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奇妙な味のレストラン

台風の日、居酒屋で

作者: 恵良陸引

 最近、台風など大きな自然災害があると、JRを始めとして各交通機関が運休の措置を取るようになった。たしかにひと昔と違って、台風の威力は強いものになったし、こうした対応は当然なのだろう。

 このようになったのは、過去にいくつもの事故を経験しているのは事実だ。一九八六(昭和61)年の12月、兵庫県で起きた「余部あまるべ鉄橋列車転落事故」は、強風による警報があったにもかかわらず、鉄橋に侵入した列車が風の力で転落したという事故だ。その事故で6名の命が奪われた。私がまだ学生のころの事故だったが、小学生だった時分の夏休みに旅行で余部鉄橋を渡った思い出があったので衝撃を受けた。左右が何もない高い鉄橋を走る列車から、外の風景を夢中になって眺めていたものだ。冬の日本海から吹きつける強い北風にあおられれば、あの高い鉄橋から列車が転落したのも無理はない。それ以来、強風によって電車が止まることが各地で増えてきた。

 それでも、「ある出来事」の頃はまだ、台風が来るから事前に運休するということはなかった。台風の通過中に徐行ではあるが電車が運行されることはあったのだ。

 ちなみに、「ある出来事」というのが今回の話である。


 当時、私は勤めていた会社を辞めて、実家の家業を継いで2年ほど経ったころだった。実家の家業とは『古書店』業である。店主だった父が亡くなり、母が店を続けていたのだが、体調を崩して働けなくなった。ちょうどその頃、会社勤めに疲れていた私は、本気で退職を考えていた。私も体調を崩していたが、原因は深夜にも及ぶハードワークだった。結婚して娘が生まれ、人生としては充実していたと思うが、あの頃の私はそんなふうに捉えられる心理状態ではなかった。このまま働いていると死んでしまう――。そんな恐怖心に私は囚われていた。ちょうど「過労死」という単語が新聞などで見られるようになって間もない頃である。その当時は、英語辞典に「KAROUSHI」はまだ掲載されていない。

 父が残した古書店は子供のころから親しんでいたこともあって、閉店させるのは忍び難かった。それと、娘が手のかからない年頃になって、妻が職場に復帰した。妻は司書の資格を持ち、市立の図書館で働いていた。私の収入が落ち込んでも生活はできるだろう。本が好きである妻の理解もあって、私は古書店を継いだのである。

 私の店は神戸の山本通の一角にある。異人館のシュウエケ邸へは、徒歩5分ほどの距離だ。北野通りなど、こじゃれた店が並ぶところとは違い、小さく、薄汚れた店が肩を寄せ合っているようなところで、さらにオンボロの店である。店内は六畳の広さはある。しかし、どこの古書店でも同じだが、分厚い本棚と大量の書籍で、数人入れば息苦しくなるほどの狭さだ。私は店の奥で本を片手に店番をして過ごした。

 もちろん、店番だけで勤まる仕事ではない。各地から古書を買い集めて店に並べるのは当然として、依頼を受けて本を探すのも古書店の仕事だった。私は父や母の顧客を引き継いで、あちこちへ本の買い付けに出かけていた。それほど、のんびりできる仕事でもなかったのである。


 ある顧客から依頼された本が姫路で見つかったと知らせを受けたのは、ある年の9月のことである。依頼の本をあちこちへ問い合わせして、数日で返事を受け取ることができた。

 その日は火曜日で、休業日にしていた。基本的に、私は店の休業日に本の買い付けに出かけている。今日出かければ、依頼の品を手に入れられる。私はすぐ伺いますと返事した。すると、電話口で戸惑ったような声が聞こえてきた。意外そうな反応だったのである。

 「どうかしました?」

 「あんた、天気予報を見とらんかったんか? 今日は台風が来るんやで」

 たしかに、ここ数日、テレビも見ていないし、新聞も読んでいなかった。言われてみれば、妻が出勤する前に私と娘へ何か言っていたようだが、娘が返事していたので私は気にしなかったのだ。あれは、台風が来るから気をつけるようにとでも言っていたのだろう。

 「台風ですか」

 「今日の昼頃、四国に上陸するってな。そのまま、まっすぐ上って来たら、姫路の上を通過するらしいで」

 私は壁に掛けてある時計に目を向けた。10時を少し過ぎたぐらいである。急いで三ノ宮駅まで向かって新快速に乗れば、姫路までは1時間で着く見込みだ。さらに目的の店までは普通電車に乗り換えて数駅かかるが、家を出る時間から合わせても2時間程度で行けるだろう。

 「今すぐ向かえば、台風が来るより先に帰れそうです。長居はできませんがよろしくお願いします」

 私がそう言うと、向こうの店主も了解したと返事した。そこで私は急いで身支度を整えて出かけたのであった。


 新快速に乗るまでは順調だった。いや、姫路に着くまでは順調だったと言うべきだろう。ただ、車内では、台風の影響で運行を停止したり、遅延が発生したりする恐れがあると不吉なアナウンスが流れていた。その凶兆の前ぶれかのように、乗り換えの電車がなかなかやって来なかった。やがてホームに流れるアナウンスで、待っている電車が急病人のために遅れていることを知らされた。「こんな時に限って」というのは本当にあるものだ。

 時間は昼を過ぎている。台風はもう四国に上陸したころだろう。家を出たときは青空だったのが、黒い雲に覆われかけている。南から吹く風の勢いも強くなり、さすがに焦りの気持ちが生まれていた。ホームには駅そば「まねき」の看板が見える。時間に余裕があれば、そこで軽く昼食を済ませたいところだが、食事中に電車が着て乗り遅れることは避けたい。結局、駅そばは断念した。

 待っていた普通電車は十数分ほどの遅れで到着した。私は電車に乗り込みながら、これだったら駅そばを食う時間はあったなと少し後悔した。こうなれば、早く用事を済ませて店に戻ろう。頭の中にあったのは、その考えだけだった。

 目的の店に到着すると、店主が私の顔を見るなり「本当に来ちゃったね」と呆れた声をあげた。皺で目が隠れているような人物だ。当時の年齢は知らないが、70歳は確実に過ぎていたはずである。

 「来ないと思ったんですか?」私は苦笑いを浮かべた。社交辞令で言ったつもりはなかったのに。

 「いや、外に出て気が変わるかもと思ったんだわ」店主は首を伸ばして窓の外を見上げた。店主の言う通り、だいぶ空模様は怪しくなっていた。

 「ですから、早く戻ろうと思います。例の本、どこですか?」

 私は口早に言って店主をせかした。雨がぱらぱらと降り出して、店主がのぞいていた窓を叩き始めていたのだ。

 店主が差し出した本を、私は慎重に検めた。急いているとはいえ、勘違いなどで間違った本を仕入れるわけにはいかないからだ。それは間違いなく依頼の本だった。私はその本を仕入れることにした。

 台風で本を濡らさないようにと、店主の用心でビニールにくるまれた本を受け取り、私は店を出た。風はまだ強くないが、雨の勢いが増している。私は用意した折り畳み傘を広げて駅への道を急いだ。駅に到着すると、ちょうど姫路行きの普通電車がやってきたので、それに乗り込んだ。雨足がさらに強くなり、私はやれやれとため息をついた。

 姫路に着くと問題が起きた。新快速が止まったというのである。当時のJRは一斉に運休するわけではなく、長距離を走る高速車両から順次止めていた。いや、それは今でも変わらないのかもしれない。

 快速電車はまだ動いていたが、途中から明石駅まで各駅に停まるので事実上は普通電車だ。けっこう時間がかかる。ここで台風が過ぎるまで時間を過ごすという選択肢は存在していたが、早く戻りたいと考えていた私に、そんな考えはまったく浮かばなかった。それで、やって来た快速電車に乗り込んだのである。正直、これが失敗だった。

 私が乗った快速電車は、初めは快調に進んでいた。加古川を過ぎ、明石に入った。しかし、そこで速度が落ち、やがてある駅で停まってしまった。

 いつ動き出すのだろうと車窓から外を眺めていたら、残酷なアナウンスが響いた。この電車は台風通過のため、ここで運行を停止するというのだ。ついては、乗客はいったん、この電車から降りてほしいとのことだった。

 そのとき乗っていた車両にはあまり人が乗っていなかった。昔の記憶なので正確ではないが、それでも10人は越えていなかったように思う。1両でそれぐらいなので、全車両を合わせても百人を越えていたかどうかだと思う。

 これまで降りたことのない駅である。できれば運行再開になるまで車両に乗っていたかった。同じ考えらしい乗客とともにぐずぐずしていると、車掌が現れて降りてくださいと言った。私はどうかこの車両で待たせてもらえないかと頼んだが、「降りてください」とにべもない返事だった。やむなく、私は雨が降りしきるホームに出ることにした。

 私が最後の乗客だったのか、私がホームに出るなり、快速電車の中の明かりが消えた。慌てて屋根のあるところまで駆け込むと、今度はホームの明かりまで消えてしまった。早く駅から降りろと急かされているようだった。

 私が改札を出ると、そこは小さなロータリーになっていた。ちょうど最後のタクシーが走り去るところだった。少ししまったと思ったが、ここから家までは何十キロとある。平日の昼とは言え、タクシー代はとんでもない額になるだろう。この本一冊のためにかかる経費としては高すぎる。私は力なく辺りを見回した。駅の出入り口には電話ボックスがひとつ設置されていたが、そこには行列ができていた。携帯電話が普及する前のことだ。家族や知り合いに迎えを頼むにも、連絡手段がそれほど便利でなかったのだ。ただ、当時の私に携帯電話があったとしても意味がない。妻は朝から仕事に出かけて不在だし、娘はまだ小学生だ。明石のどことも知れない町に迎えになど来てもらえそうにないからだ。

 降りた駅は雨宿りに困るほど小さい駅だった。タクシーを待つベンチが置いてあるが、それはすでに雨ざらしの状態だった。ベンチの上には屋根がついていたが、あまりに小さくて雨避けの役にはまるで立っていなかった。

 風はどんどん強くなってきて、雨は横殴りに降っている。大粒の雨がばしゃばしゃと私のズボンを濡らしていた。私は近くで開いている店で雨宿りしようと考えた。


 駅から降りたときから辺ぴなところだと思っていたが、改めて駅の周囲を見回すと、さらに思い知らされた。まず、開いている店が無い。もっとも、台風が来ているので、早々と店じまいしたところもあるのだろうが、見渡すかぎり開いている気配の店が見当たらなかった。灰色のシャッターが下りた洋菓子店、真っ暗で奥が見えなくなっている喫茶店。立ち食いうどんの店ものれんが見えなかった。もっとも、座って休みたいと思っていたので、その店が開いていても入らなかったとは思うが。

 どこか開いているところはないかと、すでに役に立たなくなっている傘をさしながら歩いていると、かなり古びた戸から明かりが漏れているのが見えた。空があまりに暗くなったため、店内の明かりに気がつきやすくなっていたのだ。

 そこは居酒屋だった。かなり小さく、かなり古い店だ。木の引き戸はまっ黒に変色し、しっかりと閉まっていなかった。おかげで戸の隙間から店内の明かりが漏れていたのである。辺りが暗いとは言え、時刻は昼の1時前である。さすがに開いてはいないだろうと思いながらも、私は戸を開いて店の中をのぞいてみた。

 店内は外の見た目を裏切らない狭さだった。カウンターに6つほどの丸椅子がある程度で、壁から天井まで、何もかもがくすんでいた。

 店内には3人の客が座っていた。いずれも服のどこかが濡れているので、私と同じように電車から降ろされた客だと想像できた。カウンターにはシャツ姿の店主らしい男が立っている。背丈は私ぐらいで、年齢は私より少し年上か、同い年のようだ。店主らしい男は、私の顔を見るなり不機嫌そうな表情を見せた。

 「本当は開いていないんすよ」明らかに迷惑そうな声だった。

 「申し訳ない。電車が動くまで、ここに居させてください」

 私は片手を立ててお願いした。もし、ここを追い出されたら、ますます強くなる雨の中で台風をやり過ごさなければならない。さすがに、それはごめんだった。ただ、勝算というか、断られるとは思っていなかった。すでに3人の客を入れている状態の店主が断るはずがない。私はそう高をくくったのである。

 「電車が動くまでだよ」店主は短く言った。私はうなずくと丸椅子に座った。ようやくひと息ついた気分になる。

 「もし、お兄さん。そんな離れたところに座らず、こっち、どうです?」

 私に一番近いところに座っている男が話しかけてきた。年齢は30代後半から40代前半あたりか。丸顔に丸い目と丸い鼻がついている印象の人物だった。小さなグラスを振って、私を誘っている。

 「お邪魔じゃないですか?」私は奥のふたりに目を向けながら尋ねた。3人とも知り合いではないかと思ったのだ。

 「いや全然」一番奥の人物が手を振って否定した。こちらは40代あたりだろう。黒々とした髪に太くて黒いふちの眼鏡が印象的だった。細面の人物だ。

 「実は、たった今、一緒になったところなんですよ」真ん中の人物が説明してくれた。こちらは年齢不詳だった。30代にも50代にも見える。私の手前で座る丸顔さんのように輪郭が丸く、肉付きの良い頬のおかげで年齢はどちら側とも取れるのだ。彼だけが勤め人らしいワイシャツ姿だった。両隣の人物は、いずれもこじゃれたカジュアルの格好だ。いずれも落ち着いたグレー調の服だが、雨に濡れた部分は黒っぽい見た目に変わっていた。

 「さっきの快速に乗ってらしたんですか? 僕も強制降車の憂き目に遭った者です」

 私がそう言うと、丸顔さんは苦笑しながら「やっぱり」と言った。

 「みんなそうですよ、みんな」一番奥の眼鏡さんが呆れたような態度でグラスを傾けた。グラスにはビールが入っていた。

 「すみません、僕にもビールを」

 私は店の奥に声をかけた。店主は私に注文を取らずに奥へ引っ込んでしまったからだ。明かりの無い奥の間で姿が見えなくなっている。

 「ああ、それなら、これを一緒に空けましょう。清算はワリカンで。そのほうが安上がりでしょ」

 丸顔さんが瓶ビールを持ち上げてみせた。

 「いいんですか?」

 「この店はセルフみたいですよ。ビールだって、ホラ」

 眼鏡さんが自分の正面に手を伸ばした。そこはガラス張りのケースにビールが並んでいた。中のビールはすべて冷えているようだ。

 「ここから勝手に取り出して、飲んでいいみたいです。そりゃ、いちいち出してやるより手間が要りませんからね」

 「栓抜きもここに。すべてセルフってわけです」

 ワイシャツさんは陽気に笑って栓抜きを持ち上げてみせた。

 「……お仕事中じゃないんですか?」私はワイシャツさんの格好を見ながら尋ねた。いかにも仕事中の姿なのだ。

 「大事な用事は済ませました。後は書類整理だけです。この台風じゃ、社に戻れるのは夕方以降でしょう。そうなりゃ、上司たちは帰っていますからね。まぁ、晩酌の前借みたいなもんです」ワイシャツさんはそう言うと快活に笑った。

 「なるほど」私も笑って丸顔さんの隣に座った。

 私は目の前のトレイからグラスを取り出すと、丸顔さんが上手にビールを注いでくれた。

 私のグラスにビールが注がれると、何となく4人で「乾杯」となった。グラスを半分ほど空けると、今度は何となく自己紹介になった。

 最初に、私に話しかけてくれた丸顔さんが丸田さん。自動車販売の会社で働いているとのことだった。奥の席で眼鏡をかけていたひとが奥野さん。彼はフリーのデザイナーである。そのふたりに挟まれて座っていたのが真中さん。彼は印刷の営業マンだった。

 私も自己紹介すると、三人は「ほう」と興味深げな表情になった。古書店の店主というのが珍しかったようだ。

 「ええっと、古書店というのは儲かるものなんですか?」

 丸田さんはズバリと尋ねてきた。私は苦笑いするしかなかった。

 「儲かりません。一日の売り上げが数千円なんてざらです。店先に並べている文庫本はよく売れますが、それらは一冊百円か二百円ってところですから」

 「百冊売って、ようやく一万円ですか。たしかに大変ですね」

 奥野さんはビールを口に運びながらつぶやいた。

 「一日で百冊なんて売れたためしなんてありませんよ」

 私もビールを流し込みながら奥野さんに言った。店を継いで2年あまりだが、両親の苦労をしみじみと味わっていた。今さらだが、大学まで行かせてもらったことを感謝している。

 「80年代は好景気だったと言えるんですがね。今は見る影もありませんや。でも、そちらは、あまり景気に左右されないんじゃないですか? こっちはこないだまで売れていたクルマが売れなくなりましたよ」

 丸田さんはボヤくよう言った。家業を継ぐ前は営業職だったから、丸田さんの嘆きはよくわかった。突如起こった平成大不況のせいで売り上げの数字に追われるようになり、私はワーカホリックになりかけたのだ。

 「景気に左右はされませんが、『良いとき』がない商売ですよ」

 私の返事に真中さんが「ハハハ」と笑った。「じゃあ、なんでそんな商売をしているんだ」とは突っ込まれなかった。儲かることがすべてではないと理解していたのかもしれない。

 「デザインの仕事も変わってきましたね。今までは見栄えが良ければ何でも良かった風潮だったんですが、最近言われるのは『売れるデザイン』ですよ」

 「デザインって、具体的に何をデザインされているんですか?」

 「パッケージデザインですよ。主に化粧品の。ファンデやパウダー、そして美肌クリームまで。まぁ、いろいろと、です」

 「ウチの嫁さんが使っているようなやつをデザインされているんですか?」

 真中さんは少し大きな声で尋ねた。奥野さんは「そうかもしれませんね」とだけ答えた。

 それから、しばらくは互いの仕事の話で時間が過ぎた。何かつまむものが欲しいと思い、店の主人に何が注文できるか尋ねてみた。主人はずっと店の奥に引っ込んでいたが、私に呼ばれると顔だけ見せて、「今日は何も仕込んでないよ。いつも買出しに行っている嫁も今日はいないんだわ」という返事だった。

 「あるものでええねん」

 丸田さんが拝むようにして頼むと、主人はようやく姿を現わして、カウンターの下をのぞき込んだ。そこに小さな冷蔵庫があったらしく、何かを開く音が聞こえた。主人はしばらく中を調べていたようだが、やがて顔を見せると、「これぐらいしかないよ」とかまぼこを持ち上げてみせた。メニューを見ると『板わさ』と書いてある。

 「じゃあ、それ、板わさで」私がメニューを指さしながら言うと、主人は仕方がなさそうにうなずいた。

 適当な厚さに切られたかまぼこが皿に並べられ、私たちの前に出された。

 「ご主人、しょうゆ……」奥野さんが箸立てから割りばしを取り出しながら言うと、主人はカウンターを見下ろしながら、何やら考えている様子だった。奥野さんの声が届いていないようだ。

 「おい、ご主人……」

 奥野さんが少し声のトーンを上げたとき、店の戸がガタガタと音を立てた。私たちがいっせいにそちらを向くと戸が開かれ、ふたりの警察官が顔をのぞかせていた。背後の風景は夜になったかと思うほど暗く、激しい雨が警察官の帽子に叩きつけられていた。

 「ちょっとよろしいでしょうか?」ひとりの警察官が私たちに話しかけた。


 「ちょっと、このご近所で強盗事件が発生しまして、現在、容疑者を追っているところです」

 警察官は私たちに訪問の理由を話した。私たちは顔を見合わせた。

 「追っている……ということは、まだ捕まっていないんですよね?」

 奥野さんの質問に、警察官は素直にうなずいた。「そのとおりです」

 私たちは再び互いの顔を見合わせた。

 「被害者によれば、容疑者は30代から40代の男で、黒っぽい服を着ていたそうです。身長は一七〇センチ前後。ざっと、こういう特徴なんですが……」

 もうひとりの警察官が私たちを順に眺めながら言った。私は身体が強張るのを感じた。そのときの私はグレーの上着で出かけていた。その上着は雨に濡れて黒っぽい色になっている。年齢的にも、身体の特徴も、警察官の説明する強盗犯に該当するのだ。

 「ええと、皆さんはお知り合いで?」

 警察官はさらに質問を重ねる。

 「いいえ。僕たちは、皆、ここで知り合ったんです」

 真中さんは首を振りながら正直に答えた。

 「台風で電車が止まりまして」

 奥野さんが警察官の立っている方角を指さしながら言った。警察官は後ろを振り返り、明かりの消えた駅舎を見た。「ああ、駅から出されたんですか」警察官も事情がわかったようだった。

 もうひとりの警察官は店主に顔を向けた。「じゃあ、ここの皆さん。顔なじみじゃないんですか?」

 店主は腕を組みながらうなずいた。「一見いちげんさんだよ」

 警察官たちは互いを見やって小さくうなずいた。

 「では、皆さん。申し訳ないんですが、身分を証明するものをお持ちか確認させていただけませんか?」

 予想通りのことを言ってきた。

 私は名刺と免許証を見せた。真中さんも同様だ。丸田さんは休みでの外出だったので、免許証だけを見せた。奥野さんが困惑気味に申し出た。「僕、名刺ぐらいしか持っていないんですよ。車の運転はしないので」

 「名刺だけで構いませんよ」警察官は安心させるように言った。この段階では警察官は強い態度を取らないようだ。

 ひとりが名刺や免許証を検めている間に、残りの警察官は私たちにざっと事情を尋ねてきた。どんな用事で電車に乗っていたのか。いつ、この店に入ったのか。電車からこの店まで誰かと一緒だったのか。

 そのやり取りで、4人はバラバラに店に入ったのがわかった。席の並び通りに、奥野さん、真中さん、丸田さん、私の順である。そのため、電車から互いが一緒だった者は誰もいなかった。つまり、電車の乗客だったと互いに証言できる者はいなかったのである。

 私は警察官が事情を確認している間、不安を隠すことができなかった。もちろん、私は強盗犯ではないが、参考人として連れていかれはしないかと思ったのだ。勤め人であれば会社に問い合わせてもらえば身の潔白も簡単に晴らせそうな気がする。しかし、私はしがない古書店の店主で、店に私の無実を証明できる者はいないのだ。

 私の心配は杞憂のようだった。警察官はひと通り確認を終えると、「今後、何かあれば、お尋ねすることがあるかもしれませんが」と言いながら頭を下げた。テレビドラマのように敬礼はしなかった。あれは一般人向けにしないのだ。警察官は扉を丁寧に閉めて去っていった。

 「あっさりと行ってしまいましたね」

 丸田さんは閉められた戸を見つめながら、私が考えていたことと同じことを口にした。ほっとしたよりは、やや拍子抜けしたような感じだ。店主は警察官がいなくなると、さっさと奥へ引っ込んでしまった。

 「ほかにも当たらないといけないんでしょう。こっちに時間かけてられないんですよ」

 真中さんが私のグラスにビールを注ぎながら言った。私のグラスを満たすと、ほかのグラスにも注いでいく。真中さんなりに仕切り直そうというのだろう。全員のグラスがいっぱいになると、私たちは合図もなしに乾杯した。みんな同じ気持ちだったかもしれない。

 「警察官は行っちゃいましたが……」

 丸田さんはさっさとグラスを空けてしまうと誰にともなく話し出した。

 「実際のところはどうなんですかねぇ……」丸田さんはぐるうと顔を巡らせて、私たちの顔を順に眺めた。

 「実際、何です?」奥野さんがグラスを口につけたまま尋ねると、丸田さんは声を低めて言った。

 「この中に強盗犯が紛れていないのかって話です」


 「何言ってるんです、丸田さん」

 私は自分でもわかるほどの呆れ顔で言った。警察官がここに長居せず立ち去ったのは、私たちに不審な様子が見られなかったからだ。真中さんが言った通り、警察官は怪しくない私たちにかかずらってはおられないのだ。

 「通り一遍の確認をしただけです。周囲の確認を終えると、これまでに当たったところから容疑者を絞り込むんじゃないですか?」

 丸田さんは主張を曲げようとしない。

 「仮に、僕たちの中に、その強盗犯がいるとして、どうすると言うんです? 僕たちで強盗犯を捕まえるつもりですか?」

 奥野さんは面白くないといった表情だ。丸田さんは片手を左右に振りながら奥野さんに笑いかけた。

 「いえいえ。もし、本気で考えていたら、口にはしませんよ。ただ、僕たちは本当に強盗犯でないのか、主張し合って証明できたら面白いかなと思って。警察官が示した手がかりを元に犯人像を推理してみるんですよ」

 「推理?」

 真中さんが不思議そうに言った。私も同じ気持ちだ。

 「手がかりって、警察は僕たちに手がかりなんて話しましたか?」奥野さんは相変わらず不機嫌な表情だ。しかし、口ぶりからは少し興味を抱いたように感じた。

 「警察官は、『被害者によれば』って言いました。つまり、決定的な目撃者がいるということです。ですが、誰なのかはわかっていない。つまり、被害者は犯人と顔見知りでなかったことを示唆しています」

 丸田さんに説明に私はうなずいた。「そうですね」

 「強盗は今日、台風が来ることを知らなかったんでしょう。こんな日を選んで強盗しようなんて考えないものです。しかし、犯人は今日のこの日に事件を起こしてしまって、逃走が困難になっている。何せ、電車は止まってしまっている。タクシーの前には行列だ。なかなか乗ることができない。たとえ行列に並んでも、自分の番までにタクシーが残っているか怪しいものです」

 私はゆっくりとうなずいた。丸田さんが降りたときには、数台はタクシーが残っていたかもしれない。しかし、私が駅から出たときには、タクシーはすべて出払ってしまっていたぐらいなのだ。

 「このあたりは小さい町だから、なかなかタクシーも捕まえられないでしょう。そう考えれば、犯人はこの近辺にまだいるかもしれません」

 「だからって、僕たちの中に犯人がいる根拠にならないでしょう」

 奥野さんが言うと、丸田さんは片手を左右に振った。

 「いえいえ。僕たちは全員、ここに住んではいません。強盗というのは、自分が住んでいるところは避けると思うんです。被害者が自分のことを少しでも知っていれば、簡単に割り出されてしまいますから。その点は根拠になると言えるでしょう。さらに、僕たちは台風で立ち往生することを予想できなかった、あるいは、知らなかった者たちです。現場から立ち去ることができず、やむなく居酒屋に逃げ込んだって話はありうるんじゃないでしょうか?」

 奥野さんは降参したように両手を広げた。「可能性は認めるとして、どうやって推理していくんです? そんなに手がかりはないでしょうに」

 「そこを推理するのが面白いんじゃないですか。台風が過ぎ去るまでのゲームってことですよ」

 丸田さんは面白そうに言った。


 「『九マイルは遠すぎる』ですね」

 私はビールを飲みながらつぶやいた。

 「九……何です?」

 真中さんが私に聞き返した。

 「『九マイルは遠すぎる』。ハリイ・ケメルマンの短編です。『九マイルの道を歩くのは容易じゃない、ましてや雨の中となるとなおさらだ』という言葉を耳にした主人公が、探偵役の友人とともにその言葉を分析していくんです。すると、そこからとある殺人事件の真相が明らかになる。そんなミステリです」

 「たったそれだけの言葉から殺人事件を? へえぇ、そんな話があるんですか。さすが古書店をなさっているだけありますね」

 真中さんは感心したようにつぶやいた。

 私は苦笑いを浮かべる。「ミステリはよく読むんです」

 丸田さんは「それ!」と人差し指を立てながら私のほうに向いた。

 「僕がやりたいのはそういうことなんですよ!」

 「これまでのわずかなやり取りから、僕たちの中から強盗犯をあぶりだそうって言うんですか? フィクションなら面白いのでしょうが、実際はね……」

 私はそう言いながら奥野さんに視線を向けた。同意を求めるつもりだったが、奥野さんは、いかにも仕方がないという風に苦笑を浮かべていた。

 「まぁ、ここでの時間潰しのフィクションってことなら」

 「まだ、電車は動きそうにないですからね」

 丸田さんはそう言いながら席を立つと、戸を少し開いて外を見た。床からゴツゴツという音が聞こえたので足元を見ると、丸田さんは右足をギプスで固めていた。入り口の脇には松葉杖が立てかけられている。おそらく丸田さんが使うものだろう。

 「やっぱり、駅に明かりはついていませんね。もうしばらく、ここにいるしかないようです」

 丸田さんが席を離れたので、私は丸田さんが座っていた席に移ることになった。丸田さんは、にこにこしながら席に座った。自分が強盗犯として指摘されるかもしれないゲームを面白がっているようだ。

 「では、まず、誰から検証しますかね?」

 真中さんが切り出した。このゲームに乗り気でない私は、私の無実を早く証明させようと手を挙げた。「まずは、僕から」

 「ほう、古書店さんから。意外と積極的ですね」

 丸田さんは嬉しそうな声をあげた。ゲームに乗ってくれたのが嬉しかったようだ。

 「僕の無実は簡単に証明できそうだからです」

 私の返事に、丸田さんは「自信ありげですね」と驚いたような顔を見せた。とは言っても、わざとらしく大げさなものであったが。

 私は鞄からビニールに包まれた本を取りだした。

 「これは石川重右衛門の手記です。『宝暦巷説記』という題名で、江戸時代の本です」

 「いったい、どんな本ですか?」

 「石川重右衛門が何者なのか、具体的にはよくわかっていません。ただ、江戸時代の中頃に存在した方で、宝暦年間に起きたさまざまな事件に対し、世間の人びとがどう噂していたかを書き留めているんです。この書籍に書かれた事件そのものについては、別の資料で実際に起こったものだと確認できるのですが、当時の人びとがそれらの事件をどう感じていたのか、あるいはどう考えていたのかを知ることができるのがこの書籍の特徴です。まぁ、噂話ばかりを集めたような感じもあり、歴史資料としては一級ではありませんが、それでも当時の世相を考察するのには貴重な文献と言えるでしょう」

 「値打ちものなんですか?」真中さんが私の手元をのぞき込んで尋ねた。

 「宝暦時代は一七五〇年代から六〇年代になるんですが、『宝暦事件』や『上田騒動』とか大きな事件もあったころでした。明治維新はそれから百年後になるのですが、江戸幕府が少しずつ弱体化しているのがうかがえる時代でもあります。そんな時代の本なんです。近代を研究する方には貴重なものですよ」

 「……で、それが?」奥野さんは私の話についていけなかったらしい。話を先に促そうとした。

 「この本は貴重であり、価格もそれなりに張るものです。私はこれを今日、姫路で仕入れました。雨に濡れては事なので、こうして厳重にビニール包装されているわけです。こんなに大事な本を抱えているのに、強盗なんてしませんよ」

 「いや、そうとは限りませんね」

 丸田さんはすぐ否定した。

 「強盗の目的が、それだったらどうします? 僕たちが聞いたのは強盗事件が起きたということだけです。警官は、別にお金を奪われたとは言っていません。被害に遭ったのは、その本かもしれないんですよ」

 なるほど、そうきたか。私は自分のあごに手を当てた。これは一種のディベートだ。論理的に「私が強盗犯」であることの矛盾点や問題点を指摘しなければならないのだ。

 「仮に古書店さんが、その本目的で強盗を行なうのであれば、それこそ台風の日は避けるんじゃないですか? せっかく本を奪っても、この台風で希少な本を濡らしてしまっては台無しだ」

 奥野さんが救いの手を差し伸べてくれた。しかし、それにも丸田さんが首を振った。

 「実際に、古書店さんはこんな台風の日に、貴重な本を仕入れに出かけているじゃないですか。それは、たとえ台風であっても、手に入れなければならない事情があったからですよ。たとえば、店を空けて出かけられるのが今日だけだったとか、今日中に手に入れられなかったら、よそに取られる恐れがあったからとか」

 私は反論できなかった。丸田さんの言う通りだったからである。

 「いや、古書店さんが、その本を奪う目的で強盗を起こすとは考えられない。警察官の説明では被害者は犯人についてある程度の証言ができていた。古書店さんが強盗犯であれば、被害者とは面識があったはずです。希少な本の情報をやり取りしているぐらいですからね。ですから、被害者はすぐに古書店さんの名前と正確な身体的特徴を警官に伝えていますよ」

 今度は、真中さんが反論してくれた。

 「なるほど、その通りですね」丸田さんはうなずいた。

 私はほっと息を吐いた。私が犯人ではないことが証明できて、心底ほっとしたのだ。このゲームはどうも心臓に悪い。


 「じゃあ、次は僕の番でいいですか。言い出しっぺでもありますしね」

 私の次に手を挙げたのは丸田さんだった。そうするのが当然だと思っているようだ。

 「僕が電車に乗ったのは、この足のせいです。足首を骨折しましてね」

 丸田さんは自分の足を指さした。

 「面倒臭い箇所をやっちまいまして、近くの病院では手術できないって言われたんです。そこで姫路の大きな病院で診てもらいまして、この間、手術まで済ませたんです。で、経過観察と薬をいただくために、今日病院に行ったんですよ。火曜はうちの会社が休みの日なので。現在、松葉杖を使えば、デスクワーク程度はできますが、まぁ、この足で強盗するなんて考えにくいでしょう? 僕も無実ってことになりますよね」

 「どうかな、それは」

 奥野さんが異議を唱えた。「そのケガがウソではないと証明できるのですか?」

 「強盗するための偽装だと言うんですか? 参ったなぁ」

 丸田さんはにこにこしながら頭をかいた。言葉とは裏腹に全然参っていないようだ。ただ、こういう状況を楽しんでいるのだろう。丸田さんは背後を向くと、壁に掛けてある上着に手を伸ばした。ポケットを探ると、なにやら白いものを引っ張り出してきた。

 「証明になるかですが、今日、病院でもらった薬です。今日の日付と用法が書いてあります。薬の手帳には、痛み止めと化膿止めの効能が記載されています。薬袋と手帳には僕の名前が書いてありますし、僕がケガをしていることは間違いないでしょう。ケガ人の僕が、ケガを押してまで強盗はしない。どうです?」

 「……ま、いいでしょう」

 奥野さんは仕方なく認めた感じだった。

 「さて、次はどちらにされます?」

 丸田さんはワクワクした様子で真中さんと奥野さんを交互に見た。すると、真中さんがそっと手を挙げた。

 「じゃあ、僕で……」

 どことなく「やれやれ」という声が聞こえそうな手の挙げ方だった。

 「僕は神戸の印刷会社の営業です。今日は姫路にある美術館へ、次回の展覧会で販売される図録集の校正をお届けしたんです。本当は昨日校正をあげて、発送するつもりだったんですが、色の調子が見本通りに出なかったのでやり直したんですよ。結果、今日の昼近くまでかかりまして、急ぎ、届けに行った訳です。展覧会まで日取りが決まっていますから、台風だからって遅らせるわけにいかなかったんです」

 「車では行かなかったんですか?」私は質問した。

 「車じゃ時間がかかるんです。高速を利用しても、柳原あたりから月見山過ぎまで、いつも渋滞していますからね」

 「ああ、そうか」私は納得した。阪神高速や第二神明道路は、いつも真中さんの言ったあたりが渋滞するのだ。渋滞は10キロ以上に及ぶこともあり、そこを通過するだけで1時間かかるのも珍しくない。前職では車を使うことがあったので、真中さんの言うことはよくわかった。

 「たしかに、姫路まで車で行くのは大変ですね。特に平日は」

 私がそう言うと、丸田さんは真中さんの顔を見ようと、カウンターの前に顔を出してきた。

 「仕事ではあちこちをよく回られるんですか?」

 「ええ、まぁ」

 「一日、会社に戻らず出かけていることも?」

 「そりゃ、ね……」

 「では、会社では、日頃、あなたが外で何をされているか把握しきれていないんじゃありませんか? もし、あなたが外回りのついでに強盗を働いても、疑ったりしないのでは?」

 「な、何を!」

 真中さんは真っ赤になって立ち上がった。私は慌てて立ち上がって、真中さんの肩を押さえた。

 「本気で怒らないで下さい。ここでの話は、もし、ここに強盗犯がいるとしたらって仮定した話なんですから」

 丸田さんは落ち着いた様子で言った。悪びれる様子もない。

 「ケンカはかんべんだよ」店の奥から店主の声だけが聞こえた。

 「大丈夫、大丈夫ですよ」奥野さんが手でメガホンを作って応え、真中さんはどすんと椅子に腰を下ろした。不機嫌そうにグラスのビールをあおる。私は空になった真中さんのグラスにビールを注いだ。

 「仮に、僕が日頃、外回りのついでに強盗をしている者だとして、今回の事件が僕だと言えますか?」

 真中さんはグラスを持ち上げながら静かに尋ねる。私は論点を整理しようと考えた。

 「真中さんが犯人であるなら、ここで途中下車したのは、僕たちが乗っていた電車より先の電車でなければなりません。そうでなければ、事件を起こす時間がないからです。僕たちは駅から強制的に出されて、すぐにこの店へ駆け込みました。10分もないでしょう。それまでの時間にどこかで事件を起こして、この店に駆け込むのは時間的に無理です」

 「なるほど」丸田さんはうなずいた。

 「そう考えれば、真中さんが事件を起こしたことは考えにくくなります。たとえ、先の電車であっても15分ほど余分に時間があるだけです。今日は、昼前から、台風の影響で電車が止まったり、遅延したりするかもしれないと、車内アナウンスで流れていました。午前中に姫路へ向かっていた真中さんが、そのアナウンスを聞いていないことはないでしょう。つまり、今日に限って事件を起こそうと考えないはずです」

 「そうだ。僕もそのアナウンスは聞いていた。だから、校正をお渡しすると、急いで戻ろうとしたんですが、結局、台風に捕まったんです」

 真中さんが勢いよく言った。ここが自分の無実を主張するところだと思ったようだ。

 「つまり、今日のように、いつ電車が運行停止になるか知れないのに、途中下車して強盗を企てないだろうということです。実際、現在逃走中の強盗犯は逃げるのに窮しているはずですからね」

 私が重ねて言うと、丸田さんはうなずいた。「そういうことで、真中さんもシロですね」にっこりと真中さんに笑いかける。その無邪気な丸田さんの笑顔に、真中さんも苦笑いを浮かべた。

 「じゃあ、トリは僕ということやね」

 奥野さんは眼鏡をかけ直しながら言った。

 「僕は今日、あるクライアントとの打ち合わせのために姫路に行っていた。本当は午後からの予定だったが、台風の都合で打ち合わせを前倒しにしたんだ。僕のオフィスは芦屋にあって、それに車は運転しないからね、電車で出かけたんだ。電車ならゆっくり座って移動できるしね。それに、須磨から塩屋までの海の眺めも好きだから、姫路に向かうときはJR一択だったよ」

 私はうなずいた。私は鉄道ファンではないが、車窓から見る須磨海岸の風景は好きなのだ。子供のころ、夢中で眺めた余部鉄橋から見た景色も思い出す。奥野さんの気持ちは個人的に理解できた。

 「正直なところ、台風を舐めていた。帰りで捕まるなんてね。このあたりは、何度も通過しているが、この駅で降りたのは今回が初めてだ。この店だって初めてだ。何町なのかも知らないし、どこをどう歩けば、どこに着くのかもわからない。だから、こんなところで強盗なんてしないね。帰りの道がわからなくなって、警察に捕まったりしたら、とんだ間抜けじゃないか」

 「道に不案内だから、犯人じゃないという主張ですか?」

 丸田さんは首を振った。「それを客観的に証明できなければ信じられませんよ。あなたが、ここが初めてだと証明できますか?」

 奥野さんは渋い表情になると、「おい、店主!」と店の奥に声をかけた。奥の暗がりから店主が顔をのぞかせた。

 「あんた、俺の顔を見たことあるか? どこかで会ったことあるか?」

 店主はぶんぶんと顔を振った。いかにもとんでもないというような慌てた表情だ。

 「何か勘違いしてへんか? 一度も会ったことないって」店主はそう答えた。

 「ほら」

 奥野さんは店主を指さした。

 「この店に一度も入ったことが無くても、ここの土地勘が無い証明にはなりませんよ。僕だって、自分の家の近所に一度も入ったことがない店なんて何軒もありますからね」

 丸田さんの言うことはもっともだった。

 「ええい、くそ。じゃあ、これならどうだ。今日、打ち合わせで見せた、パッケージデザインの見本だ。まだ市場に出ていないデザインだから、少ししか見せられないが、僕がクライアントに会うという理由の証明にならないか? ほら、展開にしてある。厚紙でカンプを作って、小型カッターを使って手切りでカットしたんだ。ちゃんとデザイナーとしての仕事をしているだろ? それが強盗するなんてナンセンスな話だよ」

 奥野さんはかたわらに置いていた大きなカバンを開けて、小さな紙を取り出して見せた。どうも、小瓶が入る箱の展開らしい。糊しろもきちんと作られた見本だ。ただ、カーブ部分はややでこぼこして、型抜きの刃で成型されたものではなく、手で切ったものだとうかがえる。

 「よくできていますねぇ」

 真中さんが見本を手にしてつぶやいた。彼は印刷業だから、こういうものの良し悪しはわかるのだろう。私はまったくの素人だが、手作りにしては完成度がかなり高いように感じた。さすがプロのデザイナーだと思った。

 しかし、丸田さんはそう思わなかったようだ。丸田さんはうなずきながらも、次のことを言ったのである。

 「そうですね。すごいと思いますが、それでも弱いですよね。デザイナーとしての商売がうまくいかず、打ち合わせの帰りに強盗を行なったとも考えることができるからです。奥野さんは真中さんよりも先に店に入っていた。つまり、奥野さんがあの電車から降りて、すぐこの店に入ったと証明できないんです。奥野さんはもっと早くこの駅を降りて、この近所で強盗を起こすことも可能なんですよ」

 「ば、バカ言え!」

 奥野さんは憤然として言うと、横を向いてしまった。それから何も言わずにビールをあおる。

 さすがにこのまま雰囲気を悪いままにしておけない。私は丸田さんに顔を向けた。

 「奥野さんは、クライアントの都合で午前中に姫路で用事を済ませていらっしゃいました。理由は台風が午後に上陸すると知っていたからです。真中さんの場合でも説明されていましたが、台風で立ち往生するかもしれないタイミングで、強盗事件を起こそうなんて考えられないでしょう? まして、行き帰りの車内で、何度も台風の接近による運行停止や遅延の発生があると説明されていたんですから」

 「では、逆を考えてみましょう」

 丸田さんは両手でハンドルを切り返すようなしぐさをしてみせた。

 「逆ですか?」私は首をひねった。

 「逆と言うのは、犯人側から検証するという意味です。現実に目を向ければ、強盗事件は実際に発生している。こんな台風が迫っている日に。そのことから推測できるのは、犯人は今日の天気予報を知らなかった者だった。そういうことになりませんか?」

 「そうですね。その通りだと思います」その点で異論は無い。私はうなずいた。

 「さらに、その考えを推し進めれば、犯人はあの電車に乗っていなかった。……と言うより、朝からどの電車にも乗っていない者です。なぜなら、車内はずっと台風接近に関するアナウンスが流れていたんです。それを聞いていたのなら、今日、強盗事件を起こすにはデメリットや危険が大きすぎると判断できたはずです」

 私はもう一度うなずいた。その点についても同意見だ。

 「犯人は徒歩でこの町に現れ、どこかで事件を起こし、逃走した。しかし、逃走するにも電車は動いていない。タクシーは出払っているか、長時間並ばないと乗ることができない。逃走の身では、そんな悠長なことはやってられない。どこかで追ってくる警察をやり過ごそうにも、台風のせいで、どこの店も閉まっている。雨宿りも厳しい。せめて駅のホームでもと考えても、駅そのものが業務停止で入ることができない。犯人はそういうピンチの状態にある。この考えはどうでしょう?」

 私は腕を組みながら考えた。

 「……そう、です、ねぇ……。おっしゃる通りかなと、思い、ますね……」

 考えながらなので、私の返事はところどころ変なところで区切ったものになってしまった。

 「つまり、僕たちの中には、この駅で運行停止になった電車の乗客でない者が混じっている。乗客のふりをしている者がいるというのはどうでしょう? そう考えると、僕たちが犯人でないという前提が揺らぎますよね?」

 丸田さんはとんでもないことを言い出してきた。

 「ま、丸田さん。ケガ人で、犯行が無理なあなたは別として、ほかの者は、まだ犯人の可能性があるとおっしゃるんですか!」

 私の口調は、いささか慌てたものになっていた。最初に無実を勝ち取ったと思っていたのに、振り出しに戻されたのだ。

 「まぁまぁ、慌てないで下さい。あなたは真っ先に車内のアナウンスのことを指摘したじゃないですか。つまり、『乗客でないと知りえない情報』を持っていたわけです。その点で、あなたはあの電車の乗客だった。つまりは犯人ではないと証明できるんですよ」

 私は深く息を吐いた。しかし、それで心が晴れたわけではない。せっかく誰も犯人たりえない話にまとめようとしていたのに、丸田さんの横やりが台無しにしてしまったからだ。

 「車内アナウンスの話を真っ先に出さなかった僕たちは容疑者圏内にいるってことだな」

 奥野さんの声は静かだが、低く、そして、わずかに震えていた。ひとの機微に疎い私でさえ、奥野さんが怒りを抑えているのがよくわかった。

 「車内アナウンスを持ち出さなくたって、僕たちのどちらかを犯人とするには無理がある。何せ、奥野さんは芦屋。僕は神戸の人間だ。どちらも明石には不案内だ。縁も薄い。明石には免許の更新センターがあるが、僕は伊丹で更新しているから明石には行かない」

 真中さんは冷ややかな調子で言うと、ぐいっとグラスをあおった。もう、この話題はごめんだという感じだ。これだけ雰囲気が悪くなったのだ。私だってごめんだ。しかし、酔って機嫌が良いのか、丸田さんは気にもしていないようだった。

 「つまり、土地勘の無いところで事件は起こさないって理屈ですか? なるほど、それは一理ありますね。もし、土地勘が無いのであればね」

 真中さんはじろりと丸田さんを睨んだ。

 「丸田さん。あなたが言っているのは、不可能の証明の話だ。あなたは『フェルマーの最終定理』ってご存知ですか? 数百年前に出された数学の問題ですがね、まだ証明されていないんですよ。二十世紀中に証明されるのは難しいんじゃないかって言われてます。その問題は『答えが無いことを証明せよ』ってものです。そんな問題に数百年、世界中の学者が答えを出せていないんですよ。あなたの言っているのはそれと同じぐらいの話です。僕たちは、今ここで、この辺りに土地勘が無いことを証明できない。つまり、無実であることを証明できないわけだ。だから、僕たちは犯人なのですか? それより、犯人たりえる条件を出して、僕たちがそれに該当するか示すほうが正しい議論でしょう。無実の証明より、僕たちのどちらが犯人であるかの証明を示してくださいよ」

 真中さんはそう言いながら立ち上がって、カウンターの向こう側に身を乗り出した。何をするのかと見ていると、真中さんはふたつのペットボトルを取り上げて、こちらまで持ってきた。ひとつは赤いふちがついているが、中身はどちらも黒い液体が入っている。カウンターを見ると、板わさにつける醤油皿が空になっていた。真中さんは醤油を継ぎ足そうとしていたのだ。

 真中さんは赤いふちのペットボトルの口から匂いを嗅ぐと、「違うな」とつぶやいた。残りの匂いを嗅ぐと、真中さんはうなずいて中の液体を皿に垂らした。その様子を丸田さんだけでなく、私たちもぼんやりと眺めていた。真中さんの演説と唐突な行動で、妙な間が空いたのだ。

 「真中さん。あなたは理系なのですか?」

 奥野さんは空のグラスをぶらぶらさせながら尋ねた。真中さんがビールを注ごうとすると、手で制すように断った。もう飲めないらしい。断られた真中さんはビールを自分のグラスに注ぎこんだ。

 「全然、文系です。とある大学の論文を冊子にする仕事がありまして、それが、あの問題に関するものだったんです。さっきの話は、たまたまの知識ですよ」

 真中さんは少し照れた表情を見せた。機嫌を損ねていたかと思うと、どこか緩い表情を見せる。このひとも、どうも酔いが回ってきたらしい。こうなると、奥野さんはともかく、真中さんと論理立てて事件の話をするのは難しそうだ。

 私はどうしたものかと丸田さんへ顔を向けた。この話題は終わりにしようと提案しようと思ったのだ。しかし、私から提案するまでもないようだった。丸田さんはグラスを手に呆然とした表情だったのだ。丸田さんの目は焦点が合っていない。こちらも酔いが回ってきたようだ。

 「丸田さん、大丈夫ですか?」

 悪酔いするタイプだったのだろうか。そうであれば、これまでの他人の感情を逆なでするような態度もうなずける。私はそう考えて丸田さんの肩に手を置いて尋ねた。丸田さんは一瞬ギョッとした顔つきになって私を振り返った。今まで私が隣にいたことすら忘れてしまったようだ。

 「あ、ああ。い、いえ、もちろん……」

 言葉が最後まで続かない。『もちろん大丈夫』と言いたかったのだろうが、最後は尻つぼみに声がしぼんでしまって聞き取りづらいほどだった。私がさらに声をかけようとすると、丸田さんは突然立ち上がった。

 「か、風の音が、弱まりました! そ、外はどうなっているんでしょうかね!」

 丸田さんは慌てたように言うと、ギプスの音をガタゴト立てながら店の戸を少し開いて、外をのぞきこんだ。

 「え、駅に、明かりが点いたようです。ど、どうも、運転が再開されるようです!」

 「ほんとですか?」

 私も立ち上がると、丸田さんの隣から外をうかがった。ロータリー越しに私が降りた駅舎が見えるが、駅の入り口に明かりが灯っていた。駅からわずかにはみ出て見えるホームにも明かりが点き始めている。ちょうど今頃に運転を再開しそうな雰囲気だった。私がこの店に逃げ込んだのが1時あたりだったと思う。店の壁に掛けられている時計は5時過ぎを指していた。気がつかないうちに4時間あまりを過ごしていたのだ。その間に台風は駆け足で兵庫県を縦断して、日本海へ抜けていったのである。

 私は残りのふたりを振り返った。

 「奥野さん、真中さん。電車、動きそうですよ!」

 「良かった! 帰れる!」

 奥野さんも立ち上がって叫んだ。真中さんはぼんやりとした表情だが、口の端には笑みが浮かんでいた。酔っぱらっているが、ほっとしているのだろう。

 「店主。おあいそ、頼むよ」

 奥野さんは店の奥に声をかけた。店主がのそのそと姿を現わすと、カウンターに並べられたビールの空き瓶を眺めた。店主は頭をかきながら、「ひとり、二千円ずつでいいか?」と言ってきた。計算するのが面倒なのだろう。こちらが勝手に押しかけて居座っていたのだから、迷惑料込みで妥当な額だと思った。

 ほかの3人も同じ考えだったらしい。みんな素直に財布を取り出して勘定を済ませた。私たちは旧知の仲のように揃って店を出た。外は雨が止んで傘をささずにすんだ。しかし、だいぶ治まったとはいえ、風はまだ勢いが残っている。空は相変わらず黒い雲に覆われて、夕方というより日暮過ぎの暗さだった。駅には明かりが見えるが、停まっている電車に明かりはまだ点いていない。しかし、運転が再開されたら、すぐ出発しそうだ。私たちは足早に駅へ向かった。

 「丸田さん。電車が動きそうだって、よくわかりましたね。あそこじゃ、外の様子なんて見えないのに」

 私は隣で松葉杖をついて歩いている丸田さんに声をかけた。丸田さんは黙々と歩いていたが、私に苦笑いを浮かべてみせた。

 「い、いやぁ。あれは、たまたまです。実は、あそこにいたたまれなくなって、思わず外の様子をのぞいただけなんです」

 丸田さんはそう答えたが、私は丸田さんの言い方が気になった。

 「いたたまれなくなった?」

 丸田さんはうなずいた。「不意に、ある考えが頭に浮かんじゃって、それが頭の中でどんどん大きくなっちゃったんですよ。そうしたら本当に怖くなってきましてね……」

 「いったい、どうしたんです。何が浮かんできたんですか?」

 丸田さんは辺りをうかがうと私の耳元に口を寄せて、

 「実はですね……」

 と、内緒話するように声を潜めて話を始めた。

 「強盗犯は、今日の天気予報を知らずに事件を起こし、思いがけず町で足止めを食うことになった。この推測は当たっていると思うんです。その考えを推し進めれば、強盗犯はどこかで警察や台風をやり過ごそうとしたという推理も正解でしょう。そう思いません?」

 「……まぁ、そうですね」

 また、その話かと私は半ば呆れながらもうなずいた。

 「さきほどまで、僕たちの誰が強盗犯であるか。そのことで、あれこれ話しましたが、正直なところ、誰も犯人だなんて本気で考えていませんでした。あれは、店を出るまでのネタ話のつもりだったんです」

 「はぁ」丸田さんのネタ話でケンカになりそうだったのだ。丸田さんの時間つぶし企画は選択ミスと言わざるをえない。

 「ただ、あの店で、もうひとり、検討すべき人物がいたんです。あの、店主です」

 「店主?」

 「まず、年齢、背丈の特徴。どれも警官が説明した強盗犯のものと一致します」

 たしかにそうだった。あの店主は、私と年齢や背丈は同じぐらいだった。店に入ったとき、私は店主にそう感じたことを思い出した。そして、警察官が説明した強盗犯の特徴は私と近かったので、私は少し焦ったのだ。言い換えれば、あの店主も強盗犯の特徴に近いと言えるのだ。しかし――。

 「あの店主は白いシャツ姿でした。黒っぽい服なんて着ていませんでしたよ」

 「そう。シャツ姿。でも、店を正式に開けていなかったとは言え、ずっとシャツ姿のままなのはおかしいじゃないですか。あそこは2階が住居になっている感じでした。奥へ引っ込んでいる間に着替えることだってできるじゃないですか。なぜ、ずっとシャツ姿だったんです? まるで、雨に濡れた服を脱いで、ほかに着るものが無いからシャツ姿のままだったみたいです。そして、その服は黒っぽいものだったかもしれません」

 「着替えるのが面倒だったんじゃないですか? どうせ一見きりの客だと思って、服装に気を遣わなかったかもしれないです」

 「そうかもしれません。ですが、ほかにもおかしい点がありました。嫁さんが仕入れをしていないと言っていましたが、結局、その奥さんらしい人物は一度も姿を見せませんでした。さっきも言いましたが住居兼店舗のようでしたから、奥さんは居たのじゃありませんか? だって、今日は台風で出かけられる様子じゃないんですから」

 私は首を振った。「今日は外せない用事があったかもしれませんよ。僕の妻だって今日は出勤していますし。あの店の奥さんも、別の用事で出かけたが、台風のせいで帰ってこられなくなっただけかもしれません」

 「そうですかねぇ……」丸田さんはまだ何か言いたそうだった。

 「何です? ほかにも疑わしいところがあるのですか?」

 「真中さんが板わさにつける醤油を継ぎ足そうと、調理台から調味料をふたつ取り上げていました。ひとつは赤いふちのペットボトル。もうひとつは何もないもの。あのとき、真中さんは何をされていました?」

 「ふたを開けて、中の匂いで確かめていましたよ。醤油と間違えて、ソースをかけないように」

 「そうですね。真中さんは確かにそうしました。思い出してください。奥野さんが板わさを受け取ったとき、醤油が出ていなかったので店主にそれを出すよう促していました」

 そのことは覚えている。あのとき、店主は調理台を見つめて思案中だった。そこへ警察官が現れて、私の注意はそちらに移っていた。警察官が立ち去った後、醤油は用意されていたから、何も疑問に思わなかったのだが。

 「実は、僕はあのとき、店主が何をしていたのか見ていたんです。あの店主は真中さんと同じように、調味料のふたを開けて、中身の匂いを嗅いでいたんですよ!」

 私は言葉が出なかった。一瞬、言われた意味が理解できず混乱したのだ。しかし、その意味がじわじわと頭全体に広がってきた。

 「あの調味料はソースとか醤油とか、名前は書いてありませんでした。ですが、あの店の者であれば見分けがついたはずです。まるで目印のように、一方は赤いふちがついていたからです。それなのに、あの店主は……」

 「ま、待ってください。結論を急ぐものじゃありません。あの調味料は、今回不在の奥さんが扱っていたのかもしれません。調理関係は奥さん任せで、調味料の区別ができなかっただけかもしれませんよ。何せ、出されたのは板わさだけですからね」

 そう言いながら、私の中では疑念がどんどん強くなってきた。板わさであれば、私のような料理未経験者でも簡単に提供できるからだ。もちろん、強盗犯でも……。

 「僕の中で、あるいは、ひょっとしたら、なんて考えがグルグル頭の中を回りだして、本当に気味が悪くなりました。外の様子を確認したのは本当に口実で、実のところ、外の空気が吸いたくなったからなんです。駅に明かりが点いていなかったら、そのあと僕はどうやってあの場を取り繕ったらいいかわからなかったですよ」

 丸田さんは早口で言い終えると、逃げるように改札を通っていった。私も後へ続こうとしたが、ふと後ろを振り返った。

 狭いロータリーの向こう側に、私たちが数時間を過ごした居酒屋が見えた。居酒屋に目を向け、私はどきりとした。

 居酒屋の戸が少し開かれていたのだ。客が去ったからか、店内に明かりはなく、真っ暗な状態だった。店内の様子はうかがえなかったが、誰かがこちらを見ているような気がした。背筋に寒気を感じ、私は思わず身震いした。

 そのとき、私は居酒屋で話題にあげた『九マイルは遠すぎる』のことを思い出していた。あれは、主人公の「わたし」と名探偵ニッキィ・ウェルトとの間で持ち上がったある議論がきっかけで展開する話である。その議論とは、『一連の推論が理にかなったものであっても、かならずしもそれが事実とは一致しない』ということだった。私たちが居酒屋で議論したことも、今ここで丸田さんが展開した推論も、あくまで推論どまりだ。そう。事実と一致するとは限らない。しかし、『九マイルは遠すぎる』では、その推論から殺人事件の真相を暴く展開になっていくのだった。この場合、『嘘から出たまこと』ではなく、『推論から出た真相』と呼ぶべきなのだろうか。だからと言って、私は丸田さんの推論が真実であると思わなかった。しかし、身体の震えはなかなか治まりそうになかった。

 私が震えながら見つめているうちに、居酒屋の戸は何ごとも無かったように閉められた。2階に目を向けたが、明かりが灯る様子はない。今のあの店には、まるで誰もいないかのようだ。私は引き返して真相を確かめる気になれなかった。私もまた、丸田さんと同じように恐怖に支配されてしまったからだ。私は顔をそむけるように前を向くと、そのまま改札を通り抜けた。そして、あの店のことはそれっきり考えるのをやめたのである。

この作品のレシピ:

本文にもあるが、ハリィ・ケメルマンに敬意を表しつつ、まったく別の物語を仕立てたものである。

台風で途中下車を余儀なくされたというのは実体験に基づいているが、シチュエーションを含め、すべてフィクションである。この作品でのテーマは、いかにリアルな大ウソを書くかであり、デタラメ極まる話に、どうリアルをぶっこむかに苦心した。ちなみに本文中で語られる『宝暦巷説記』は実在しない。完全な偽書である。もし、その存在を信じて調べる方がいたらいけないので、ここに明記しておく。

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