マリオネットは人並みの夢を見るか
初めて彼氏が出来たのは中学二年生の頃。相手は文化祭に遊びに来ていた大学生。きっかけはナンパ。
大学生からすれば中学生なんて子供にしか見えないだろうに、何でわざわざ私を、と思ったものだけど。 逆に中学生から見る大学生は立派な大人。ちょうど年上の男に憧れを抱く年頃だった私は、自分でも驚くほどあっさりと、彼に惹かれてしまった。
交際を始めて一、二ヶ月経った頃、私は彼に訊いた。
私のどこが好き? と。
ありがちで。あまりにもありがちで子供じみてて。今時誰も口にしないような、馬鹿馬鹿しい問い。
その時に彼がなんて答えたかは不思議なことにちっとも思い出せない。 思い出せないということはきっと、オリジナリティ溢れる回答でも私を満足させる回答でもなかったということなんだろう。
でも、彼の回答が今日の私に少なからずの影響を与えていることは否めない。
その時に感じたほんの些細な疑問が。
その時に感じたほんの瑣末な違和が。
私と私以外の全ての境界線を奪っていったんだから。
◇ ◇
彼の腕に抱かれる温かさ。押し寄せる快感の波。
なにも知らなければ。なにも気付かなければ。私はきっとこの真っ白な世界に溺れることも出来ただろうに。
今もこうして、あられもなく乱れながら私は、私を観測するもう一人の私に問いかけている。
どこまでが現実で、どこからが虚構なのか。どこまでが虚構でどこからが現実なのか。私が現実で彼が虚構なのか。あるいは私が虚構で彼が現実なのか。なにもかもが現実でなにもかもが虚構なのか。私を観測している私は本当に私なのか。私を認識している私は本当に私なのか。私ってなに? 私って誰? 私が私であるという確信が持てない。私を私だと認識する私が私であるという確信が持てない。
私が私であるという証は、どこ?
――――……ふと気付けば私は、彼の決して逞しいとは言えない腕を枕代わりにして、呆とした時間を過ごしていた。
この緩やかで心地好い気だるさは、果たして本物なんだろうか。
昏い部屋。閑かな部屋。隣にいるはずの彼の寝息が、膜一枚隔てているみたいにどこか遠く聴こえる。
あぁ、ひどい汗。流し落としたいけど、この時間にシャワーはまずい。顔だけ洗って我慢しよう。
踏みしめるたびに床に足が沈みこんでいくような感触が気持ち悪い。軋むフロアリングの音が擬音めいていて、一層の孤独感と空虚感を味わわせてくれる。
いつものことではあるけど、いつまで経っても慣れない。
どうして、どうして誰も疑問に思わないんだろう。
誰もがこの世界を真実であると信じ。誰もがこの世界を現実だと信じて疑わない。 どうして自分が信じているものが正しいと確信を持てるのだろう。
私は怖い。いつか突然に自分が失くなってしまうんじゃないか。自分を取り巻く世界が消えてしまうんじゃないかって。常にその恐怖と不安に苛まれながら生きてる。
洗面台の鏡の向こうに半裸の私の姿。
右手で頬を擦ると、鏡の向こうの私も右手で頬を擦る。口角を吊り上げて慣れない笑顔を作ると、鏡の向こうの私も笑う。
…………本当に?
あちら側が現実でこちら側が虚構じゃないって。そんな証拠がどこにある。私こそが、私がいるこの世界こそが、鏡に映し出された偽物だって。そんなことはありえないだなんて、どうして言い切れる。
我思う。故に我有り。
フランスの哲学者デカルトが唱えた有名な命題だ。でも私にとってはなんの慰めにもならない。
「ねぇ……本物は私? それともあなた?」
あえて口に出してみるも、もちろん返事はない。
溜め息に合わせて、水を流し、極力音を立てないように顔を洗う。程好い水の冷たさが、もう収拾不能なほど乱雑になった思考を一寸だけクリアにしてくれる。
そして/一息吐いてゆっくりと顔を上げたら/鏡の向こうに鏡の向こうに/私の姿を模し模したた/人形にしか人形にしか人形ニシカ見エナイ人形ガ。
太い糸で「×」の形に縫われたその口で、げたげたと人形が笑い、げたげたと人形が笑って、げたげたと人形が笑った。
「――――――――――」
鏡の向こうから発せられた「音」は、もはや人語のソレをすら成してはいなかった。
◆ ◆
どこかで聞き覚えがある音。そう、これは鉄の軋む音だ。無機質で不愉快な音なのに、どうしてか懐かしい。
対面の座席に座っているアレはなんだろう。見覚えがあるようなないような……あぁ、アレは父を模した人形だ。
目の代わりに黒いボタンをその顔に縫い付けられた父は、微動だにせずに私を見ている。違うか。本物の目がないんだ。ボタンの目じゃなんの像も結びはしないか。
それにしてもどうしたことだろう。体がなに一つとして動かせない。手も足も、首も、眼球さえ動かせない。
父の人形はともかく、この部屋の様子や背景から、多分ここは観覧車の中なんだろうという予想は付く。周囲を見回せないから確認のしようはないけど、まず間違いはないだろう。
「あ、すごぉい。街があんなに小さく見える。ねぇねぇ、私のおうちはどこかなぁ」
頭上から幼い声。背筋をなにかがぞろりと這った気がした。
「ほら、見て見て。きれーだよ」
体が大きく振られ、窓の外へと視界が動く。見下ろす街が夕陽の赤に染まって、郷愁的で寂然とした風景を映し出している。
あぁ、これは確かにキレイだ。そこに人が生きている気配をまるで感じさせない、人の営みが枯れ果てたような街並みは、まるで私の心境そのまま。
そんな風景に見惚れていた私はだけど、不意に現実に引き戻される。
だって気付いてしまったんだ。窓に反射する私の姿に。そうか。だから手も足も首も眼球も、体という体を動かせなかったのか。
ボタンの目。バッテンの口。雑に貼り付けられた糸の髪の毛。わたしを背後から抱きしめる顔の見えない少女。
これがつまり、私が求め続けてきた答えそのものなんだろうか。
これがつまり、私が探し続けてきた答えそのものなんだろうか。
「……気付いちゃだめだよ」
私を抱く少女が、囁く。いくつもの思惑と感情が入り混じって抑揚を失ってしまったような、そんな魔的な声色で、少女が囁く。
「与えられた人生になんの疑問も持っちゃだめ。なにも知らないまま、群れに飲み込まれながら必死で生きるから人間は面白いんだよ?」
少女が喉を鳴らして嗤う。
私を滑稽だと。愚鈍だと嗤う。しょせん私なんて彼女の玩具にすぎなかったんだと、思い知らされる。
「なにも知らなければ、きっと幸せになれたのにね。でももうだめ。もう終わり。あなたは気付いちゃったもの。そんなの楽しくない。つまんない。だからね、あなたはもういらない。全部やり直すの」
いつの間にか開いていたドアから無造作に投げ捨てられる。強く吹き付ける冷たい風が、浮いているのか落ちているのか分からない身体を襲う。視界がぐるぐると無茶苦茶に動いて気持ち悪い。
一瞬、窓の向こうから私を見下ろす「私」が見えた。口許を三日月のように歪め上げて私を見下ろす、「私」が見えた。
あぁ。私、本当に終わってしまうんだ。あっけない。でも、とても悲しい。とても寂しい。こんなことなら彼女の言うとおり、なにも知らないまま、せめてなにも知らないフリをして、なにも気付かないフリをして、作られた社会の中で生きていれば良かった。
こんな終わり方、さすがに予想出来なかったな。彼にお別れを言っておきたかった。
遠ざかっていく大きな観覧車。夕陽に染められた空。誰もいない街。
人形の体に流れるはずのない涙が、頬を一筋伝った気がした。
◇ ◇
目を開けると、そこは見知った部屋だった。
「…………あれ?」
見知った部屋、なんだけど。なにかおかしい。私自身の記憶と上手く噛み合わない。
あ、ここ、実家の私の部屋だ。や、私の部屋だ、じゃない。どうして私、実家で寝てるんだろう。確か私は人形で、観覧車から落とされて……あれ? ちょっと待てよ。
そんな訳ない。だって私、昨夜は彼と彼の部屋で寝てたはずだし。あれ? でもおかしい。昨夜の彼、私の知ってる彼じゃなかったような。
変だな。なんか記憶がぐちゃぐちゃだ。なにがどうなってるんだろう。
ふと、壁に掛かったその服が目に入った。
「………………」
制服だ。中学の時に着てた制服。なんでまだ壁に掛かってるんだろう。私がいない間にお母さんが飾ったんだろうか。
なんのために?
変に気になる。ちょっと訊いてみよう。
ベッドを降りて、ドアへ向かう。そこで、壁際に置かれたスタンドミラーの中の私と目が合った。
そうなることがあらかじめ決まっていたかのようにごくごく自然に滑らかに、思考が停止した。
鏡に映る私は、どこからどう見ても、どれだけ目を凝らして見ようとも、いったん目を逸らして改めて見ようとも。見事に中学時分の私だった。
「……あ、あぁ。そっか。そりゃ、そうだ。あ、あはははは」
脱力。なんだ。そうだ、私まだ中学生なんだ。壁に制服が掛かってたってなんにも不思議じゃないし、私が実家にいるのだって当たり前だ。
おかしいと思った。知らない男に抱かれてたり、私が人形だったり、お父さんまで人形だったり。挙句の果てには幼い私に、生まれてこの方乗ったこともない観覧車から投げ落とされたり。
全く、気付いてしまえばなんのことはない。変な夢見ちゃったから混乱してただけじゃないか。早い話が寝呆けてただけ。
なんてホッと一息吐いたところで、枕元に置いた携帯がお気に入りの着うたを鳴らし始めた。
どうしてお気に入りかって、この曲は私の好きな歌で彼からの電話を示すものだから。そうそう、おかげで思い出した。今日は彼とデートの約束があるんだった。
「もしもし――――……ん、分かった」
約束は十時。ただいまの時刻は九時三十分。彼からの電話は、待ち合わせ時間を一時間遅らせてほしいという内容だった。助かった。おかげで、少し余裕を持って準備が出来る。彼に会えるのが遅くなるのが少し残念だけど、寝グセでぐちゃぐちゃの髪で会うより万倍マシだ。
じゃあ、さっさと準備をしよう。
思わずスキップしたくなるのを堪えて、クローゼットからお気に入りの服をいくつか引っ張り出す。
鼻唄交じりに鏡の前で服を合わせる。ひらひらとした、如何にも女の子らしいデザインはあまり好きじゃない。というか似合わない。大人になれば着こなせるようになるかな、と期待しながらも大人になった自分が上手く想像出来なかったり。
それはともかくコーディネートも決まって後は髪とメイクだと歩き出した私の視界の端、鏡の向こうに一瞬なにかが見えた気がして覗き込む。
映っているのは間の抜けた顔をした私と、なんの変哲もない私の部屋。
気のせいか、と改めて部屋を出る。
彼が迎えに来る前に準備を済ませなきゃと気負う私はもう、夜に見た夢のことなんて覚えてはいなかった。
終