イントロダクション
私はいつでも優秀だった。
小学生のころから感じていた違和感の正体は、住む世界の違いであることもすぐに理解できた。だから他の子供とは違って大人になっていた私にとって、この世界は窮屈極まりないものだと感じていたし、これからもそのズレと生きていかなくちゃいけないんだと考えていた。
「続きまして、えー新生徒会長によるご挨拶……」
私は閉じていた目を開ける。
――私立大成学園、その体育館にて今日は第26期生徒会長就任式典が執り行われていた秋の始め頃。
間延びした女生徒の声が司会を務める中、多くの生徒は黙ってただ壇上に書いてある文字を読んでいるだけで、時間が過ぎるのを待っているに違いない。
「それでは六宮舞さん、よろしくお願いします」
「……はい」
私は一つ声を上げて立ち上がる。いま彼女が読み上げた名は私のものだ。木で作られた階段を登るたびに軋む音が体育館に響く、私は中身の薄い原稿を握り締める。
壇上の中央に置かれ、全員の注目を浴びる机と私。一礼し、全校生徒を見渡すと、なんとも生気の抜けた顔が多いことだろうか。
「六宮舞です。このたびは第26期生徒会長のを就任いたしました。皆様の公平で清廉な選挙によって選ばれたことを心より感謝いたします」
一礼。会場には拍手が沸いて、私はまた顔を全校生徒に向ける。そしてその顔は、まるでおもちゃのように変わらず無表情のまま、ただ手を叩き続ける。
くだらないな、と思う。
この学校に入学するには手間も掛からなかった。世間から見れば難関校と呼ばれるものらしいが私にとっては知ったことではない。それにどの学生も両極端で、勉強はできても思考はできない人間、勉強ができずに落ちぶれても思考はできる人間。しかしどの学生にも「難関大学」とか「就職」とかそういったものに捉われすぎていて、誰しも人間性など考えもしない。口を開けばやれ東大、やれ京大、マーチだの公務員だの、エリートぶりたい人間の多いこと。
ヒトは誰しも生まれながらにして、その人生という運命は決まっている、と私は考えている。
「私はこの学校に新しい改革の風を運び、人であることを望み、生きることの価値を見出したいと考えています――」
だからこんな人間味のある、私としては最も遠い場所にある心を訴えるというのはいささか苦しい言い訳のように見えるのかもしれない。
「これからの一年、皆様のために尽くしたいと考えておりますので、どうかよろしくお願いいたします」
そう言って、原稿用紙を私は丸めて捨てたくなるような衝動を抑えて頭を下げる。また壊れた玩具のように乾いた拍手が会場全体に響き渡る。こんな心のない拍手に誰が喜ぶというのだろうか。
その後の学園長の話も、旧生徒会長の話も、誰かのささやきも耳に入ってこないまま、式典が終わるまで私は空っぽになった心を思考することによって埋めていた。
――なにかが足りない。私にはなにかが足りない。心が埋まらない、なにか私の奥底でなにかがうごめいているし、叫んでいる。この真っ暗闇の中をもがいても、なにも掴めない。
ずっと考えていても、私の心に開いた穴は、あの時から埋まらない。
「……くのみや、六宮さんっ」
だからいつの間にか終わっていたことにすら気づかずに、今更誰かの呼び声でわたしは目を覚ます。
「もう、六宮さんったら寝てたのぉ?」
「……いえ、そんなつもりでは」
「ぼおっとしているからどうしたのかと思っちゃった」
このとぼけた声の主は、私の担任の先生である。名は清和真紀という。全体的に大人びた雰囲気を持つがとにかく流されやすい、私のことを気遣ってくれる甘い人。
「もう他の生徒さんは帰っちゃいましたよ」
「そのようですね、では私も」
「あ、六宮さんちょっと待って、職員室に寄っていってくれないかなあ、私忙しくて……配らないといけないプリントがあるの」
「わかりました、行きましょう」
「ありがとぉっ」
ほとんど誰もいなくなったこの体育館で、清和先生の声がぱっと花開く。他の先生や片付けている生徒が振り向いて苦笑いしているのを見て私は少し恥ずかしく思い、この間抜けな担任から離れる。この学園で私と対等に喋ることができるのはこの人くらいじゃないだろうか。
「それじゃあ、よろしくねえ」
……結局私はあの担任から薄っぺらいプリントを、クラスメイトの分だけもらい教室までの道を歩く。その道中何人かの生徒とすれ違うが、彼らは私のことなど気にも留めない。先ほどの演説など誰も覚えていないかのごとく、私は数人の生徒たちと、ただすれ違うばかりだった。
がらがらという、木の扉独特の引く音が向こう側の教室へ響く。一瞬その中にいる生徒たちの瞳を私に集中させると、すぐに自分たちの興味にまた散っていく。参考書を開くもの、大学のパンフレットを開くもの、友達と中身のない会話を繰り返すもの、寝ているもの、スマートフォンを覗くもの。そして先ほどすれ違ったもの。それぞれが好きなように過ごしている教室を私は無視して、前列の机にプリントを置いていく。
「清和先生より預かってきましたので、皆さん見て置くように」
私が一言通る声で、先ほどの木の扉のように教室中に響かせると、今度は誰も振り向きさえしなかった。
わかっていたことだ、こんな風になるのは。
私は自分の席に着くまでに、教室の空気になにか冷たいものを感じて、その正体を私以外の全員になすりつける。結局そのプリントが自分の席に回ってきたのは、先生が教室に入ってきてからであった。
放課後、教室中の空気が緩んでいくのを感じてまた私も少し緊張から解放される。しかし今日は、旧生徒会長との引渡しなどの説明で生徒会室に寄らなければならない。できれば早めに終わらせて家に帰って眠りたい。少し疲れているように思う。
生徒会室は四階建てのこの第一校舎から離れて、もう一つ同じような形の校舎にある。普段から生徒たちの目に入らないような場所にあるからか、この周辺に立ち入る生徒はほぼ限られている。
私はその生徒の少ない校舎の階段を昇っていると、もうすでに誰かが先に昇っていることに気づく。その人物は同様に私に気づくと人懐っこい笑顔でそのまま話しかけてくる。
「あら、これはこれは六宮さん……いえ新生徒会長さん、ご機嫌うるわしゅう」
「我賀さんですか、そういえばあなたも生徒会のメンバーでしたか」
見上げればわかりづらいが、その身長の低い女子生徒は私に嫌味を含めた声で見下ろすと、私もそれに対抗するように見下した声で応じる。
「先ほどの演説は大変見事なものでしたねえ……まるで政治家みたいでしたわ」
「それは、どうもありがとうございます」
わざとらしいお嬢様ことばに皮肉を込める彼女の言葉に、私は至って冷静に言葉を返す。
「……なによその態度? 相変わらずね」
すると機嫌を損ねたのか彼女はわたしに見下したような視線を向けて、さっさと階段を昇っていってしまった。
――いまの生徒は我賀強依という。その名のとおり我が強く、クラスにいれば必ず側近を置いているような君主らしい振る舞いをしているが、器用であり多くの顔や取り巻きを使って、特に私たちの学年では人気を集めている。彼女はつい先日まで生徒会長候補として人気を持っていたものの、僅差で私に敗戦した、新生徒会副会長の一人だ。
そんな彼女が負けた理由を挙げるとするならば、単純に彼女周辺に黒い影がちらついているからだろう。陰湿なイジメや嫌がらせが尽きないという噂もある。取り巻きですら使い捨てで、告発することすらある。そんなことまでして自分の体裁を守りたいのだから、知っている人間からすれば、自ずと私や誰もいない空白に票が入っていくのも納得すると言うものだ。
これからしばらくあんな女生徒と顔を合わせる機会が増えるというのだから、下らない疲労が積み重なっていくのだろう。私はそんな未来に向けてため息をつく。
生徒会室があるのは三階だ。隣にはかつてなにかしらの同好会があったのだろうか、セロハンテープがはがされた跡が黄ばんでいて、長年放置されていたことがよくわかった。
「――ここはかつてゲーム・アニメ同好会だったそうですよ」
私は先ほど昇ってきた階段を驚いて振り返る。声がするまで全くの無音で気づかなかったのだ。
「六宮生徒会長、今日の演説は見事なものでした」
黒い前髪で隠れた細身の男子生徒が口の端を吊り上げて笑う。先ほどの我賀さんのような皮肉めいた言い方ではないが、どこか引っかかる物言いに一歩引いてしまう。
「これは、どうもありがとう……、郡似さん」
彼の名前は郡似日入……。もう一人の生徒会副会長である。先日初めて顔を合わせたがなにを考えているのか読みづらく、隙の無い男だ。
「っとまさか生徒会長たる人間が、この元同好会室を知らないわけはありませんよね?」
「いえ……存じませんでしたわ」
「そうですかそうですか。ふふ、六宮さんであれ知らないことはあるものですね?」
「ええ、興味がありませんので」
なぜこんな妙な出で立ちの男が生徒会副会長に選ばれたのかいまいち理解に及ばないが、時折前髪が揺れて素顔がうつし出されると、その目つきの鋭さと整った顔立ちからなんとなくわからないでもない。
「そうですか……それは残念。さて会長、ここで立ち話もなんですから生徒会室へ参りましょう」
吊り上げた口の端を保ち続けたまま、郡似さんは私の横を通り過ぎてさっさと木製のドアに吸い込まれていく。あっけに取られた私も彼に続いて生徒会室のドアを開ける。
ドアの向こうにはすでに前生徒会長をはじめとする役員が揃っており、どうやら私のことを待っていたようだ。時間には間に合っていたようだから、一礼をして生徒会の引渡しをはじめる。
……結局ものの数分で引渡しは終わった。私は誰とも会話をすることもなく、そのまま学校から逃げるようにして早足で校舎から出て行く。
ここからの帰り道、十数分歩いたところに私の住む家がある。その時間こそが一人になるには最もよく、また考えるために必要なものだった。
――思っているような生徒会にはならなかった。このメンバーで一年間を無事に終えられるのか若干不安に思う。しかし、すでに決まってしまったものに変更の余地はないし、私のわがままでもう一度選挙を行うというのも……まあ無理ではないかもしれないが反人道的とも言える。
いまの思考の色は秋の風よりも冷たく、空の色よりも深いブルーになっていた。解決策の無い問題に頭を悩ませることも私にとっては無駄なことであるけれど、やると決めてしまえば後戻りすることもできない。責任と言うものはそういう状況から生まれるのだと私は知っている。
あれやこれやと考えているうちに私はあまり立ち寄ることの無い大きな公園の脇を歩いていることに気づいた。
「あ……そういえばここは」
町内にある自然を人工的に作った公園。敷地の広さから子供たちが自然に触れ合えるように色々な工夫を凝らしているが、数年前にその運営が破綻し、いまではその広い敷地を持て余しているだけの場所になってしまった。
町内の一般人はここを利用することはないらしい。というのもちらほら公園には服ともいえるかどうかギリギリのラインの布を巻いている者、髪や髭がぼさぼさに伸びきった者、うわごとを言い続ける狂った者、なにか固まって話をしている者、動かずに生きているのか死んでいるのかわからない者。いわば浮浪者とかホームレスとか言われる人々がここには住み着いているからだ。
「面倒ね」
私は一言誰に言うまでも無く呟くと、スマートフォンを取り出して電話をかける。万が一ここの何者かわからない連中に襲われた場合の保険は掛けておくべきと判断したからだ。
画面に映し出された番号は家の電話であったが、コールが三つも鳴らないうちにその音は途切れる。
『もしもし、お嬢様いかがなされました?』
スマートフォン越しの声はいつもよく聞く初老の男の声。彼は私の執事で寺尾と言う。
「寺尾、いますぐ健育公園の東側まで来て頂戴、間違えてここを通ることになってしまったわ」
私は用件だけを淡々と述べると、向こう側では一度おじぎをしたらしい沈黙があり、すぐに寺尾は返事をする。
『はい、早急にお迎えにあがります』
彼の声に返事を一言述べてから、通話終了のボタンを耳から離さずに押して、周囲を見渡してみる。公園に住み着く彼らはいったいなぜこんなところにいるんだろう。不幸だとは思わないのだろうか。
やろうと思えば職に就くことも、家に住むこともできたはずなのに、こんな風の当たる場所で生きている。なぜだかこの世界で私だけが隔絶されているような、そんな感覚に襲われた。
「あ、ああ……っ」
だから、そんな思考にかまけている間に。
「たす、たす助けてくれ、ぇ」
虫けらのように足元に縋りつく男に気がつかなかった。
…………。