ぼくは、サラリーマン!
時刻は午前9時。俺は、いつものようにパソコンを立ち上げた。
「テレワーク」という耳慣れない言葉に戸惑った時のことが、今ではもう懐かしく感じる。朝食を取り、それなりに身支度を整え、こうして自室でパソコンに向かう日々が、今や当たり前になっていた。
「ママー、はじめるよ!」
「はいはい」
リビングから息子と妻の声が聞こえる。俺が仕事の間、ずっと息子の相手をしていてくれる明美には頭が上がらない。その代わりになるのかはわからないけれど、俺は目の前の仕事に邁進するのみだ。その分、土日は明美が寛げる環境を…
「もしもーし」
…どうやらおままごとが始まったらしい。息子がおままごとなんて、珍しい。恐らく、俺や明美が電話する様子を見て、それを真似しているのだろう。少し舌足らずな声が聞こえて、思わず笑顔になってしまう。
「もうしわけございません!」
おや、と思う。俺も明美もお互いに謝るときは『ごめんね』か、丁寧に言ったとしても『ごめんなさい』だ。
「そうきゅうにたいおういたします!」
続いた言葉に、びっくりして思わずむせてしまった。
え、そんなフレーズ、どこで覚えたの!?
「ごめいわくをおかけしてもうしわけございません!」
キーボードに触れる手がカタカタと震え始めた。えっ、ちょっ、マジか!?
「健二ー?」
突然自分の名前を呼ばれて、思わず身体がビクッとなる。
落ち着け、ここで狼狽えるのは…何だか、まずい気がする。
「どうぞ」
努めて平静を装って声を出す。
ドアからひょっこり、明美が顔を出した。
「コーヒー淹れたけど、飲む?」
「あ、ああ、ありがとう」
声が裏返りそうになった。
落ち着け。まさか二人とも、俺に聞かれてると思ってわざとやっているわけではないんだろうから…
「…健二さあ」
「えっ!?」
「…多分、ビデオ会議の時だと思うんだけど。相手に聞こえるようにって配慮してるのかな。結構声、大きいのよ」
口をぽかんと開けたまま、俺は絶句した。
コーヒーを置き、部屋を出ようとした明美が、ドアの前で立ち止まって振り返る。
「子どもって、大人のやることをよく観察してるからさ。気をつけた方がいいかもよ」
そう言ってニヤリと笑い、明美はドアを閉じた。
行き場のない感情を抱えたまま、俺はキーボードに突っ伏した。