1 気がついたら記憶喪失で雪山!?
「——い、————ヒュー——たら————ぞ!!」
『彼』は心地良い睡魔に身を任せていた所だったのだが、何やら切羽詰った声と激しい揺れにそれを中断せざるを得なかった。
そうして意識を『起きる』方向へと向けると、不思議と先程は全く聞き取れなかった言葉も鮮明に聞こえるようになってきた。
「おぉぉいぃぃーっ、ヒューーーイ! ここで寝たら死ぬぞぉぉ!!」
ガンガンガンガン!
ついでに何か後頭部の痛み的なものも鮮明に。どうやらユッサユッサと激しくシェイクされている頭が、岩のような硬いものにぶつかっているようである。これでは寝て死ぬ前に、声の主の攻撃で死にそうな予感がヒシヒシと。
……あれっ? これ、気遣うと見せかけて抹殺しようとしてませんか? あと、自分の名前はどうやらヒューイというらしい。と、どこか他人事のように考えつつ『彼』は目を開いた。
「おぉ、気が付いたかヒューイ!」
そして『彼』の視界に映ったのは、茶髪で三白眼の青年のどアップ。鍛えているのか、程よく筋肉がついていて頼り甲斐のありそうだ。
青年から視線を外せば、ゴツゴツとした岩が多く少し薄暗い。夜なのだろうかとも思ったが、どうやらここは洞窟の中らしい。よくよく見てみると所々に明かりらしきものが灯されているようで視界はそう悪くない。
更に後方には数人、青年と似たような少しキッチリとした服——制服? のようなものを着た少年が四名ほど、こちらを遠巻きにしているのが見えた。各々、腰に剣や短剣などの武器を下げている。
——ただ、『彼』はその誰にも見覚えがなかった。
「…………あの、どちら様でしょーか?」
ざわっ。
口を開いた途端、何故かざわつく周囲。かなり困惑気味な空気も漂っている。普通に尋ねただけなのに、青年に至っては困惑というより「何だこれ?」という物を見る目をしていた。
「……あー。本当に俺が誰か分からんのか?」
「……ステキなナイスミドルさんですか?」
「違っげーよ!? 俺はまだ二十代だ!! つかお前意味解ってねーだろ!?」
「なんかノリで……」
「ノリかよ! ……いや、そこはまぁいい。俺は教官兼班長のアルフレッドだ」
「キョーカン兼ハンチョー?」
「とりあえず今の所は班長とでも呼んどけ」
青年——アルフレッドはそう言うと、まさかこれは……と考え込み始めた。
他の少年達も今の二人のやり取りに思う所があるようでハラハラとした空気を醸し出しつつも口は出してこない。
「あの……ハンチョー。話は変わるんですけど、ここどこなんでしょうか? あー、あと僕の名前、ヒューイってコトでおけ?」
*
その後、幾つかの質疑応答を終えた結果判明したのは——
「——つまり、お前は今までの記憶はおろか、自分の名前すらも覚えていない、と?」
「はいっ!」
「なんでそう無駄に元気なんだお前。つーか原型まるで残ってねーじゃねーか!」
「原型?」
「あー、いや、そっちは置いておこう。つーか忘れておけ。そしてお前はできれば一生今のままでいろ、割と本気で」
「……まぁ、可能な範囲で善処しまっす。記憶、戻っちゃったらどーなるか判りませんけど」
「そこは記憶が戻らねぇように努力しろ」
「りょーかいでありますっ、ハンチョー!」
ビシィっと敬礼して答えるヒューイに、アルフレッドは逆に不安を隠せなかった。あまりにも素直すぎるヒューイに、え? コレ、ホントに本人か? という疑念が捨てきれない。それだけビフォアーアフターに差があった。
「……まさか影武者でした、なんてオチは無いよな? な、無いよな?」
もし万が一目の前のヒューイが影武者だった場合、本物が観察している可能性が高い。その時は、先程から今までの会話や態度で不興を買い、ヒューイの実家からの圧力が掛かりクビになるのは確実である。それくらい気安く接してしまった自覚はアルフレッドにもある。
「きおくそーしつなのでわかりませーん」
——のだが、ヒューイ自身の様子を見るに記憶喪失のフリをしているようには見えないので、大丈夫そうな気がしてきた。こんな影武者をわざわざ用意してまでアルフレッドを陥れる意味はない。
「……とゆか、僕に影武者なんているんですか?」
そんな疑問にアルフレッドは、ヒューイが伯爵家の三男坊「ヒューイ・フォン・ユストゥス」である事を伝えた。影武者に関しては、いるかもしれないレベルである。三男なのでそんなものがいる可能性は限りなく低い——嫌がらせでもない限りは——のではあるが。
そして現在ヒューイは騎士学校に所属しており、今回は学外で生徒五人+教官一人の六人一組での実地訓練で雪山へ行軍していた所であった旨の説明もあった。基本的にはサバイバル実地体験+気休め程度の害獣駆除が目的らしい。
「ところでハンチョー。おなかがすきました!」
「荷物の中に携帯食が入ってるから、それでも食っとけ!」
伯爵家の人間にする返答にしては投げやりな対応でしかなかったが、特に気にするでもなくヒューイは荷物を漁る事にした。
*
食っとけ! とは言われたものの、取り出したブロック型の携帯食はとても味気なさそうな上に原料が全く想像できないシロモノだった。
「……うーん。このまま食べるって気にはなれないなぁ、コレ」
どうしたものかと考え込むヒューイの視界に、ふと目に付いた物があった。鍋、そして何かが入った袋。気になる袋の中を覗くと、山菜やキノコが。アルフレッドが実地訓練云々と言っていたので、もしかすると道中で採取した食料の一部かもしれない。ならば使っても良いだろうと判断して漁り始めた。
これはいい感じ、これは駄目な感じ、これは普通な感じ……と選り分けていく。選別基準は完全なる勘である。
そうして材料の選別も終われば、いよいよ調理のターン。
まずはなるべく上澄みのきれいな雪を鍋へ詰め込み火にかける。雪がとけて水になった所へ、干し肉を削ぎ切りで投入。次に先ほど選別したキノコやら山菜をドバッとぶち込んで煮立つまで少々待つ。後はカサ増しのため適当に、原料不明のブロック型携帯食もぶち込んで、これまた何故か荷物に入っていたチーズを少量削ぎ切りにして散らしたら……完成!
料理名? そんなものはない! と言わんばかりの勘とフィーリングのコラボ料理である。最後にお椀に装えば、後はもう味わうのみ。
「はぐはぐ……予想外においしーかも……はぐはぐ」
スプーンで掬えば、水分でふやけたブロック型携帯食の上にとろけたチーズが乗っている。口に入れれば程よく溶けたチーズの固さと柔らかい携帯食の食感が丁度いい。味はキノコや山菜から出たダシと、干し肉とチーズの塩分が程よくマッチしている。
熱さに苦戦しつつ食べるヒューイの元に、逆立てた短い黒髪に、開いているのかわからないくらい細められた糸目の大柄な少年がやって来た。左腕には少し大きめの盾の様なものを取り付けているのも特徴的だ。
「——隣、いいかの?」
見た目の年齢からすると少々時代かかった口調であるが、落ち着いた雰囲気から違和感は無い。
「いいよー。えっと……」
「フェルディナントじゃ。フェルでいい」
「フェル、お隣どーぞ。あと、ご飯いる?」
「うむ。頂くとしよう」
ヒューイから椀を受け取り、中身をひとくち口にしたフェルは目を細めた。
「これは……旨いな」
「うをっ、褒められた!?」
大げさに反応するヒューイにフェルは苦笑いしつつ続ける。
「この資源が限られた中で作ったにしては……という但書きは付くがの。それにしても、意外な才能というのがあるもんじゃな」
「あはは……お粗末様です」
「——!!」
ヒューイの謙遜に、以前の彼を知るフェルは今度こそ絶句したのだった。以前の彼は謙遜など絶対にしなかったから。
*
「大変っす! 索敵陣に敵性反応が!!」
ヒューイとフェルが食事を終わらせて僅かながらもまったりとした空気が流れていた中、不意に敵襲を告げる声が響いた。その声に散っていた者たちも集まって来て、さっそく作戦会議が始まる。
「…そ、その、陣の反応からすると、かなり大きな個体の可能性が高いっす!」
と、まず斥候担当の少年ローレンツ——茶髪で頭に巻いたバンダナと着崩した制服がちょっとしたポイントだ。普段は人懐っこそうな表情が似合いそうな造作が、緊急事態で強張っている——が緊張した面持ちで切り出す。想定していた反応から悪い意味で大きな反応に声が震えていた。
「……ん。視えた。……スカーレットグリズリー」
魔術担当の少年テオドール——フード付きのマントを纏っているため表情は伺えない。フードからは銀の長い束ねられた髪が覗いている——が、発動していた遠見の魔術で敵の姿を確認。
「オイオイ、スカーレットグリズリーだと!? 脅威度Cの大物の魔物じゃねーか!!」
アルフレッドが驚きの声を上げる。脅威度Cの魔物となると、今のメンバーでも倒せるかどうか——この面子、実は学年の中ではトップレベルである。ヒューイを除いて——……微妙なラインだ。せめて彼らにもう少し実戦経験があれば勝率も上がるのだろうが……。
ヒューイという重要人物かつ足手まといを抱えたまま戦うのは、できれば避けたいレベルの敵対生物だった。
「大物だろうが何だろうが倒してしまえば何も問題は無い」
ただ一人冷静に意見したのは前衛担当の剣士であるエルンスト——金髪碧眼の凛々しい表情をした少年——だった。
「中々に厄介そうじゃのう……」
残るフェルは盾役である。
どうやらスカーレットグリズリーがこの場所へ向かって来ている可能性が高い以上、どちらにせよ迎撃は必要という結論を出さざるを得なかった。
皆が忙しなく迎撃態勢を整える中、ヒューイだけはのほほんとしていた。まぁ、さしものアルフレッドも記憶喪失者の助力など望んではいないだろう。むしろ余計な事をして場を乱す方が問題だろうと考えての事である。そもそも『魔物』とやらを相手に自分がどう行動すれば良いか分からなかったというのもある。
考えるのは、現在こちらに接近している脅威であるスカーレットグリズリーなる生物に関して。スカーレットと名がつくぐらいなのだから、たぶん赤いのだろう。そしてグリズリー=熊。つまり……
スカーレットグリズリー=赤い熊。
熊だけに雪山なので冬眠していそうなものだが、はぐれ個体か、『魔物』というくらいだから普通の熊とは違うところがあるのかもしれない。
(そういえば、熊の手って珍味だって何処かで聞いた気がする……!)
珍味——すなわち珍しい食材! 滅多に味わえないもの!!
ヒューイは思わずじゅるり、とつばを飲み込んだ。
今まさにこちらへ突撃せんと向かってくる熊をどうにか出来れば……命は助かり、今夜の食材(しかも珍味)をゲットだぜ! 今夜は熊鍋だよ!!
「………………熊鍋、とっても食べたいです」
——そして彼の暴走が始まった。
*
アルフレッドたちはスカーレットグリズリーと対峙していた。前衛にエルンストとフェル。中衛にフォロー役として自身とローレンツが。そして後衛にテオドール。
事態はにらみ合いで膠着。どちらかが先に動けば、すぐさま戦闘が始まる。そんな状況だった。
——乱入者が現れるまでは。
「くーまーなーべーっ!!」
「——は? ちょ、おまっ、ヒューイ!?」
唐突に躍り出た人影にアルフレッドは驚きの声を上げる。洞窟の奥で大人しくしていたはずのお前が何故ここで出てくるのだ、と。
そこからは、あっという間の出来事だった。
まずヒューイは下げていた剣を抜き放ち、熊の頭目掛けて投擲。
「とりゃー!」
力が篭ってるんだか篭っていないんだか判らない掛け声とともに放たれた剣は見事に熊の目に命中した。だが傷は浅い。
「ちぇすとー!」
見越していたのか間を置かず飛び蹴りを放つヒューイ。その先は熊の目に刺さった剣。
「グアァァァァッ!!」
より深くめり込んだ剣に、堪らず声を上げる熊。ヒューイは反動で吹き飛ばされたものの、空中で一回転して体勢を整え無事に後方へ着地した。記憶喪失者とはとても思えないほど見事なもので、それは戦闘に慣れた者のそれだ。
肝心の熊はというと、しばらくジタバタと暴れていたが、そのうち動かなくなった。
「熊、獲ったどー!! みんなー、今夜は熊鍋だよっ!!」
呆然とする一同に、振り向き満面の笑みでVサインを決めるヒューイ。
しかしその喜びも長くは続かない。仕留めた熊が突如として淡く光りだしたかと思うと、何やら拳大の石を残して消えてしまったのだ。
ヒューイがアタフタし始めた時には既にその巨体は影も形も無くなっていたのだった。
「あー、その、な。非常に言い難い事なんだが……」
アルフレッドは憐れみの篭った視線をヒューイへと向けつつ続けた。
「動物と違って、魔物は倒されると魔石と特定部位の素材しか残らんのだ……」
ちなみにスカーレットグリズリーのドロップは基本的に前者のみ。運が良くても毛皮であるとのお言葉に、ヒューイは泣き崩れたのだった。
*
——翌日。
帰路に着いた一行。森を歩くその中でヒューイはふとした疑問をこぼした。
「そういえば、僕のきおくそーしつの件はどんな扱いになるんですか?」
「……そうさなぁ、スカーレットグリズリー遭遇のショックでってのが無難な所だろうな」
「えっ? 僕としてはハンチョーの頭シェイクが直接の原因だと——」
ヒューイの言葉を遮るように、ギギギとアルフレッドの顔が彼へと向けられた。ただでさえ座って見える目が更に危険な光を帯びている。
「ヒューーーイ。オレハオマエニハナニモシテイナイ。イイナ?」
「リョッ、リョウカイデアリマス、ハンチョー」
逆らう術のない兎さんは無条件降伏するしか無かった。それを確認した途端にアルフレッドは常の状態に戻る。
「——んで、お前にゃ悪いが、スカーレットグリズリーは俺らの班全員で仕留めた事にする。何せ脅威度Cだからな」
以前——実習出発直前で——のヒューイの成績からすれば、一人で仕留めたなどと言っても誰も信じないだろうとの事。それこそ現場で実際に目撃した人間でもなければ信じられない光景ではあった。
「……まぁ、僕は美味しいご飯さえ奢ってもらえれば、大抵のことは流せる自信ありますけどー」
「記憶喪失の癖に何でそう食欲旺盛なんだお前は!?」
「ハンチョー、知ってます? 食欲は人間の持つ三大欲求の一つなんですよ」
「……記憶喪失でもそういう雑学は残ってるのな」
「あとは家族とかへの説明とか……あ、病院とか行かなきゃなんじゃ」
でも医者にかかったら、ハンチョーの完全犯罪もバレちゃうかもしれないデスネ。何か後頭部が痛いし。と、ヒューイが舌を出して呟くと、途端にアルフレッドは青くなった。確かに強打部分は自力では怪我しづらい場所である。
「め、メメメメメディーック! 一行の中にメディックはいらっしゃいませんかぁぁぁ!?」
森の中には何時までもアルフレッドの声が響き渡っていた。