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AI少女は小説作家に恋をしない  作者: 湯灯し詩葉
3/13

ヒッチハイカー

 車は瞬く間に加速していく。この車はなんといっても加速が良いと以前おばさんが自慢げに話していたのを思い出した。滑らかな発進からスピードに乗る感覚はどんなに気持ちが良いのだろう。じゃなくて、こういう危険な運転は本当に止めてほしい。特に人がしゃべっている途中などはダメ絶対。


 本当に舌をかみ切るかと思った。舌先がズキズキと痛んだが、そんなことよりも気になったのはおばさんのこの慌てようだ。

 そういえば完全に置いてけぼりを喰らった彼はどうなったのかと体を反転させ、後ろの窓から確認すると、男は啞然とした様子で必死の形相をしながらこちらを追いかけてきていた。


 当たり前だ。知り合いにただ声をかけようとしただけなのに、相手は猛スピードで逃げるのだもの。そりゃあ驚きもするし追いかけたくもなる。あ、こけた。


 虚しく道路にうずくまる男の姿とへし折れたプラカードはどんどん小さくなって、やがて見えなくなってしまった。その姿が何とも悲しげで、さながらドラマのワンシーンを切り取ったみたい。恋人に振られ、去っていく背中に手を伸ばす男の姿は涙を誘うものだ。でもそういうドラマは大抵男の方が悪かったりするから私はそのシーンで一度も泣いたことはないのだけれど。


 それはさておき、おばさんとあの男の人との間に、なにか蟠り《わだかまり》のようなものがあることは確定的だ。

 こういう時、訳もなく好奇心が湧いてくるのは私だけだろうか。とにかく私はおばさんに事情を聞きたくて仕方がなかった。


「おばさん、さっきの人とはどういう関係なの?」


 その質問をしてから、少し間があった。話すべきか否か考えていたのだろう。おばさんが微妙な顔をして赤縁めがねをあげると重い口を開き、


「大人にはだれにも言えない秘密があるのよ」


 そう言って左手を出し「ごめん」のサインをした。申し訳なさそうに笑うおばさんはいつも私に見せる表情とは違いとても大人びて見える。

 私はそんなおばさんにこれ以上の詮索は野暮だと感じて、質問するのをやめた。いつもは私に隠し事などせずなんでも話してくれるおばさんが秘密というのだからよっぽどなのだろう。だがそれと同時にそのことを少しだけ後悔した。


 もし私がもう少し子供だったら、大人の秘密なんていう障壁など好奇心で難なく飛び越えて、無理にでも聞き出していただろう。でも今私は無意識におばさんの拒否を感じ取ってしまった。率直に言うなら私は”空気を読ん”でしまったのだ。


 昔から”空気”には慣れていたつもりでいたから、その"空気"を読んだ自分が、何だか都合よく言いなりになったような気がして、いささか悔しかった。それはもう、いささか先生の原稿が盗難された時くらい悔しかった。この例え、よく分かんないな。


 しかし空気を読むことが大人になるということなら、まだ私は大人にはなりたくない。


 結局、その話はおばさんにうやむやにされる形でこれ以上話すことはなかった。


 しばらくすると車は細い路地に入り、そのまた進んだ先の駐車場らしき場所で止まった。


 そこは一見すると漁港のように見える。というか漁船が並んでいる所を見ると本当に漁港のようだった。


「さあ、やっとこさ到着だよ。こずえちゃんおつかれさま」


 運転を終えたおばさんは勢いよくこちらを振り返った。

 大きなあくびをしていたところにいきなり大きな声でおばさんの顔が飛び込んできたものだから驚いてどこから出たのかもわからない変な声が漏れてしまった。そんな私の様子を見てまたおばさんはけらけらと笑う。


 こんな調子で気まずさを引きずらない能天気さというかさっぱりしたところがおばさんのチャームポイントであり、私が好感を持っているところでもある。


 ドアを開けて外に出ると、なんだか久しぶりに地面の感触を得たような気がした。長旅のせいか足がおぼつかず足に体重を乗せたとたんにふらつき、崩れ落ちそうになるからだを車に預ける。まだ固まったままの腰やお尻をほぐすのに、大きな伸びは一番気持ちがいい。


 天気は快晴。だがしばらく雨が降っていないせいか乾燥した空気はあまり暑苦しさを感じさせない。今日は風が強いのか、もうまじかまで迫った海では波が防波堤に打ち付けられ、白い霧状になって私のところまで海の香りを運んできていた。

 そういえばこうやってゆっくりと海を見たのはいつぶりのことだろう。頭の中の引き出しをさぐってみるが覚えている限りで海に行った記憶はない。もしかすると本当に私が以前ここを訪れた時以来かもしれないとおもうと、懐かしさまで感じられた。


 海の眺めを楽しんでいると、先に車から降りたおばさんが離れた場所で見知らぬおじさんと挨拶を交わしている姿が視界に入った。おばさんもこちらの視線に気が付いたらしく、


「こずえちゃーん、おばさんちょっとお話ししてくるからもう少し待っててねー」


 大きく手を振ってこちらの了解を確認すると、そのおじさんとどこかに行ってしまった。


 仕方ない、車の中で待って居よう。そう思って車のドアノブに手をかける。しかし


 ガチャガチャ


 ドアはびくともしない。


 そういえば今さっきおばさん車のカギかけてたじゃん。これじゃあどちらが間抜けているのか分かったもんじゃない。


 しかし困った。私自身ほぼはじめての場所で締め出しを食らってしまったのだ。あたりを見回しても目に付くのは漁船やコンクリートの防波堤のみで散歩しようにも興味を引くものが見当たらない。かといって車のそばでただ佇んでいると通りがかりの人に怪しまれるかもしれないし何より恥ずかしい。


 一瞬おばさんを追いかけて一緒に居ようとも考えたが、あのおばさんのことだ。こちらの意図をすぐに察知してまた小馬鹿にし、小動物のように弄ばれるにちがいない。それだけは絶対に却下だ。


 どうしようかとその場を二周三周せわしなく動き回っていると、視界の端に小さな文字の書いてある看板をとらえた。目を凝らしてみてみるとそこには[崎ノ浜海水浴場]と書いてあった。ようやく見つけたその輝かしい響きに思わず吐息が漏れる。


 海水浴場なんて海にすらろくに行ったことのない私からすればディズニーランドやUSJにも匹敵するくらい魅力的なところだ。いや、さすがにそれは言い過ぎかもしれないが、この時に限ってはその看板の文字に救われたように感じた。そしてさあ海水浴場はどっちかと軽い足どりで駆け寄ったのだが。


 渡りに船と喜んでいられたのもつかの間、その下には[ここから5キロ]という文字。まさにビルからつき落とされた感じだ。5キロなんて到底行けるはずもない。


 しかしそれでも唯一見つけた希望。今の私にはそれに縋りつくしかない。これは本当におおげさじゃなくて見知らぬ場所に独り取り残されることの不安感といったら初めての遊園地で約1時間、親に置き去りにされたときくらいだ。


 私も怖かった思い出だけは難儀なことにはっきりと覚えているようで、あの時は本当に遊園地がトラウマになるところだった。そういう経験もあってか、私にとって「一人」はいいが、「独り」は怖い。


 海水浴場があるのなら、砂浜ももしかしたら5キロくらい続いているんじゃないか、というわずかな期待を胸に、私は海岸沿いを歩くことにした。海岸沿いといっても漁港の端に道はなく、木々によって海の景色が遮蔽された道路の脇を歩くほかない。


 しばらく進んでみたものの見えているのは後にも先にも雑木林とぽつぽつと短く連なる民家だけ。道先には野生動物出没注意の標識が点々と並んでいる。歩を進めるごとに不安の気持ちも大きくなっていくのが分かる。何度も引き返そうかと後ろを振り返るが、引き返したところで状況は何一つ変わらない。今はとにかく進むしかないのだ。


 木々の間からさす木漏れ日もつんと鼻をさす潮風も私の心細さの前では取るに足らない一つの事象くらいにしか感じられなかった。


 肩を落とし、ついでに視線まで落としてアスファルトの白線を見ながらそれでも足だけは止めずにいると、ふと前方から茂みの揺れる音がした。まさかサルかイノシシ、いや私の運の悪さを鑑みればクマと出くわしてしまったのではないかと顔を上げると、そこには本当にクマがいた。


 少し訂正、クマのように大きな男の人のお尻であろうものが茂みから飛び出していたのだ。


 それをみて私は少しほっとした。あとからよくよく考えたら、茂みに頭を突っ込んでいる大男なんて下手をすればクマなんかよりもよっぽど怖い気もするが、その時は人がいたというだけで私がひとまず安心するには十分だった。 


 とは言っても私から話しかけるほどの度胸はなかったので、しばらく距離を置きながら観察していると、その男は細かい蔦や木々を掻き分けそのまま茂みのなかにどんどん入っていく。木の折れるや葉っぱがこすれる音がしばらく続いた後、ついにはお尻も見えなくなってしまった。


 一度安心してしまうと次にわきだしてくるのは際限の無い好奇心というのが齢17の性である。


 男の気配が完全になくなったのを見計らい、先程までお尻がつきだしていたところに静かに近寄ってみる。すると、一見そこは周りと変わらずただの茂みであるが、なるほど確かによく見ると木のツタが小さなアーチを作り上げており、人が通るには這いつくばるほかなさそうなほどの狭い道のようなものが自然に隠されていた。そしてその奥を覗くとわずかに海の方向から光が差していた。


 もしかするとこの茂みを抜けた先にはまだ道が続いているのかもしれない。


 だがここを進むということはあの男と同じく私自身もこの草むらから尻をつきださなければならないという事だ。もしここに私だけじゃなく他の大人がいたならば、きっといい年頃のレディが草むらを這いつくばるなんてはしたないと私を止めただろうし、そもそもそんなことしようとも思わなかっただろう。


 私だってレディの自覚はあるし、人並みの常識くらいわきまえているつもりだ。いくら私でも好奇心と常識を天秤にかけてどちらを優先すべきかなんて比べるまでもなく分かる。


 この際はっきりと言っておくが、おばさんといいあの悪魔といい、全く私を見くびりすぎなんだ。あの人たちはいつも私を子ども扱いしてくるが、もう料理だって簡単な物なら作れるし、ボタンだって自分でつけられるし、ピーマンだって食べられるんだから。


 そしてしばらく考えたのち、やはり止めようとまた進行方向に足を運びだした。


 いや、ちょっと待って。


 踏み出した足を踏ん張り、もう一度周りを見回してみる。だが辺りはそれが当然かのように人が通る様子はなく、車も全く来ていない。本当に誰もいないのだ。ということは何度もししつこいことだが私は今一人きりだということだ。それは私を叱る者もいなければ子供だと馬鹿にするものもいないということ。


 なんだ、一人ってこんなにも自由で楽なものなんだ。一人最高。一人バンザイ。


 だとしたらやることなんて決まっている。正しい姿勢で右向け右。目の前にあるのは不思議な不思議なただの茂み。


 私は一度深く深呼吸をし、そして


 3,2,1。


 勢いよく木々のアーチに飛び込んだ。その時私の中で天秤が壊れたような音がした。 

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