第一話 僕の好きなメーカーはホンダ、トヨタ、スバルに……あれ?日本ばっかりじゃね
どうしたらいいんだ。もう金は尽きた。スーツも売り払った。残った金は3万あった。だが全て競馬で消えていった。
起死回生すら俺にはできなかった。なぜだろう、どうしてだろう。俺は、俺はやればできる男だったはずなのに……。
「寒い……」
ここは外。かつて子供たちのために作られた公園。健育公園という名がつけられていたらしい。が今では職、家、家族、金を失い、居場所のない人間たちがここに集まって暮らすようになっていた。
そんな公園の隅のベンチで、俺は密かに死のうと考えていた。こうやってなにもしなければいつの間にか死ねるような気がして、そのときが来るのを待っていた。
「おい兄ちゃんいい加減にしろよ、死んじまうぜ」
「……」
「お前三日は食ってねえだろ」
浮浪者独特のにおいもここ一週間で慣れてしまった。目の前に立つ男、名も知らないが俺を気遣ってくれているらしく、ここにきてから毎日話しかけてくれる。
「……」
だが俺はもうだめなんだ、放っておいてほしいんだ。
情けをかけられるのは辛かった。生きていることが許される気がして辛い。そんなものいらない。
「余りモンだけどよ、置いとくぜ」
「いらねえよ! ほっといてくれよ!」
「……そうか」
だからそんな風にかわいそうなものを見る目で、見ないでくれ。どうせ死ぬなら一人で、勝手に野垂れ死にたいんだ。
……木に巻きつけたボロボロのロープが俺の後ろで千切れているのは、自殺も考えたからだ。
怖かった。死ぬことがこんなに怖いなんて思っていなかった。だから物理的に死ぬよりも、自然的に死ねたらどんなに楽か考えて、もうそこからなにも考えていなかった。
いまは何時だろうか。大学にいた頃はそれなりにいい時計をオンナに買ってもらって自慢してたっけな。それすらも結局は競馬の負け戦に消えていったが。灯りが点いて見えやすい、何分かずれてしまった公園の時計台は21時を少し回ったくらいだ。
寒い。俺の身体はまだ生きている。金が底を尽きてから徐々に死んでいく感覚は、逆にいま生きていることを主張してくる。それがたまらなく寒かった。
向こう側には俺と同じようになにもかも失った人間同士が集まって火を囲んでいる。その火が、数十秒単位で人並みにもまれ、見えたり見えなかったりする。あの小さな橙色が、生命線といっても過言ではないのかもしれない。
ひゅう、と冷たい風が吹く。秋はこうやって毎年きては風を起こす。向こうでは、火が大きくなったりちいさくなったりすることに一喜一憂しているらしく、そんな様子が俺とは全く正反対に見えて笑えてくる。
「く、くくっ」
あまりのおかしさに俺は口から笑いが漏れてきてしまうのを抑え切れなかった。もう何日もまともに食事にもありつけていないのだから、おかしくなっても無理もないのかもしれない。しかし、頭は冷静だった。こんな状況になっても俺はまだ笑っている。
「あはは、はは……っ」
笑い声すら力なく、学生の頃にはそれなりに太さのあった腕もか細くなり、誰が見ても終りが見えている状態であることは間違いなかった。
「は、はあ……くそ、くそっ!」
そんな自分が見る見る衰弱していくのが情けない。どうしたらいいんだろう。なぜあの時、あの場所で、あの時から、いやもっと前……。後悔は海の向こうから来る波のように無限に押し寄せてネガティヴな感情に流されていく。
「くそ、ぉ……ちくしょう、ちくしょうっ」
何日も水すら飲んでいない自分の声はがらがらに枯れ果てて、遠くまで響くことはない。叫んでいるつもりであっても誰も聞いていない。
向こう側の彼らよりも幸せだったはずの俺は、もうすでに彼らよりもはるかに不幸だったのだ。
「うぅ……うああ」
だがこんな状況でも涙はまだ枯れない。脳や身体はまだ生きている。そう訴えかけているようだった。
塞ぎこんでなにもかも視界から封じてみても、涙は止まることもないまま、両手にたまっていく。
そうしているうちに、だんだんとけだるくなっていることに気づく。そのまま俺は顔を上げずにこのまま倦怠感に包まれたまま、明日を迎えないことを祈って眠った。
……。
「ほら起きなさい誠人」
朝。朝だ。昨日は何時まで勉強したっけな。
「ご飯ができてるから起きて食べなさい。学校には早く行くように」
うるさいなあ、母さん。わかってるよ、すぐ行く。
「誠人、今回の学年末テストはどうだ」
父さん、おはようございます。上位に食い込めるのは間違いないはずです。
「そうか」
はい。……ところで今度の土曜日、友達に映画に誘われているのですが――。
「駄目だ。お前には受験が控えている。遊んでいる余裕など無い」
しかし、僕も少しくらいは……!?
「お父さんに逆らうのっ!?」
か、かあさんなにもぶたなくてもいいじゃないか!
「あなたはエリートになるのよ! あなたはエリートに! そうやって育ててきたんだから! エリート! エリート!」
やめてよ、僕はエリートなんかどうだっていいんだ!
「誠人、エリート、エリート。そうでなくては日日家にはいらない」
と、父さんまで……。
「俺だってエリートになるために苦労したんだ。エリート、そうだお前はエリートになるんだ」
うるさい、うるさいうるさい! どうしてなんだ! 僕だって遊びたいんだ! こんな家出て行ってやる!
「エリート!」
「エリート!」
うるさい、僕は、俺は、お前たちのブタじゃない!
「だったら死んでしまいなさい」
――あ。
あ……母さん……?
家のドアが開いた先は崖だった。母さんが俺を見下しながら、ゆっくり落ちていく俺を見ているだけで、顔色一つ変えなかった。
死ぬ。死んでしまう。生きたい、死にたくない――!
「うわあああああああああっ」
枯れ果てた声が自分から発せられる。目を開けたまま飛び上がって周りを見る。どうやら夢を見ていたらしい。顔の見えない両親の夢。大学生になってから何度見たか覚えていないが、まさかこんな状況になっても見るとは思わなかった。
「は、は」
数分ずれているらしい時計を見ればすでに朝の5時を回っているらしく、自転車で缶集めをしている人はある程度仕事が終わって一息ついているところだった。
その中の一人が俺に気づいて歩み寄ってくる。それはいつも気遣ってくれる背の低い少し腹の出たおっさんだった。
「お、新入りはええな」
「……」
しかし、俺はやはりその声になにも返すことはなかった。
「まただんまりかい。ま、死ぬなら死ぬでいいけどよ、おめえもったいないぜ」
そう言って俺の隣に四つ入りの菓子パンの袋を置いて手を振る。中身はすでに一つしかない上に消費期限も過ぎていたが、きっとあのおっさんにとっては大事な栄養源なのだろう。
「なんなんだよ。なんなんだよぉ……」
俺はその中の一つしかない菓子パンを掴んで口の中に放り込んだ。
少しぱさついたパンの独特の甘みと、餡が入っていたらしく、痛くなるほど頬と舌にしびれるような感覚がぐるぐると俺の心を満たしていく。
「んくっ……うう」
思わず声が漏れてしまった。
――美味え。こんなもの前だったらいくらでも買えたのに、いまの俺には美味すぎる。
「なん、なんだよぉ……っ」
こんなもんを毎日食えるならどんなに苦しくたって、死ぬかもしれないって状況でも生きたい。それくらいの贅沢。
そう思っているうちに、今度は俺の身体が急激に水を欲し始めた。ぼろぼろの身体で枯れ果てることを待っていた俺は、反対側にある水のみ場に向かって走り始めた。
――のみたい、水がほしい。
さっきまで無かった、人間として最低の欲求が駆り立ててくる。
水で、喉を……潤したい!
だがよろめいては何度も何度もつまづいて、そのたびに支えられるほどの力も無い俺の身体は地面と向き合う。
「ああ、あああっ!」
腹の底から溜まっていたどす黒い感情が、渇きを埋めるためだけに動く。這いずってまで、それがほしい。
周りで俺を見ている連中など気にも留めない。さっきパンをくれたおっさんは俺になにか言っているらしいがそんなものどうでもよかった。
やっとの思いでたどりついた大理石の足元にたどり着く。立ち上がるのも限界なのか
、しびれていて感覚が全くつかめない。
ああ、そうか。俺は死にたくないんだ。
たとえロープで首をくくろうと思っていても、何も飲まず食わずで果てようとしても、本当の俺は死にたくなんて、なかったんだ。
この公園の中でただ一人みじめな俺は、くすんだ銀色の蛇口をひねって、顔中に水を浴びる。口の中にオアシスができるほど、頬いっぱいにその命の源を溜め込む。誰もその姿を止めようなんて思わないんだろう、俺もまた距離をとって囲む彼らを見ることもなく、渇ききって死を待っていた体の中に水を蓄えていく。
満たされて、満たされて、生き返っていく。死んでいたはずの身体が生き返っていく。
「ああ、あああ生きている、生きたい、生きたい!」
声にならない声を誰かに聞かせているわけでもないが、ただ自分自身を確認するためにただ叫ぶ。
しかし俺の意識は薄く消えていく。
――あ、ああ切れる。待ってくれ、まだ。あっ。
……。
……。
暗闇。いまは何時くらいだろう。真っ暗闇でよくわからない。夢を見ていた気がするし、そうではない気もする。だが、いまわかっていることは、俺自身がしっかりと俺を認識できていることだった。
「……きみ、きみ。起きなさい」
だから、誰かの声と体が揺さぶられている感覚で、意識が消えていることを思い出した。
「あ?」
こういうときは本当に目をゆっくり開けるものなんだな、と思う。
視界がゆっくりと開けて、急に光が目に入ってくる眩しさに俺は、誰が目の前にいるか知りえなかった。
その声は野太く、枯れかけた男性の声。
「この男で本当に間違いないのですか?」
「ええ、間違いない」
それと、若い女性の凛とした声。
「しかしこのような……いえ、出すぎた真似を致しました」
男の声はその女の声にトーンを落ち着かせると、一度俺から離れたらしい。
どちらも気品の溢れる言葉遣いは、まるでさっきまでいた世界とは別の世界にいるんじゃないか、とさえ錯覚させる。
――段々と光に目が慣れてくると、俺の目に映るのはタキシード姿で白髪の男と、制服を着た女の子だった。
「あら、目を覚ましたわ」
「こ、こは」
「公園よ……あなた、もしかして先ほどの記憶がないの?」
女の子は汚いものを見る目つきで見下してくる。
見上げてわかることは、確かにここは俺が住み着いていた公園であり、見回せばいつも通りうろうろとしている彼らはそこにいた。しかし目の前にいる女の子は端整な顔立ちに丸い目をして、白い素肌と高校生らしい女子制服が女の子らしさを強調していて、この場には全く見合わない。
「お嬢様、お車の準備は出来ておりますゆえ、あとは私にお任せください」
「わかったわ、あとはお願い」
「あ、ああ?」
俺だけが状況を把握できていないらしいが、この女の子の言うようになにかあったことは間違いないらしい。
「きみ、お嬢様のご好意に感謝しなさい」
「……なんのはなしだ」
男は俺の答えになにも言わずに顔をしかめてみせると、なんの苦もなさそうに、軽々と俺を担ぐ。
「おい、おい! どこ行くんだよ!」
俺は精一杯しわがれた声で叫んでみせても、この男は全く聞き入れなかった。
「……少し黙っていなさい」
なんなんだ、俺はどこに連れて行かれるんだ。さっきまで水を飲んでいただけなのに、なにが起きたんだ。
公園にいた俺と同じような人間たちは、無機物のようにじっと見ているだけで、誰も手を出そうともしないし見ようともしない。
抵抗もむなしいまま、公園の外に出た俺たちの前には、当たり前のようにセダンタイプのBMWが一台、ハザードを点滅させたまま左の路肩に駐車されていた。
後ろ姿にはきっちりと750iと書かれた銀色の文字。
男は俺を担いだまま鍵を取り出し操作をすると、そのしっかりとした白色のトランクがゆっくりと開かれた。
「お前のような輩はここで十分」
「おい、まさか」
俺はそのトランクの中に無造作に放り出される。
「うわ、ちょっ……!」
いきなりのことに頭をぶつけたり、普段当たることの無い部位に痛みが走る。いくら高級車とはいえ、大の男一人を乗せるのは……。
「閉めるので脚を挟まないように」
男は俺に目もくれずに言って、すぐにけたたましい音とともに暗闇に閉ざされる。
「おい、おおい! 待ってくれ……げほ、げほっ」
喋る過ぎたのか、体勢が悪いのか、それとも体が不調なのか、咳き込んでみてもそのトランクが開くことはない。
いまだ状況が把握できていない俺は、混乱したままエンジンの始動音に包まれた。