わたしの雪うさぎが見えますか
町を出る頃に降り始めた雪は、あっという間に積り始めた。峠で雪に降り込められれば、大変なことになる。加代は足を速めて峠を越え、なんとか家の近くにある茅の野原までたどり着いた。
―よかった。雪が深くなる前に帰れそう。
家と言っても、そこに加代の両親がいるわけではない。はやり病で両親をなくした加代は、叔母夫婦の家に住まわせてもらっている。肩身は狭いが、雨風をしのげるだけでもありがたかった。
―そうだ……ちょっとだけ……。
朝早くに家を出て、町で反物を売ってきた。家に帰れば、夕餉の支度を手伝うことになる。でもその前に、少しだけ楽しいことをしたかった。
加代はそっとしゃがみこむと、雪を両手ですくった。じんじんするほど冷たくて、なのに心地よい手触りだ。それをぎゅっ、ぎゅっと固め、昼間山でみつけた南天の葉を耳に見立てて二枚刺した。赤い目は、南天の実を使う。これで雪うさぎの出来上がりだ。我ながらよくできたと思う。
子どもの頃は、母や祖母が雪うさぎを作ってくれた。それはとても見事なもので、加代も真似したがすぐ崩れてしまった。でも、今はこうやってちゃんとうさぎを作ることができる。見せる人は誰もいないけれど。
加代は出来上がったうさぎを、そっと雪の上に置いた。
「じゃあね、うさぎさん。可愛い顔を見せてくれてありがとう」
その時、頭上から妙な音が聞こえてきた。それは小さな雷に似ていたが、一度も鳴りやまず少しずつ大きくなってくる。加代は身をすくめ、おそるおそる顔を上げた。
―あれは……なに……?
空に何かが浮かんでいる。鳥とは違う何かだ。よく見ると、それは小さな船の形をしていた。加代は魅入られたようにその船を見つめた。
やがて船は、加代の前にすとんと落ちてきた。本当に小さな船だ。この先の浜で漁師たちが乗っている船よりもさらに小さい。人が一人乗れば、それでいっぱいになるだろう。
でも、小さいとはいえ、こんな船がたった今まで空を飛んでいたのだ。加代は自分の目が信じられなかった。
「あれ……ここはどこ……」
突然船の中から声が聞こえた。それはまだ若い、少年のような声だった。
怖さより、空飛ぶ船に乗っていた少年を見たい、という気持ちの方が強かった。加代はそっと船の方へ近づいて行った。
船の舳先には明かりが灯っていて、辺りに光の輪を投げかけている。その光が、中から顔を出した少年をくっきりとうかびあがらせていた。少年は、加代とあまり変わらない、十五、六に見えた。少年が着ている青い色の着物は見たこともない形をしていたが、少年によく似合っていた。
「あの……」
ためらいがちに声を掛けると、少年と目が合った。大きくてきれいな目だ。加代は見惚れ、言葉をなくした。
「ここ、月……じゃないみたいだね」
少年は辺りを見回して首を傾げた。
「……月?」
「そう。俺は月に帰るところだったんだ。でも、途中で居眠りしちゃって……。うさぎが見えたから、月に着いたと思ったんだよ」
月から来た『かぐや』という名のお姫様のことは知っている。こんな田舎にも噂が届くくらい有名な話だ。月にも人が住んでいて、この日の本にやってくることもあるらしい。でも加代は、まさか自分が月の人に会うなどとは思っていなかった。
「……ごめんなさい。あのうさぎ、わたしが雪で作ったの」
加代は少年に謝った。加代のせいで降りる場所を間違えたのなら、申し訳ないことをした。
しかし少年は、驚いたように目を丸くした。
「君が作ったの?すごいね、月のうさぎにそっくりだ。……ゆき……って、ああ、ここに積ってる白い粉だね」
少年は、積もった雪にいきなり手を突っ込んだ。
「わっ、冷たっ」
驚いた顔はなんだか可愛くて、加代の中にあった緊張が溶けていくようだった。
「雪をつかむと冷たいけど、撫でると気持ちいいよ。ここは年中雪が降ってるような寒いところだから、雪がさらさらしてるの」
「ほんとに?」
少年は手を伸ばして、加代の雪うさぎの背を撫でた。加代は、自分の背中がぴくりと震えたような気がした。
「ほんとだ。気持ちいい」
少年はうれしそうに笑った。花のような笑顔だった。
少年は、自分の名を『咲哉』と名乗った。咲哉は、加代の知らない月の話をいろいろ聞かせてくれた。
「月の表面は乾燥してるから、うさぎしか住めないんだ。月の人たちは、みんな地下で暮らしてる」
「地下って、地面の下?」
「そうだよ。大きな穴を掘って、そこに町を作ってるんだ」
「地面の下に町?すごい」
「そうだね。月も昔はずいぶんと発達していて、町もその頃作られたものだからね。でも今は、……月もずいぶんと変わってしまった。月にあったいろいろな資源がなくなってね。星と星を回る船だって、昔はもっと大きくて、何台もあったんだって。かぐや姫を月に連れて帰った船もそれだと思う。でも、船はもうこれ一台しか残ってないんだ。こんなに小さな船、一台だけ」
「だったら、大事にしないといけないね」
加代の言葉に、咲哉は大きくうなずいた。
「そうだね」
その時、突然強い風が吹いてきて加代は思わず身を縮めた。
「ああ、寒いよね。ごめんね、気がつかなくて」
加代の背中に、ふわりと暖かい物が被さる。顔を上げると、さっきまで咲哉が首元に巻いていた白くて柔らかい布が、加代をしっかりと包んでいた。
「でもこれ、咲哉の……」
「平気だよ。月の子は寒さに強いから。……それより……。ねえ、加代。星を見回る途中で、またここに寄ってもいい?」
加代の胸は、急にどきどきし始めた。加代はかろうじて、こっくりとうなずいてみせた。
「よかった。今度は雪うさぎの作り方を教えてよ」
「……いいよ」
「じゃあ、また。次は満月の夜に来るよ」
咲哉は船に乗り込むと、ずっと手を振っていた。加代もその船が見えなくなるまで、手を振り返していた。
咲哉の船が視界から消え、加代は急ぎ足で茅野を横切った。小さな子どもの世話に忙しい叔母夫婦も、そろそろ加代の帰りが遅いことを気遣ってくれているかもしれない。
しかし、茅野の外れまできて加代はふいに足を止めた。そこに建つ小さな小屋のそばに、綾婆さんが立っていたからだ。
綾は、この辺鄙な場所にたった一人で暮らしていた。噂では、その昔婚礼の日に嫁ぎ先から逃げ出して、実の親からも縁を切られたのだと言う。周りの人は綾と関わりを持ちたがらなかったが、加代は気にしなかった。叔母夫婦に預けられた加代も、綾と同じ一人ぼっちだったからかもしれない。
「こんばんは」
加代は頭を下げ、それから綾の顔を見た。
「もしかして、わたしのことずっと見てた?その……誰かと会ってたことも……」
「ああ……見ていたよ。あれは月の男だろ?小さな月の船から降りてきていたからね」
「綾さん、月の人のこと知ってるんだ」
「そりゃ知ってるさ。わたしが何年生きてきたと思ってるんだい」
綾はそう言って肩をすくめた。
「あの子、咲哉っていうの。あの船で空を飛んで、月に攻めてくる星がないか見ているんだって。わたし、あんなにきれいな人、初めて見た。月の話も面白かったし、それに……」
「やめておきな」
加代は一瞬、綾の言っていることが分からなかった。加代はきょとんとして、ただ綾の目を見返した。
「月は遠い。相手がどんなに優しい男でも、その距離が邪魔をするんだよ。いくら思っても、あんたが傷つくだけだ」
「なに言ってるのかわからないよ。わたしはただ、咲哉にまた会いたいなと思ってるだけで……」
「それは好きになったってことだよ」
自分の頬が急に赤らむのを感じて、加代は慌てた。
「なによ、それ。妙なこと言わないで」
加代は思わず大きな声を出した。声は、無音に近い雪の茅野に響き渡った。
「綾さんがなんて言ったって、わたしはもう一度咲哉に会うから」
加代はそのまま駆けだした。後ろは一度も振り向かなかった。
◇◇
「時蔵爺さん、いる?」
月に帰りついて、咲哉はそのまままっすぐ時蔵の所に行った。窓から覗くと、時蔵は相変わらず機械を直していた。原動機の鳴るすさまじい音が、家全体を揺らしているようだった。
「おう、咲哉か」
家の中に入り込んだ咲哉に気づいて、時蔵はその手を止めた。
「遅かったじゃないか。心配していたんだぞ」
「うん。ちょっと星を間違えちゃって……。途中にある青い星に寄って来た」
「青い星……?」
時蔵は少し眉をひそめた。いつも穏やかな時蔵がそんな顔をするのは珍しかった。
「その青い星で、誰かに会ったのか?」
「会ったよ。可愛い女の子。雪でうさぎを作るのがすごくうまいんだ。まるで生きてるうさぎみたいだったよ。今度俺に、雪うさぎの作り方を教えてくれるって……」
「やめておけ」
時蔵は、突然咲哉の言葉をさえぎった。
「……やめるって、何を……?」
「青い星はここから遠い。そんな所の子を好きになっても、お互いつらいだけだ」
「なんだよ、それ……勝手に決めつけないでよ」
時蔵はこの町でただ一人、まともに話ができる大人だと思っていた。星を巡る仕事を始めた時も、時蔵だけは喜んでくれた。なのに……。
「もう、いいよ」
咲哉はそれだけ言うと、時蔵の家を飛び出した。今まで膨らんでいた気持ちの紙風船が、しゅんとしぼんでしまったような気がしていた。
◇◇
それからいつも、満月の夜になると咲哉の船がやってくるようになった。加代が茅野に来るのが遅くなった時でも、咲哉はちゃんと船の中で待っていた。
「雪うさぎはこうやって作るんだよ」
加代は咲哉に作り方を教えたが、咲哉は中々うまくできなかった。握る力が弱過ぎたり、強過ぎて壊してしまったりする。まるで、加代の子どもの頃のようだった。
「だめだよ、やっぱり加代みたいにできない」
咲哉は雪を投げ出して、そのまま地面に寝転ぶ。雪の冷たさにも、咲哉はもうすっかり慣れていた。
「できるよ。練習すればきっと」
「やだ」
咲哉はそう言って、子どものようにすねてみせた。
「俺は、加代の作る雪うさぎを見るのが好きなんだ。だからずっと見てることにする」
「なによ、それ」
加代は笑いながら、また一つ雪うさぎを作る。ふと気がつくと、咲哉が優しい目でそれを見つめていた。加代は胸の奥が甘苦しくなった。
それは、ある満月の夜だった。
船から降りた咲哉の表情が、いつもより暗く見えた。
「咲哉、どうしたの」
加代は咲哉の顔を覗き込んだ。
「船の具合がよくないんだ」
咲哉はそう言って、船の舳先を撫でた。
「船を動かす動力が弱ってる。これから帰って、昔船を作ってた時蔵爺さんの所に預けてくるよ」
「……直るの?」
「多分……時蔵爺さんは腕がいいから、きっと直してくれる」
もしも船が直らなかったら……。加代は目の前が暗くなる思いがした。咲哉はもう、月から出ることができない。加代のところへも、二度と来てくれない。
「加代……」
咲哉は加代の肩にそっと手を置いた。とても温かい手だった。
「船は絶対に直してもらう。そしたらまた、加代の所に行くよ。だから、待ってて」
加代はうなずいた。あふれだしそうな涙を、加代は必死でこらえていた。
それから加代は、満月の度に茅野へ向かった。今日こそは、月の船が降りているかもしれない。しかしそんな淡い期待は、いつも打ち砕かれた。
空を見上げると、丸い月が煌々と光っていた。
船は直らなかったのかもしれない。それとも、咲哉は加代のところに来ることに飽きてしまったのだろうか。
「加代」
背中から声が聞こえた。振り向くと、そこに綾が立っていた。
「……綾さん……」
「こんなところに長くいると風邪を引くよ」
「わたしのこと、馬鹿な子だって思ってるんでしょ?綾さんの言うことを聞かないから、こんなことになるんだって……」
自分の口調は尖っている。八つ当たりだとわかっているのに、自分の言葉が止められなかった。
「そんなこと、思うものかね」
綾は怒りもせず月を仰いだ。
「わたしの思い人も、あそこにいるんだから」
「えっ……」
加代は驚いて綾を見た。綾の横顔は、月の光を浴びて白く光っていた。
「親が決めた婚礼の日は、ちょうど満月だった。わたしは、あの人が婚礼をぶち壊して、わたしを連れ出してくれると思っていたよ。でも、あの人はそうしなかった。わたしをさらって、遠い星に連れて行く勇気がなかったのさ。だからわたしは、自分の婚礼をなかったことにした。挙句の果てがこのざまだがね」
「……ごめんなさい。わたし、何も知らなくて……」
綾の言葉を、大人のおせっかいだと決め付けた。けれど綾は、自分と同じ傷を加代に負わせたくなかっただけなのだ。
「いいんだよ。わたしも加代に余計なことを言ったね。恋する気持ちは、誰が何を言おうと止められるもんじゃない。湧き出る泉みたいに、どんどんあふれていく。若い頃のわたしなら、そんなことよくわかっていたはずなのにさ」
「綾さん……」
加代は、綾の胸に顔をうずめた。
「わたし、もうすぐ婚礼が決まりそうなの。隣村の人で、見たこともない人。そんな人のところになんか、行きたくない」
綾は、震える加代の肩をぎゅっと抱きしめてくれた。
「わたしは自分の婚礼をなしにしてしまってけどね、あんたにもそれを勧めるわけじゃない。知らない男と結婚したって、幸せになる娘はいくらでもいるもんさ」
「でもわたし……」
「そうだね。ぎりぎりまでその子を待とうじゃないか。あんたの咲哉は、あいつと違って男気がありそうだからね」
「……うん……」
加代は顔を上げて、綾と一緒にもう一度月を仰いだ。あの光の中に咲哉がいる。そう思うと、胸が痛くてたまらなかった。
◇◇
久しぶりにやってきた咲哉は、青い顔をして壊れた月の船を持ってきた。
「お願いだよ、時蔵爺さん。これ、なんとかして動かして」
「そう言われてもな……こりゃ、動力の部分が完全にいかれとる。直しようがない」
「そんな……。俺、なんでもするよ。どんな材料でも取りに行く。だから……」
時蔵は咲哉を見た。その目に宿った光は強くて、焼けつくようだった。
―こいつが抱えてる想いを、俺も持っていた頃があった……いや、まだこの胸のどこかにあるのかもしれん。捨てられるはずもないからな……。
時蔵は、動力の部分を船から外した。船は少しだけ広く、そして軽くなった。
「ずっと昔、月の船を動かすのに動力などなかった。船は、月うさぎが引いて行ったんだ」
「月うさぎ……そうか、わかった」
いきなり飛び出そうとする咲哉を、時蔵は慌てて止めた。
「人を乗せた船を引くには、うさぎが何匹いるかわかるか?最低でも百は必要だ」
「じゃあ、俺は二百集める」
「なんだと?」
「帰りは二人になるから」
「その子を月に連れ帰るつもりか」
「そうだよ」
「お前……違う星の娘だぞ」
「それがなに?」
咲哉はまっすぐ時蔵を見た。
「月の船は壊れてしまったんだ。うさぎを集めて船を動かすのだって、何回できるかわからない。加代と一緒にいるためには、連れて来るしかないだろ?不自由がないように、俺が加代を守るよ。つらい思いなんてさせない」
咲哉の言葉は、時蔵の記憶を掘り起こした。
『一緒に連れて行って』
綾は時蔵にそう言ったのに……。
―……あの時俺に、咲哉ほどの覚悟があれば……。
あれからずっと、時蔵は心に闇を抱えているような気がしていた。例えどんなに明るくても、心には光が届かなかった……。
「わかった。俺もうさぎ探しを手伝おう」
「いいのか!?」
咲哉が途端に目を輝かせて、時蔵の腕を取った。時蔵は、笑いながらうなずいてみせた。
「その代わり、条件がある」
「なに?」
「その船に、俺も乗せて行け」
「え……」
「あの星に、謝らなきゃらならない相手がいるのさ。もう俺を待ってはいないだろうが……でも、俺は残りの人生をあの星で暮らす。そこであいつに尽くそうと思ってる」
「月には帰ってこないってこと……?」
「ああ。お前のおかげで、その覚悟ができたよ」
咲哉は時蔵をじっと見つめた。この若者に、長い後悔の年を積み重ねてきた老人の気持ちなど理解できないかもしれない。ただ、誰かを思う気持ちだけは、きっと同じはずだった。
「わかった」
やがて咲哉は、しっかりとうなずいてみせた。
「そうか……。さあ、行くぞ。早い方がいい」
「ああ」
咲哉は飛び跳ねるようにして走り出した。自分はあんなに早く走ることはできない。それでも、まだ動くことはできるのだ。時蔵は老いた体をふるい立たせ、ゆっくりと歩き出した。
◇◇
あれから三カ月たって、加代は隣村の男のところへ嫁ぐことになった。叔母夫婦には新しい子どもが生まれ、加代を養う余裕などない。この縁談を断ることなどできるはずもなかった。
その日は満月だった。加代はまた茅野にやってきた。あと三日したら加代は嫁ぐ。ここにくるのも、きっとこれが最後だろう。
茅野にはたくさんの雪が降り積もっていた。加代は雪を固め、それに南天の葉と実をつけた。そしてもう一匹、また一匹……。加代は次から次に、たくさんの雪うさぎを作っていった。
やがて加代の手はかじかんで、ちゃんと雪を握れなくなった。加代は雪の上に座り込むと、空に光る月を仰ぎ見た。
「ねえ、咲哉。雪うさぎが見える?咲哉が好きだったわたしの雪うさぎ。たくさん作ったんだ。こんなに作ったから、きっと見えるよね……」
―そうだ……。
加代は懐から、咲哉に貰った白い布を取り出した。雪が握れなくても、これでもう一匹うさぎが作れる。
しかし、吹いてきた風がその布をさらった。布は、手を伸ばした加代の指先をすり抜けて行く。加代はそのまま仰向けに倒れ込んだ。
「……あっ……」
布の消えて行った先に、たくさんの雪うさぎがいた。緑の耳と赤い目をしたうさぎたちが、空を駆けている。
―……ああ……きれい……。
加代は、夢を見ているのだと思った。加代の作ったうさぎたちが、元気に飛び回る夢……。とてもきれいな夢だ……。
加代はうさぎを見つめながら、ゆっくりと目を閉じていった。
◇◇
扉を開けた時、目の前の相手はただ黙って綾を見つめていた。綾は震えだしそうな両手をぎゅっと握りしめた。
「ずいぶん遅かったじゃないか。どこで道草を食ってたんだい?」
綾はあの頃のように、精一杯明るく言ってみる。時蔵は困ったように、目を左右に泳がせた。
「いや……その……途中で熊が出てな……蛇も、猪も……」
「そりゃまた賑やかな道だねえ。……月にはうさぎしかいないんだろ?」
「……ああ……そうだな……」
時蔵は、観念したように頭を垂れた。
「……すまない。俺はあの時……お前をさらっていくことができなかった……婚礼の衣装を着たお前はとてもきれいで、ほかの奴に取られたくないと思ったよ。でも……この星で生まれたお前は、この星の男と連れ添った方が幸せかもしれん。お前を月に連れて帰っても、幸せにできないんじゃないか……そう思っちまったんだ……」
うつむく時蔵の姿はとても小さく見えた。
今更、時蔵の謝る姿を見たいわけではなかった。もう、すべて許している。ただ、心の奥で眠っていたあの頃の恋しい感情が、もうすぐ目を覚まそうとしいるのが怖かった。あんなに苦しい思いをするのは、もう嫌だ。
「あんた、すぐ月に帰るんだろう。だったらもう……」
「今夜泊る所がないんだ」
『二度とわたしの前に姿を現さないで』
綾が言うはずだった言葉は、時蔵の声でかき消された。
「……なに……言ってるの?」
「明日も明後日もしあさっても……ずっと俺は、泊まるところがない。俺はもう、月には帰らないから……」
「ずっとあたしの所にいるつもりかい?」
「……だめか……?」
……ああ。
綾の心は、いつの間にか温かさで満たされていた。綾の『恋しさ』は、とっくに目を覚ましていたらしい。でも、それは眠っているうちに少し姿を変えたようだ。胸を焼くような激しさの代わりに、優しさがあふれている。
「じゃあ、あんたにこれをやるよ」
綾は、部屋の隅にあった手桶を拾い上げて時蔵に渡した。
「……これは?」
「水汲みに使うんだよ。決まってるだろ。今日からそれはあんたの仕事だよ。もちろん薪割りもね。でも、仕事が終わったらあたしがうまい飯を作る。それを二人で食べるんだ……それで、いいだろ?」
「ああ、もちろんだよ……」
時蔵の目が潤んでいる。昔から泣き虫で意気地なしで……。
―でも優しい人だった。わたしがこの世でたった一人好きになった人だ。
綾は手ぬぐいを出して時蔵の涙をぬぐってやった。そして、照れたように笑う時蔵に、もう一度ほれ直した。
◇◇
「……加代!加代!」
遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。
愛しい声だ。ずっとずっと聞きたかった声……。でも、それが本当に聞こえるはずがない。きっとこれは、夢の続きだ……。
「目を開けて。加代が目を覚まさなかったら、俺は……」
ふいに温かいものが、加代の頬に触れた。ざらりとして温かいなにかだ。驚いて思わず目を開く。そこにいたのは雪うさぎで、加代の顔をぺろぺろ舐めていた。
「きゃっ」
加代は思わず身を縮める。その体を、誰かがぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫だよ。これは月のうさぎだから。ね、加代の雪うさぎにそっくりだろ」
「……咲哉……?」
「遅くなってごめん。やっと迎えに来れた。月の船が動かなくなったから、船を引っ張っていってくれるうさぎを集めてたんだ」
そろそろと周囲に目をやると、自分と咲哉はたくさんのうさぎに囲まれていた。本当に緑色の耳と赤い目を持っている。小さいのに力強く跳ねるうさぎたちは、びっくりするほど美しかった。
「ねえ、加代。俺と一緒に月に行こう。それから……俺のお嫁さんになって」
「……はい」
加代には、その答えしかなかった。
加代は、咲哉に抱えられたまま船に乗った。咲哉が合図すると、月のうさぎたちは空中を滑るように駆け出していく。
「加代、あれを見て」
咲哉に言われて、加代はそっと下を見下ろした。眼下の茅野には、小さな雪うさぎがたくさん並んでいた。
「ずっと上の方から、あれが見えてた。加代のうさぎ……まだ待っててくれてたと思ったら、うれしくて泣きそうだった……そうだ、これ。さっき俺が受け取ったんだ」
咲哉はそう言って、白い布を加代の首に巻いてくれた。
空は冷たい風が強く吹きすさんでいた。でも加代は、少しも寒くなかった。