第六話 主人公の見た目は70年代のフォークシンガーっぽい
頬に大きな赤い手のひらの跡を付けた俺は、ずかずかと前を歩く緑先輩のあとを追いかけた。そして半ば三階の掃除を半分ほど終わらせた午前七時ちょっと前、怒った顔で彼女は振り返る。
「そろそろ舞お嬢様起きるよ」
とぶっきらぼうに言って、廊下の真ん中にある幅の広い階段を目指した。
階段の隣にあるエレベーターを使わずに、赤いじゅうたんの敷かれたをそれを、緑先輩は一段飛ばして降りていった。俺もすぐに続いて降りた。
「珍しく階段使うんスね」
と俺が尋ねてみると、彼女はなにも言わずに二階と三階の間にある踊り場で今度は振り返らずに、無視して降りていってしまった。
そんな態度に少し舌打ちしてみたが、音はむなしく壁に反射するだけで、彼女の耳には届くことが無かった。
まあ、無理もないか。普通に考えて成人した男が、まだ年端もいかない女の子(緑先輩の年齢は知らないが)のおぱんつを見た上に股間を押さえていたずらを仕掛けるとはっきりと申し上げたわけだからな。普通に考えればヘンタイかヘンシツシャかロリコンだ。
確かに健康的で白よりも黄色の目立つ綺麗で曲線の少ない太ももの裏側に、清楚でまだ幼さの見えるおぱんつが目の前にあれば、その手の人間は間違いなく一発で理性が吹き飛ぶだろう。それに彼女は身長も低く、全体的に出るところもあまり出ていないし、引っ込むところもいまいち引っ込んでいない。顔も上等で、性格が生意気でさえ無ければ……そうだな、例えば桃ちゃんみたいな子だったら間違いなく俺の顔も赤面していたに違いないだろう。
「はあ」
とはいっても、出会って間もないし、ストライクゾーンではないし、そんな余裕すらない俺が欲情するわけもなく、ただ殴られただけで、損とは言わずとも少し中途半端な気分だった。だからためいきをついてしまう。
「あなた、ためいきをつかないで」
「ああ、つい」
「なにを悩んでいるの?」
「いや、緑先輩のおぱんつがたまたま目の前に……」
ハッとした。
「そう、日日はロリコンだったのね」
振り向いた。いつの間にかここは二階だったらしい。制服姿の舞――お嬢様が俺の視線の先で、相変わらず変化の乏しい口調と表情でそこに立っていた。
「これは、これは失礼を致しました!」
俺は自分でも驚くくらい身体を曲げていた。それくらい焦っている。ヤバイ。初日からクビが飛ぶ……!
しかし舞お嬢様は笑うことも侮蔑することもなさそうな顔のまま、口を開いて
「おはよう日日。あなたは見た目以上に頭が変なのね」
と厳しい言葉を突きつけてきた。
「うぐっ」
確かにいまの俺の見た目はスーツを着た浮浪者みたいなもんだからな……。ひげくらいは剃ろう。
少し傷ついた俺のハートはその冷たい視線に射抜かれてしまっていて動けない。
この少女は見た目や年齢という偏見に騙されてはいけない、と思った。青さんとは違った意味での強烈なオーラを感じて、すくみあがってしまう。
俺は視線を反らせないまま、じっと棒立ちしていると、少しあきれたように鼻を鳴らして、
「一階まで一緒に」
と言い、階段の横にあるエレベーターのボタンを押した。
それが到着しても、数秒固まったままの俺は、じっと目を覗き込まれる。まるで王様に命令されて、それに呼応して跪くジャックのように、足が勝手に動きだした。錯覚かもしれないが、そう感じた。
エレベーターの中で、舞お嬢様とこれだけ近くに居られるのは、二日目にして初めてだった、と思う。見れば見るほど艶のある長い黒髪は、一部だけ後ろでまとめられて少しだけ幼い印象を受けた。身長は俺の肩くらいだろうか? 頭一個分違うその華奢な彼女からは想像もできないほどの貴族らしいのだから、世の中っていうのはよくわからない。
彼女のその美しく整った顔立ちは、少しだけアメリカとかイギリスとか、所謂外国人だとかそんな印象を受ける。子供の頃見た宝石のエメラルド、よりもヒスイに近い、見る人を誰しも魅了するだろう緑色の瞳。白い肌は透き通って、向こう側の大理石の壁すらも見えるような気がした。
「日日」
「……は、はい」
舞お嬢様が急に呼ぶものだからとても驚いた。それ以上にその精巧な人形だと言っても差し支えないほど綺麗な彼女に見とれていたのも事実だ。
彼女が言葉を発する前に、エレベーターはあっさりと一階まで着いてしまう。
「今朝は少しうるさかったわ」
俺を見ることも無く、その狭い空間を彼女自身が離れていった。
――今朝の騒動、かなり迷惑だったかもしれない。
出て行ってしまった後姿を俺はやはり、ただ見ているだけだった。
……。
「おはようございます、お嬢様。今日はいかがな調子でございますか?」
「おはよう。今朝もいつも通りね」
寺尾さんと舞お嬢様の淡白な会話で、そこにいるメイドたちは全員彼女に向か、息を合わせたおじぎをする。
例の大きなテーブルが置いてある間で、舞お嬢様を除いた全員が、彼女をその一番向こう側の椅子へと迎え入れた。俺は遅刻した。
「今日は金曜日ですから、夜に隣県の魚出様との会食が一九時半にございます」
寺尾さんがどこからともなく取り出した黒革の手帳から、今日それがあるらしいスケジュールを読み上げる。舞お嬢様もわかっているらしく、うなずくだけで、特になにか言うこともなかった。
「ですから、一七時までにはご帰宅いただきました後、身支度を終え次第……一八時半には出られることが望ましいでしょう。」
「わかったわ、寺尾」
彼女はそれだけ言って、片手を上げて寺尾さんを制した。彼も特にそれ以上何も言うことなく、一礼して引き下がった。
「グッモーニン! マイマスター!」
タイミングを見計らったように、ドアを大きく開けて出てきたのは、朝からその元気を振りまいている金だった。銀色のワゴンに白のクロスがかけられ、その上には朝食と呼べるものが並んでいる。
ハムエッグとバターが塗られていて端が良く焼けているトースト、コーンポタージュ、だろうかそれらしいスープが並んでいて、その匂いに、思わず俺は本能的に生唾を飲み込んでしまった。美味しそうなのだ。
「おはよう金。今日はあなたね、期待できそうだわ」
金はそれに応えるように、目を細めて笑みを浮かべた。まるで太陽みたいに輝いて見えた。
そんな風にぼおっとしていたら、隣に立っていた緑先輩が俺の脚を小突いてきた。
「なんスか」
俺が小声で尋ねると、先輩も聞こえるか聞こえないかのギリギリの声で、
「あたしお腹減っちゃったよ」
とわざわざ俺に報告してくれた。口の端によだれが垂れていて、ちょっとみっともなかった。
「それでは、召し上がれデス!」
「ええ、いただくわ」
金はまたバレエダンサーのように脚で弧を描きながら俺の左隣までやってきた。そして、俺と目が合ったと思ったら、親指を立ててウィンクしてきた。
「……うん、これは美味しい」
小さな声だったが、確かに舞お嬢様はそう言った。ということは、金にとっても、今日は絶好調と言うことだろうか。
「流石は金ですな、メイドの中でも最も料理の腕に優れていると言っても過言ではありません」
と寺尾さんが解説して、その隣に立っていた白さんも二度うなずいた。
結局舞お嬢さまは食事中はそれっきり何も言わずに食べ終えてしまった。そして
「ごちそうさま」
と言うと、手元にあったナプキンで口元を上品にぬぐって、金のほうへ目を向ける。
金はそれに合わせてワゴンに皿を載せてさっさと運んでいってしまった。その顔は満足そうだった。
「私はそろそろ車の準備をして参ります」
と寺尾さんも一礼して出て行った。
「じゃああとはよろしくお願いするわ」
お嬢さまもそれに続いて立ち上がると、その場にいた全員にそれとなく緊張が走る。そして扉に向かって歩いていくと、一人ずつおじぎをして、それを返答とした。
「日日」
しかし彼女は俺の目の前で足を止めた。
俺たちは今朝のように近い距離で目が合う。その澄み切った目に、俺の心臓の鼓動が跳ねあがる。
「ついてきて」
ただそう言うだけですぐにまた歩き出してしまった。
「はあ」
俺はあいまいな返事のままその後を追った。
……。
静かになった廊下では、外のすずめの声が良く聴こえてくる。俺たち以外は誰も見ていないそのカーペットの上で、突然舞お嬢さまは振り返って言った。
「日日」
「はい」
見つめてくる碧い瞳は、真剣なものだった。やはりその目はどこか人をひきつけたり、畏怖させたり、とにかく相手に『格上』であることを思い知らせる説得力があった。しかし、時折それは今にも消えてしまいそうなろうそくの火のように揺らいでいる。
「変でしょう、私」
数秒見つめあった後、お嬢さまはそう言った。
俺はその吸い込まれそうな瞳に、どう返していいか困った。というか、出てくる言葉が全て、本当ではない気がして、何も言うことができなかった。
彼女は何かを察したのか、目を伏してまた先を歩いた。本心では「ええ、変です」と応えたかったのを見破られてしまったのかもしれない。顔に出ていたのかもしれない。でもなんとなくそんなことではなくて、無言でいたことに肯定の意を感じたのかもしれない。
結局、舞お嬢さまは制服を着たまま、自分の部屋へ戻っていってしまった。エレベーターに乗るまで、その何か言いたげな背中をただ見送っていくことしか出来なかった。
――まあ正直『変』だよな。毎朝ご飯を食べるのにもメイドたちに囲まれるし、普通の学生だったら学校が終わってから街に繰り出してもおかしくない時間も、事情はよくわかっていないが拘束をされるのも、送り迎えを当たり前のようにされるのも……。
彼女が俺に問いかけたことは、恐らく自分への問答みたいなものかもしれない。
その場に立ち尽くして考えていると、来た道から二人分の大きな足音がして、思わず振り返る。
「あ、誠人さん! 僕たちは学校に行きますので後よろしくお願いしまーす!」
その主は桃ちゃんと黒だった。二人はいつの間にか着替えたらしく、白いスカーフと黒色のプリーツスカートがひらひらとしたセーラー服に身を包んで大急ぎで出て行った。桃ちゃんが黒の手を引いてリードしていたのでちょっと微笑ましかった。
「いってらっしゃい」
俺はすでにいなくなった二人と、もう一人に声をかけてみたが、やはり返事は無かった