プロローグ:落ちて⇒落ちて⇒異世界
『世界を救ってください』
彼女は私にそう言った。
彼女――その言葉が適切かは解らない。その人型は男にも見えたし、女にも見えた。ただ、耳に響いた柔らかな声音がどちらかというと女性に近かった。だから私はその人を暫定的に、彼女、と呼ぶことにする。
短い銀の髪、紫色の瞳、陶磁器のような白い肌。いっそその肌がうっすらと発光していても私は驚かない。綺麗、なんて言葉を超えて美しい――無論、こんなものが“人”であるはずがないのだった。
『世界を、救ってください』
もう一度彼女は言う。
思わず周囲を見回すが、周りには誰もいない。それどころか天井も壁も見渡す限りどこにもなく、延々と白い空の下、雲のように煙る地面が果てしなく続いている。例えるなら、絵本で見た天国。ここには私と彼女しかいない。つまり、認めたくないけど、彼女が話しかけているのは私なんだろう。
理解の及ばない状況に、理解そのものを諦めて、私は顔を上げる。――初めて、紫の瞳と視線が克ちあった。
『この世界を』
「世界を救うって……地球を救えってこと?」
ぴたり。口を閉じて、彼女は答えなかった。
思わず私は眉を顰める。壊れた蓄音機のように同じ言葉を繰り返していた彼女が黙ってしまったので、辺りはしんと静まり返った。嫌な沈黙。
それに耐えかねて、私はもう一度問いかける。
「……あなたは、誰ですか? 神様なの?」
やっぱり、彼女は答えない。代わりに、それまでとは異なる言葉を投げかけてきた。
『この世界は今、闇に侵略されようとしています』
「世界……って、つまりアレ? 最近流行の? 異世界召喚とかそういう?」
『闇を祓うには光の種を宿した異世界人の力が必要なのです』
――この人、ゲームのチュートリアルに出てくる村人かなんかなんだろうか。
心の中で毒づく。どうやら会話は成り立たない仕様らしい。限りなく一方的に押し付けられる重大そうな単語の羅列に、私はこめかみを揉んだ。うん、でも、段々状況は掴めてきたぞ。
自分で言うのもなんだが、私は筋金入りのオタクである。”異世界から召喚された勇者が世界を救う”話は、甲竜伝説やら魔神英雄伝やらNG騎士やらの時代からのおなじみだ。
私は今から、勇者とかなんとかそういう類の”何か”として、異世界にぶっ飛ばされるのだろう。それも、私の意思に関係ないタイプの展開で。
確かに、この平々凡々とした生活から抜け出したいと思ったこともあった。見知らぬ土地で何の苦労もせずにイケメンにモテたい、なんて甘っちょろい願いを持ったこともある。いつか白馬に乗った王子様が……だって年頃の乙女なら一度は通る道だ。
でもそれはすべて、絶対に起こり得ない。起こらないと解っているからこそ妄想が捗るのであって。
現実的に考えて、平和な現代日本の便利快適清潔な生活に慣れきったノットサバイバーな一般女子がいきなり異世界に放り出されて生きて行けるものだろうか?いや、ない!
例えスーパーチートな能力を授かったとしても、割に合わない! 私は自分の身が可愛い!
「貴方がどこの神様か何か知りませんが、お断りします! 私そういうの向いてないんで! そもそもRPGとか途中で投げ出すタイプなんですよ。レベル上げとか地道なこと出来ないんです!」
『時間がありません。貴方の望む姿、望む力、望む役割を与えましょう』
「わりと潔癖症なところもあるし……あっ、私食べるのが趣味なんで! 異世界とかいったら美味しいものなさそうだし……だってどの小説を見ても、グルメで解決していく系多いじゃないですか? 食べるの好きだけど私作るの苦手だから、生きていけないと思うんですよね! チート能力は魅力だけど……っていうかこれ、一応聞こえてるんですよね? 返事くらいしてくれてもいいと思いません!?」
無駄とは思いつつ主張だけはしてみる。
大体このパターンで、家に帰れた話は見たことない(まあ、帰れちゃったら物語にならないわけだけど)。
だとしてもダメ元だ。向こう様だって世界を救いたいなら、少しでも確率の高い選択肢を選ぶべきであって、多分それは私じゃない。……私じゃないんじゃないかな。うん、私じゃないと思う。出来れば覚悟はしたくない。
「ねっ、もっとフロンティアスピリッツに溢れる若い子の方が良いですよ! 絶対人選間違ってますから!」
『心のままに求めなさい。さすれば道は開かれましょう』
「求めます求めます! 心のままに戻りたい! 私は地球の日本の我が家に帰りたいんです!」
『――さあ、時が満ちました。目覚めなさい、光の種を持つ子よ。闇を祓い、この世界に新しき光を齎すのです』
「待って待って! ちょっと、お願いだから、話をっ……」
しかし、私の祈りも叫びも伸ばした手も、空しく宙を舞う。
不意にずぼ、っと体が下に突き抜けるような感覚があって――雲のような、と思っていたものは実際雲だったらしい――そのまままっさかさま。重力に従い、私の体は落下していく。
「ひっ……ひぃゃあああああああ」
ぶおっ、と強い風が吹き上げ、煽られた木の葉のように体が浮いた。目を見開くと、眼下に広がるのは見知らぬ大地。大陸にそびえる山々、流れる大河、注ぐ海、点在する小島。どれも見たことが無い――けれど美しい、緑溢れる世界――まだ発展途上の世界。
「きれい、だけど……あー……もー……」
これが私が救わなくてはならない世界。そして、これから生きて行く世界。
――一度知ったら、帰れない。
とんだホラーだわ、と呟きながら、私はゆっくりと目を瞑り、風に体を任せ意識を手放した。