1:第一の出会いとチュートリアル
改めて、月並みだが自己紹介からこの物語を始めよう。
私の名前は赤金一生。地方のコールセンターで働く平々凡々とした中年社畜OLだ。
趣味は乙女ゲームとギャルゲーと読書(主に漫画)と映画。毎年正月に掲げる目標はダイエット、黒のひっつめ髪に申し訳程度の薄化粧。典型的な”リア充とは無縁”の女オタク。
名は体を表すとはよくいったもので、金とも銀とも無縁な赤金、カードゲームなら溜まり過ぎて破棄される程度の最弱の手札。それが、私が自認する”私”である。
仕事からの帰り道、どこぞの童話に登場する幼女さながら白いウサギに気を取られ、開いたマンホールの深い穴に落っこちた――と思ったら、名乗りもしない神だか仏だか小悪魔だか解らない存在に強制的に異世界送還されて、今、見知らぬ森の中にいる。
確か空の上から落ちてきたはずなのだけど、神様効果なのか何らかのチート能力の賜物か、気付いたらここに立っていた。自分の体を見下ろすと、着ていたはずの安物スーツは消え失せ、どこかのRPGの女戦士のようなアーマーが体を覆っている。少し体を動かしてみたが、思ったより動き辛くはない。
しかし、自分のものであるはずの肉体には、まるで別人のような違和感があった。
「肌が……白い……」
黄色人種らしく黄味がかっていた肌は今雪のように白く、日々の家事仕事で荒れた指も細く長く爪の先まで傷一つない。よく見れば肩から零れる髪はシルバーブロンド。恐る恐る自分の顔に手を伸ばすと、しっとり滑らかな頬に指先が触れた。骨格が明らかに、私の顔じゃない。
困惑の中、鏡の代わりになるものを探して辺りを見回す。すると、アーマーと似たデザインの盾が足元に転がっているのを見付けた。磨かれた表面に、そっと自分の顔を映し込んでみる。
そこにいたのは、ハリウッド女優のように整った女の顔……美しいサファイアの目をした、”見知らぬ自分”だった。
『――貴方の望む姿、望む力、望む役割を与えましょう――』
あの声が耳に蘇る――望む姿――これが私の望む姿? それが与えられちゃっているということは、つまり。
「本当に、来ちゃったのか……異世界」
眩暈を感じて、そのままよろよろと座り込む。絶世の美女になれた喜びより、取り返しのつかないところまで来てしまった脱力感が勝っていた。
というか大体、これからどうすればいいの、私?
世界を救えとか言われたが、こんな森の中に放り出されたって右も左も解りやしない。世界を救う前に我が身を救わなくっちゃ、このままでは野垂れ死にだ。人っ子一人いない森の中で、人間の美貌ほど無駄な能力があるものか。動物まで魅了できるというなら話は別だが、今のところその思い付きを試せる対象は見当たらない。いや、万が一見当たってしまったら、その時私は死を覚悟するだろう。
「どこかにヒント……ヒントはないの? 最初に行くべき町とか……RPGによくあるやつ!」
身に着けたものの中に地図や手紙でも入っていないものかと探ってみる。けれど解ったことは、自分の胸が元より二回りほど膨れていることと、武器になるものが腰に下げられた剣一本という事実だけだった。
何もないよりは良い。生存率は格段に上がる。けれど――
「現代日本OLの何人に一人が、いきなりこれを渡されて使いこなせるというのか……」
無理無理、絶対無理。
泣き言を漏らしながら首を振る。目覚めて数分。もう、既にやだ、帰りたい。おうちに帰りたい。
「……おかあさん、おとうさん……助けて……」
泣いたところで誰も助けてはくれない。解っていながら零さずにはいられなかった。
正直、ボッチには慣れている。でも便所飯に命の危険は伴わないもの。あれは寂しいだけで怖くない。でも今は――心細さでだけでウサギのように死んでしまいそうだ。目頭が熱くなり、涙が滲む。
お父さん、お母さん、猫のチャータン……会いたい。もう二度と会えないんだろうか。会いたい、会いたいよ。
ぐす、と鼻を啜り上げる。――その時だった。
「っ、く……くくくっ……」
「誰!?」
押し殺したような笑い声に振り返ると、大柄な男の姿が目に飛び込んできた。
今さっきまでそこには誰もいなかったはずなのに……忍び寄ってくる足音も気配も、私は感じなかった。そういう魔法でも使ったのだろうか? そうだとしても驚きはしないが――だってここは異世界だ。
得体のしれない存在に、ぞっと肝を冷やしながら、私は抵抗の意思がないことを示すため両手を上げる。
明らかに自分より強い男に逆らって、殺されてしまっては堪らない。ちょっと痛い思いをするだけで済んだらいいな……それでどこかの村の場所でも教えてもらえたらもっといい、だって死にたくないもの――なんてネガティブな思考が頭を過ぎる。
異世界で初めて遭遇した”男”なのだ。治安のレベルだって解らない状態なのだから、何をされてもおかしくない。それに、自分で言うのもなんだが、今の私はかなり美人だ。
緊張を露わに、反応を待つ。男は尚も笑って、ゆっくりその場にしゃがみ込み、座り込んだままの私に視線を合わせた。
「そんな悲壮な顔すんなよ、別嬪ちゃん。取って食ったりはしねぇから」
「……お願いです、命さえ助かるならなんでもします。殺さないでください。死にたくない……」
「ん、まあ、そう言いたくなる気持ちは解らんでもないが。安易に武器から手を離すのはいただけねぇなぁ。もし俺が悪い男だったら、あんたは死ぬより酷い目に遭ってたかもしれない」
「……悪い人、じゃないんですか? 私を殺さない?」
「ないない、殺す気なんて最初から1ミクロンもねぇさ。俺は敵じゃない。……あんたを迎えに来たんだよ」
に、と人懐こい笑みを浮かべて、男は慣れた動作で左手のリストバンドを外した。
自然とそこに視線を引き付けられ、私は軽く目を見開く。日焼けしていない手首の内側が、うっすらと発光していた。とくん、とくん。心臓が脈打つように、光が明滅する。とても、綺麗。
その光は、どこかで見たような――
「異世界から来た人間の証だ」
男の言葉に、私は訝しげに彼の顔を見た。
「あなたも……あっちの世界から来たの?――き、来たんですか?」
「そうだ。その証拠に、嬢ちゃんの体にもこういう光の玉が埋まってる。あんたもあの神さんから聞いただろう?」
これが”光の種”だ、と男は口にした。
反射的に自分の体を見る。しかし、アーマーに覆われた体は案外露出部分が少なくて、どこが発光しているか自分でも解らない。少なくとも彼と同じ左手首に光の玉は埋まっていないようだ。――つまり、この男の言っていることが真実かどうか、解らない。
それに気づいたのか、男はバツが悪そうに眉尻を下げ、リストバンドを嵌め直した。
「ここであんたをひん剥いて探していいなら、手伝うけどな」
「ちょっ……えっ、遠慮します!」
「だろうな。脱がせる手際にゃちょっと自信があるんだが、それはまたの機会に――ってのは冗談として。とりあえず歩きながら話そうか。こんなところで野宿したくはねぇだろう?」
どこまでが冗談やら。
消しきれない警戒心はひとまず胸に収め、こくり、頷く。少なくともこの男と共に行くことに、命の危険はなさそうだ。他に頼るべき人もいない。貞操の危険は二の次三の次、私の判断基準はそこである。
男は表情を緩めて立ち上がり、私に手を伸べた。少し躊躇いながらも、その手に手を重ねる。そうして改めて、彼の姿を上から下へと眺め見た。
まず目を引くのは派手なボルドーレッドの髪。歳は40手前くらいだろうか。私より頭一つ分以上も高い長身は、歴戦の勇士のような実践的な筋肉を纏っている。顔立ちは恐ろしいくらいに整っていて、よく見ると深茶の目がどことなく優しい。笑うと口元に八重歯が覗き、ワイルドさと無邪気さの絶妙なコンビネーションがやたらとセクシーだ。
確かに、こんな美形がそこらにごろごろいるわけがない。異世界人チートな外見、と言われた方がまだ納得できる、気がする。
「そういや自己紹介がまだだったな」
先に立って歩き出しながら、男は口を開いた。
「俺はセンイチ。あっちの世界では都内のコンサル会社に勤めてた」
「私は……イツキです。その……ヤッパネットカッタカのコールセンターで働いていました。どこにでもいる十把一絡げのOLです」
あちらの世界の名称をわざと口にしたのは、彼が本当に同じ世界から来た人間であることを確かめたかったから。ちらり、顔を伺うと、彼――センイチはこちらの意図を察してか、少し笑ってお馴染みのCMソングを口ずさんだ。
「ネットで買うならやっぱりカッタカ、ヤッパネットカッタカ~ってやつか。俺も良くお世話になったよ。ゲームを買ったり、家電を買ったり」
「センイチ……さん、ゲームとかされるんですね」
「RPGをよくやってた。……っつか、タメ口でいいぞ? 俺もあんたも、見た目通りの年齢とは限らないだろ?」
あ、と思わず声を出す。
確かに、あちらの世界の私がシルバーブロンドの美女ではないように、この色男も”彼の望んだ姿”でしかないのだろう。私みたいな平凡黄色中年女からピチピチ白人美女が生成されるくらいだから、彼が実際は5歳の少年だって驚かない。――いや、流石にそれは驚くか。五歳児にしては所作が紳士的過ぎるもの。口調は荒いが、元コンサルタントというのも嘘ではなさそうだ。
「それじゃセンイチ……あなたが本当に異世界人なら、異世界人って意外といっぱいこっちに来てるの? 貴方はこの世界に来てから長い? この世界って今、どうなってるの? やっぱり命の危険はある?」
何気なく支えられた木の枝の下を通りながら、私は問いかける。
彼は少し考える素振りを見せた。どこから話すべきか、あまりに話すべきことが多すぎて迷っている、といった顔だ。いきなり質問攻めにし過ぎたかもしれない。
「まず、最初の質問について。この先の村にもう一人、異世界人がいる。俺がここに来たのは1年前、そいつが半年前、それからあんたで、3人目」
「へぇ、1年もここにいるんだ……辛くなかった?」
「俺が最初に”落ちた”ところの近くに修道院があってな。尼さんがいっぱいいて……いろいろと。その、な?……アレだ、アレ」
ごにょ、と彼が口籠ったので、私は何かを察した。
修道院といえば当然女ばかり。そこにこんな色男が飛び込んできたら、さもありなん。私の頭にはアダルトゲームの映像が浮かび上がる。修道女とのメイクラブは異世界ファンタジーには有りがちの設定だ。つまりそのシスター達に面倒を見てもらいながら、彼はこの世界の事を学んでいったのだろう。
白々しい咳払いで空気を誤魔化しながら、センイチは話を続けた。
「この世界は3つの大陸と小島で出来てて、それぞれの大陸ごとに王がいる。後で地図を見せるが……ここは一番小さい大陸、ソレイユ王国の南端。俺が世話になった修道院はここから西に一月程行ったところで、今向かってるのが最南端の村、イットキ村だ。そこで仲間を拾ってから、情報を集めるため王都に向かおうと思ってる」
「この世界は王制なのね?」
「ソレイユ王国は絶対王制。残り2つの国に関してはよく解らないが、政治を取り仕切る議会があるとは聞いたことがある」
それは追々、その大陸に渡ることになったら調べればいいだろうと、私も思う。というより、今細かく説明されても覚えていられる自信がない。
「センイチはどうしてその修道院を出てきたの? そこにいたら安全だったんじゃないの?」
「まぁな、至れり尽くせり酒池肉林だったのは否定しないが……もともと長居をするつもりはなかった。あんたも言われただろ? 世界を救え、ってさ」
その言葉に、私は驚いて彼の顔を見た。
「あなた、本気で世界を救おうとか思ってる?」
「あんたは思ってないのか?」
私は真っ直ぐに彼を見詰め返すことが出来なくて、目を逸らす。――どうにかしてバックレようと思っていただなんて、とても言える雰囲気じゃない。
センイチは手を伸ばし、ぽんぽん、と優しく私の頭を撫でた。彼の大きな手に触れられると、なんだか自分が子供じみた考えをしている気がして、むず痒く気恥ずかしい。
「そうか……いきなり命がけで戦えって言われてもなあ。そりゃ、納得できない奴もいるよな」
「どうしてセンイチは戦う気になれるの? 私はむしろそっちの方が不思議だよ。いきなりこんなところに連れて来られてさ。修学旅行中に拉致られて『今から殺し合いをしてもらいます』って言われたようなもんじゃない?」
「そこまで殺伐とした状況ではねぇけどな。ほら、現に俺だって一年こうして無事に生きてるわけだし。十分美味しい思いもさせてもらってるし?」
「そりゃ、そうなんだけど……」
口を尖らせる。
だけど、と言ってセンイチは少し顔を顰めた。眉間に皺が刻まれ、明朗に響いていた声がワントーン下がる。私を怖がらせないようにという配慮か、言葉を選びながらも、彼は言った。
「勿論これまでが無事だったからといって、これからも安全な旅を約束できるかっていうと、それは出来ない。尼さんの話じゃ、一昨年あたりからこの世界に”魔物”が現れ出したんだと。最初は手のひらサイズの知性もないスライムから。それからウサギやネズミに似た魔獣が増え、最近では各地にゴブリンも増え始めてる。地方によってはもっと強力な個体も現れているそうだ」
ごくり、と私は息を呑んだ。ここに来て初めて登場した”魔物”の響きに、ひやりと背筋が凍る。
「今はまだいい。魔物も数が少ないし、ゴブリンクラスなら王都の騎士団でも対処できるって話だしな。けど、これから先”闇の侵略”が本格的になれば、被害は増えるだろう。それまでに準備を整えておく必要がある」
「……私と、センイチと、もう一人の仲間で、ってこと? でも、王国の騎士って強いんでしょ? その人達が勝てないものに私達が勝てるの?」
「問題ない。やるべきことはもう決まってるしな……それも後で説明する。どうせ今聞いても理解できないはずだ」
今はまだそれを教えてくれるつもりはないのだろう。こちらとしても、いきなり詰め込まれ過ぎては理解が追い付かない。事態を咀嚼する時間をくれたらしき彼に、ゆっくり一度瞬いて感謝を示す。彼は笑って、もう一度、私の頭をぽんぽんと撫でた。
「そう心配しなくても、俺達にはちゃんと戦う力がある。その他にも便利な力が幾つか、な」
「便利な、力?」
そう、例えば、とセンイチは指を立てた。
「あっちからこっちへ人間が送られてくる時、先に来てる俺達にはそれが”予知夢”という形で知らされる。どこに、いつ、現れるか。顔なんかはぼんやりとだけどさ、性別くらいは解る。同じ目的を持った仲間だから協力し合えってことだろう」
「だからさっき、私を迎えに来た、って……」
「もう一人が”落ちて”来た時もそうだ。俺は啓示を受けて、そいつを拾いに行ったわけ」
そんな落とし物みたいに。
神様の落とし物、って言われたらある意味間違いじゃない気もするけれど。
「その他にも、俺達はこの世界の人間よりダメージを受け辛かったり、傷の回復が早かったり……とにかく、そう簡単に死なないようには出来てるようだ。だから心配すんな。それに」
と、一度言葉を区切って、センイチは私を見る。イケメンに見詰められて緊張する私に、彼はふわりと、綻ぶように微笑みかけた。
「あんたは女だ。俺は女を、自分より先に死なせる気はない」
「……っ」
――一瞬、全身の血液が沸騰するかと思った。
「や、やめてよ……その顔でそんなこと言うのは、ずるい」
「ずるい? 俺は普段思っていることをそのまま言っただけなんだが」
「そういうところがずるいの!……喪女にそういうこと言うと簡単に舞い上がっちゃうんだからね! 勘弁してよね!」
「モジョ……ってなんだ? 魔女の親戚か?」
「モテない女のこと! つまり、あっちの世界の私よ!」
急に、この色男と二人きり、人気のない森を歩いていることを意識してしまい、私は無駄に髪を手櫛で整えたりする。我ながらチョロいな。
センイチはそんな女の反応にも慣れているのか、可笑しげに喉を鳴らすと、私に手を差し出してくる。
「そこ高低差あるから、足元、気を付けろよ」
「これくらい大丈夫だから、触らないで!」
「触るなって……ひでぇなぁ、そんな、俺を痴漢みてぇに。ほら、登れないんだろ? 強がらないで手ぇ貸せって」
「ひゃっ……」
転びかけて手を取られ、ぞくり、また恐怖とは違う感覚が体の奥から込み上げる。彼に触れられた部分が熱を持って、ばくばくと心臓が大きく脈を打ち……顔から火が出そうだ。この男、無意識に魅了の魔力でも振り撒いているんじゃなかろうか。こういうのをきっと天然の女殺しと呼ぶに違いない。ギャルゲーでハーレムルートが出現するタイプの主人公属性だ。
私はそのうちの一人にはならないぞ、と自分に言い聞かせながら、深呼吸する。気を引き締めて顔を上げた、その先に。
「あ」
不意に目の前が開けて、その向こうに整備された道が見えた。やっと、森を抜けたのだ。
「よし、ここまで来れば後は10分も歩けばイットキ村だ」
「あの、手……そろそろ離してくれる?」
「おっと、こりゃ失礼」
あんまり握り心地の良い手だったもんで、などとおどける彼から少し距離を取り、私は歩き出す。もう一人の仲間が待つ、大陸最南端の村へと。
***
私がこの男、センイチの歪んだ内面を知ることになるのは、もう少し後の話。
今はまだ、何も知らないこの世界で蜘蛛の糸を掴むように、彼の指し示す道を歩くことしかできない。
これは無力で平凡なOLだった私が、闇の世界に光を齎し勇者に至る、そんな異世界の物語。