っ越しの準備を始めて。元々私物なんて小さなクローゼットとコンソールテーブルに収まるだけしかない。それでも一ヵ所にまとめてみると、意外なほどの量はあって。さて、どうやって自分の店にまで運ぼうかと考え始めたところで、コンコンコンとドアがノックされる音が響く。
「まったく、五階の部屋なんて、来るだけでも一苦労だね。酔狂も良いところだよ」
珍しく私の私室を訪れたマムが、そんな憎まれ口を叩く。自分で建てておいてのその言い分に少し笑う。
「たったこんだけかい。少ないもんだね」
「あまり私物を持つ必要が無かったので」
なんだかんだでマムは面倒見がいい。必要なものはデュチリ・ダチャから借りたりすることができたから、私物は少なくても不便はない。まあ、人にもよるだろうけど。……この先はそうもいかないかと、そう思ったところで、マムが用件を口にする。
「アンタの将来……っていうか、引っ越し先について、ピリヴァヴォーレの爺さんが話があるってさ。丁度いいから、そのときに組織の若いのに荷物を運ばせちまうかい」
……足を洗った娼婦が、準備した部屋に住む。そんな当たり前の話をを不自然に思う人間が、思いもよらぬところにもいたと、これはそんな話だった。
これにて第二章は終了です。




