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第三話 初仕事の前日は夜も眠れないって、わかる?

 エレベーターが再び三階を目指す。赤いカーペットは革靴の裏側にしっかりとフィットして、重心がまた吸い込まれていくような感覚にも気にならないように仕組まれている気がする。

 今日は疲れた。いや、本当はずっと疲れていたんだろうけど、感覚が麻痺しすぎて今更になってその疲労感はどっと押し寄せてきた。それに加えてお腹も空いてきた。ここ一週間何も食べていなかったし、今にも倒れそうなのだが、気づけばここまでしっかり歩けている。

「誠人、お嬢様には最大限の感謝と忠誠を誓うように」

「ああ、そうするよ」

 寺尾さんは俺に対していまだ白い視線と言葉を投げかける。

「お前は私に対しても敬語を使うべきだと思いますが」

「……そうですね、これからは寺尾さんが上司になりますからね」

 俺はいままで企業だとか会社だとか、真面目に働いてきた経験はない。たかだかスーパーのアルバイトを数年経験した程度の、「正しいのかどうかわからない敬語」で話さなくてはならないのだから、自分の教養の無さにストレスを感じずにはいられなかった。

「寺尾さんもその『お前』というのをやめてくれませんか?」

 と俺は先ほどから疑問に思っていたことを口にすると、彼はため息をついて答えた。

「そうですね、誠人君の仰られることはご最もです」

 そう言って、エレベーターがまたあのベルを鳴らして到着を告げると、その大きな口を開ける。

「紹介が遅れましたが、私は寺尾六肋郎てらろくろくろうと申します。六宮ろくのみや家に仕える執事にございます」

「改めて、日日誠人たちもりまさひとです」

  俺たちは廊下に出てから、案内の途中で簡潔な自己紹介とこの家に関する話をすることにした。

六宮ろくのみや家について知りたいのですが、どういった家柄なんですか?」

 と問えば。

「代々六宮家は、いわば華族と呼ばれる家柄にございます。中国地方にその祖があり、明治維新の際ににこちらへ移り住んできた後、『文明開化』に伴って多くの事業を成功させ繁栄した家にございます」

 寺尾さんは例えば、と付け加えて。

「建築分野のレンガだての家や洋風のホテル、そこにおしゃれなガス灯、そして紳士淑女が踊れるエントランスの設計。誠人君も気づいていると思われますが、一階はまさしくその名残であります」

 しかしそれらは時代に伴って衰退していくものだ。ガス灯なんてすでに使われていないし、そもそも六宮家の名はあまり全国的に有名じゃないからだ。

「大戦後、日本の復興に六宮家は建築の分野で大きく躍進いたしました。その後は先代の六宮政ろくのみやまさる様が政治家として日本を陰から支え……、現在は当主の六宮豪ろくのみやごう様が、ヨーロッパを中心に建築物の修繕事業などをしております。日本にも子会社が複数ございます。言うなれば裏方の王と言うところでしょうか」

 ――なるほど。日本は戦争の際にその建築物を多く失ったと聞くし、そのときの最高に力を尽くした結果、政治への躍進、そして成功を収めることができたわけだ。そうなれば日本だけにとどまる必要もないのかもしれないな。

 と考えつつも、俺はそんなことは口にも出さずに、ただ「へえ……」と言うだけだった。

 寺尾さんが喋っているうちに俺の部屋らしい場所まで着いた。どうやら位置的には最も階段から遠い場所にあるらしく、古い木のドアに、用具室と書かれた札がその上にプラスチックのプレートに目が行く。

 ――おいおい、もしかして。とは思っていたが、実際その部屋に通されてみれば、予想通りともいえる、湿気くさいモップや雑巾の臭いが立ち込める部屋だった。

「君の部屋が確保できなかったからしばらくの間はここが住まいになる。用具は全て向かい側の用具室に置いているから安心してください」

「いや、そういう問題では」

 言いかけてやめた。一応ベッドはあるようだし、ここで働かせてもらえるだけでありがたいんだから。

 しかしその声はすでに寺尾さんに届いていたらしく、不満そうな顔と声で

「不満であればすぐに出て行っていただいて、結構ですが」

 と言った。

「食事はご自分で用意してください、と言いたいところですが今日は私が用意しましょう」

 そう言って寺尾さんは部屋を出て行ってしまった。

 ――余計なことを言ってしまったな。反省の色がありありと顔に浮かんでいるのがわかる。

 用意されたベッドに横たわってみると、いままでの緊張の糸がふっと切れたように、腹の音がなった。今日は色々なことが多すぎて空腹だったことも忘れていたのかもしれないな。

 俺は立ち上がって部屋をもう一度見てみる。四畳ほどの部屋にかつては雑巾が干されていただろう物干し竿と、急遽置かれたらしい寂れたベッド……極めつけは外で使っているような、折りたたみ式の簡素な机がベッドの横にくっついていた。その上には液晶の端が潰れて黒くなった時計が置いてあり、十八時五十八分を示している。

 いやいや、贅沢というものだろう、これだけのものを全く浮浪者風情の俺が言うことじゃない。窓だって備え付けられていて素敵じゃないか。

 急にまた元気になってきて、空腹感から来る生物の衝動が俺を突き動かす。しかし狭すぎてなにもできないのが、少しだけ恨めしい。いやいや、さっき言ったばかりじゃないか。

 ……結局不満であることは隠しきれていないらしい。

 ほどなくして寺尾さんが俺に対して食事を持ってきてくれた。

「明日からは自分で作るように。家の中の案内も致しますから、今日はゆっくり体調を整えるように」

 と事務的に述べると、質素なドアを閉めてしまった。まだ怒っているのだろうか、明日顔を合わせたら謝っておかなくては。

 ――夕食はなんの縁だろうか、パンだった。しかし朝食べたものと違うのは、誰かが手を施してくれた、美味しいエッグトーストだということ。

 ていうか朝食べるものじゃないのかこれ、なんて思いながら、十数時間ぶりの食事を味わって食べた。また嬉しくて涙が出た。

 ……。

 不安だ。いったいなにが良くてあの様な男を雇おうなどとお考えなのか。

 私はこれまでまいお嬢様と何年も付き従い、その半生をともにしたと自負してきた、そしてそれが誇りであり、私の使命であると常に考えてきた。

「寺尾!」

 しかして、唐突だ。高等学校に進学されてからどこか大人びたかと思えば、またわがままを言い出す。ああ、親というものはこういうものなのだろうか、思わず一喜一憂してしまう。

「寺尾、返事をなさい!」

 思考にふけていると、私がいま問題としているお嬢様が、私を呼んでいた。何度も呼んでいたらしく、美しく崩れることの少ないそのお顔が、不機嫌そうに私を睨みつけているではないか。ひざをついて謝罪の意を示した。

「お許しくださいませ、この寺尾……自分の思考に溺れておりました」

「珍しい、考え事にふけるなんて」

 執事である私にとって、あるじである彼女は絶対であり、また私自身も完璧であるべきなのだ。いわゆる「美学」である。

「不覚でございます……」

 それが自分によって汚されたのであれば、恥じるのは当然である。しかしお嬢様はそんな私がおかしいのか、ふっと鼻で笑い、見透かしたように、

「あの男のことでしょう?」

 と言った。

 このように言われたのであれば、包み隠すこともなく、私は話した。

「いやはや、お嬢様にはかないませぬ……どうにも納得がゆかぬのです」

 私はお嬢様におそれおおくも意見している。根本的に機嫌が悪いのではなく、おそらくあえて私の不満を聞いてくださっているのだろう。

「わかっている、お前は公園で彼を見たときから軽蔑と嫌悪の混じった目で見ていたもの」

「ええ、恥ずかしながらあの愚かで下賎な彼を拾い上げるなど、いかに若くても私には理解しかねます」

「確かに今日の私はどうかしているのかもしれないわ」

「と、申しますと?」

「生徒会長などという下らない役職に就いたことに実感を得たから、かもしれない」

 そう言ってお嬢様はティーカップに入った紅茶を飲み干して、私に目線を向けた。

「――私はダージリンが好きね」

「少し大人になられたようで」

 その中に入っていたのはアールグレイ。今日の彼女の口にはいささか合っていなかったらしいが、それもまた今日の気分なのだろう。

「私は明日に向けて予習をするから、あとの片付けはお願いするわ」

「は、かしこまりました」

 お嬢様は私に一瞥して、自室のある二階へと向かった。私は彼女が残したティーカップと、少しだけ成長されたらしいその若々しさに喜んでいた。

 さて、明日から彼をどのように育てるべきか考えなければならない。ただでさえ雇うべき人数は多いくらいであるのに、彼にはいったいなにができるのか考えなくてはいけないのだと思うと、またため息も増える。

「ああ、ため息は幸せを逃がすという」

 誰に言うまでもなくそう呟くと、誰もいなくなったダイニングで静寂だけがその声に返事をしてくれた。

 キッチンではメイド長の土井どいが一人ですでに終わった夕食の洗い物をしており、ティーポットとカップを彼女の横に置く。

「あら、お嬢様はもうお部屋に?」

「ええ、今日は少しお疲れのようです」

 土井は特に気に留めた様子も無く、手を動かし続ける。

「そのくらいは弟子たちに任せても良いのではないでしょうか」

 私ははたと疑問に思ったことを口走ると、彼女は向き直ることも無いまま、私に似たようなため息をついて、

「あの子達に任せてもいいけれど、まだまだ危なっかしくて」

 と疲れたように言った。

 あの子達というのはこの六宮家に修行に来ているメイドたちのことであるが、今日はほとんど顔を合わせることがなかった。というのもおとといに急に全員で慰安旅行に行くようにと土井が提案したからである。

 誠人君が連れてこられる前に帰ってきたようだが、それぞれがすでに疲れきっていたのか、夕食も食べずに各々が部屋で寝ているらしい。

「ま、アタシ一人でも回せるからね、この家は」

「頭が下がる思いです」

 軽く会釈をすると、土井はまた皿洗いに集中したらしく、答えてくれそうにもない。

 しかし、彼女は気の利く人間だと感心する。お嬢様が好きな料理を作るだけでなく、その日の気分を察して味の濃い薄いを決めたり、少し不機嫌であればココアを持参して何も言わずに姿を消す。また上機嫌なときには美味しいケーキなどを焼いては一言、今日良いことがあったのですか、などと言う。私以上に、お嬢様の気分に関しては機敏であるといっても良いのだろう。

 ああ、そんな彼女に誠人君の指導をお願いしてみても良いのかもしれない。私ではどうも、彼に対して無駄に冷たく接してしまうきらいがある。が彼女は彼の見た目がどんなに汚らしくとも人並みに扱ってくれるし、今日のようにすんなりと彼の名前を引き出してくれた。あれだけ嫌っていた私に頭を下げさせるところまでいくのだから、流石だと驚嘆せずにはいられない。

 明日になれば彼女の弟子たちも出てきてくれるだろうから、それぞれ自己紹介させて、家の中の案内をさせてやるのも良いだろう。

 ……言ってしまえばそれだけ暇であることを認めざるを得ないのだから心苦しい。

 そうだ、今日はこれからお嬢様のご予定を確認しなければ。もうそろそろ自由党の先生との会食が控えていたはず。確かご主人様のご学友だったと思うが、お嬢様はあまり好きではなかったような。

 私は使い慣れた手帳に目を通し始める。あった。一週間ほど先になる。金田という隣県の議員だが、そこそこ力を持っているらしく、新聞でもその名前は時折出てくるほどだ。

 内容は大したことはないだろうが、会食をしたという事実がほしいようで、やはり六宮家はそういった政治の内部事情に深く突き刺さっているように思う。

 ああ、かわいそうなお嬢様。普通の女学生であればやれ都会だ、地方だ、お洒落しゃれだと一喜一憂していたはずなのに、その生まれから独りでいることを好むようになるとは。幼いときの無邪気な笑顔をまた寺尾に見せてください。

 ……話が大きくそれてしまった。私は手帳をポケットにしまうと、彼に明日の起床時間を伝え、ついでに皿を回収せんと階段へ向かう。

 日日誠人、彼がいったい六宮家にどのような影響を及ぼすのかおよそ想像ができないが、なにかお嬢様の心を揺さぶる存在になりうるのかもしれない。

 ――いや、ただの浮浪者ごときになにができる。

 そんなつまらないことに空想する自分を叱咤して、エレベーターに乗り込んで、『3』と書かれた四角のボタンを押した。

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