7.契約(3)
遅くなってしまいました。ごめんなさい。
最低でも1000ヴィズダストゥという私の言葉を聞いて、戸惑うような表情を浮かべるエフィム。同時に、今まで感じていた「何か」の気配が、しんと静かになるのを感じる。……ああ、彼が本気で考えるときはこうなるのかと、そんなことを少し思う。「何か」を通して相手に色々ともれるようだと交渉もやりにくいだろうに今までどうやって交渉をしてきたのだろう、そんなふとした疑問が少し晴れる。
と、そんなことを考えているところで、そのエフィムが口を開く。
「1000ヴィズダストゥ、僕の知る限りではこの街に住む人の十年分の年収に相当する金額だと思ったんだけど、間違ってなかったかい?」
「ええ、そうね。私もそう認識しているわ」
多分、やんわりと見直しを求めたのだろう、1000ヴィズダストゥの一般的な金銭的価値を確認するエフィム。その確認の言葉を肯定して、少しだけ本音を漏らす。
「私は正直、こういう交渉には慣れていない。だから、あまり駆け引きのようなことをされても困る」
その言葉に「わかった」と頷くエフィム。
「……と言ってもね。君の提示した条件は無理があると思う。正直そのままだと、受け入れることは難しい」
「そう」
続くエフィムの言葉に、短く言葉を返して、次の言葉を待つ。そんな私の態度に、困ったような表情を浮かべるエフィム。……そうね、これで決裂はあんまりかしらと、そんなことを思い始めたところで、意外な所から救いの手が差し伸べられる。
「……少し差し出がましいとは思いますが、少し口を挟ませてもらってよろしいでしょうか?」
スヴェトラーナの言葉に頷くエフィムと私。
「先ほどミラナ様は、最低でも1000ヴィズダストゥ、『期間は問わない』とおっしゃいました。それは、その金額をお支払いするのに十年かかってもいいと、そういう意味にとってよろしいのですか?」
「……そうね。十年だと少しマムと相談しないといけないけど。私はそれでも構わないわ」
続くスヴェトラーナの質問に正直に答えてから、マムを見る。同じようにマムの方に視線を向けるエフィムとスヴェトラーナ。その視線を受けて、私の言う「1000ヴィズダストゥ」にも当たりをつけていたのだろう、マムは何も聞かずに答えを返す。
「そうだねぇ、まあ、何も聞かずにダメなんて言うつもりはないさ」
含みを持たせたマムの返事。その言葉を「脈あり」と受け取ったのだろう、スヴェトラーナがエフィムに話しかける。
「だ、そうです。――なので、エフィムに十年かかっても払うつもりがあるのなら、多分悪い話にはならないと、私はそう思いますわ」
スヴェトラーナの言葉に、さらに困ったような、戸惑う素振りを見せるエフィム。そんな彼の様子はお構いなしに、自分の役目はここまでと言わんばかりに口を閉ざして、優雅にティーカップを口元に運ぶスヴェトラーナ。そんな彼女にマムは、「他人事だねぇ」と、少し苦笑しながら声をかける。
「はい。ミラナ様の言葉で、私は他人事になりました。帝国軍政務官としての立場から言わせていただくと、帝国はミラナ様の話を飲むことはできません」
マムに返事をしてから、軽く口を湿らせるスヴェトラーナ。そうして一息ついた彼女は、ティーカップを受け皿の上に戻してから、核心となる言葉を口にする。
「金額の問題というよりは、期間の問題です。私たちの任期は、あと二、三年程度しかありませんので」
◇
「物資統制官の任期は、通常は三年か、せいぜい四年。私たちが赴任したのは今から十ヵ月ほど前だから、あと二、三年で任期は終わることになりますわね」
スヴェトラーナは語る。エフィムが就いた物資統制官という官職は、辺境の地においては「辺境の地特有の物資流通を利用して利益を上げる」つまり壁の外との交易で利益を上げるのが任務ということになっているが、それはあくまで建前の話。実態としては、単に経歴に「辺境の地に赴任した」という実績を付けて箔をつけるための役職でしかないと。適当に交易屋と相手をして無難に過ごすのが普通で、まともに壁の外と交易をしようと考えてるような人間は、任命する側にも任官する側にもいない。……エフィムを除いては。
「この街に乗り込んできたのは、エフィムの独断です。当然、この飛び領地邸の建築費用も、帝国からは出ていません。全てエフィムのポケットマネーで賄われています」
帝国が出しているのは、私や他の部下たちの給料ぐらいですわねとスヴェトラーナ。元々現地の人間を雇うことを想定した役職ではないし、二、三年で1000ヴィズダストゥという金額は経費としては大きすぎる。だから私の要求した金額を帝国が出すことはありえない、そうスヴェトラーナは説明する。
「なので、ミラナ様の要求を飲むかどうかはエフィム次第ということになりますわ。――こんな家まで建てておいて、たった二、三年で帝国に帰るなんて、エフィムも考えていないはずですので」
そんな言葉で、スヴェトラーナの説明は終わる。
◇
「……まだ、組織にも言ってなかったんだけどね」
スヴェトラーナの言葉に肩をすくめるエフィム。そのままドミートリの方へと視線を向ける。その視線の意味に気付いたのだろう、ドミートリが口を開く。
「正直、俺が答えることじゃねぇんだけどな。まあ、組織としては、帝国がどうだとか任期がどうだとかは関係ねぇと思うぜ。――ドンの親父やピリヴァヴォーレの叔父貴は、テメエと約束を交わした。そいつが全てさ」
「ああ、組織のそういう所は僕も好きだな。――もちろん僕も、二、三年で組織との取引を終えるつもりはない。ピリヴァヴォーレさんにもそう話をするつもりだよ」
「なら問題ねぇんじゃねえかな。まあ、筋だけはちゃんと通しておいた方が、おっかない目を見ずに済むとは思うぜ。俺が言えるのはその位かな」
ドミートリの言葉にエフィムが頷いて。とりあえず組織がらみの話は別に席を設けて話をするつもりなのだろう、今はそんな簡単なやり取りで話を終えて、私に向き直る。
「二、三年で1000ヴィズダストゥという金額も、払えなくはない金額ではあるんだけどね。ただ、そろそろ現金が尽きかけていてね。将来の話は商売が軌道に乗ってからにしたいのは今も一緒なんだけどね。――出世払いってことじゃだめかな?」
「二、三年後の出世を確約してくれるのなら構わないわ。でも、それって出世払いって言うのかしら?」
冗談めかしたエフィムの言葉。その言葉に、冗談めかした言葉を返して。そして、こちらの事情を簡単に説明する。エフィムと接点を持ちながら今までと同じように娼婦を続けることはできないこと、私の店の代金と私自身の代金、計約1000ヴィズダストゥをマムから借りていて、その借金を返済しない限り私は自由にならないこと、そういったことを手短に話す。
そんな私の話を、ところどころで頷きながら耳を傾けるエフィム。一通り話を聞き終わって、少し考えてから、私に条件を提示する。
「わかった。とりあえず月200ルナストゥ、商売がもう少し軌道にのったら月に300ルナストゥに増額する。三年後には間に合わないし、3000ヴィズダストゥになるには結構な時間がかかると思うけど、約束を反古にして帝国に逃げ帰ったりしない。――それでどうかな?」
「それなら文句はないわ」
エフィムの出してきた条件に、それなら問題ないと即答する。
◇
「話がまとまって良かったですわ。ストルイミン家のエフィムがこれ以上、何をどうやって出世するつもりなのかは、少し問いただしたい気もしますけど」
少し冷めかけてきた茶を優雅に口にしながら、そう締めくくるスヴェトラーナ。同時に、エフィムの周りを舞っているであろう「何か」から、はらはらと安堵が入りまじったような感情がうっすらと伝わってくるのを感じて、今日の話し合いも一段落ついた、そんな実感が湧き上がった。