誓約の血印
バウンズ家との親善試合から一ヶ月半ほど過ぎた頃、クラリアからの手紙に少しずつ変化が起こっていた。
汗でインクが滲んでいるのはいつものことだが、何だか文字がぐにゃぐにゃと歪み始めたのだ。丸みを帯びていた可愛らしい文字が崩れ、歪になっていった。
徐々にその傾向は顕著になっていき、やがて文字を覚えて間もない子供が書くような字体になってしまった。筆圧も落ちて、判別できない文字も多くなった。
まるで手に括りつけたペンで書いているような文字である。さすがに違和感を覚えたレイシーは彼女にその事について聞いてみることにした。そして帰ってきた手紙を読んだレイシーに衝撃が走った。
この前の手紙に比べて更に文字は更にガタガタになり、判読不明な文字も更に増えた。そして、ベッタリと濡れた後を乾かした痕跡が残っていた。
それを見ただけでクラリアが正常な状態で無いことは一目瞭然だった。レイシーは恐る恐る読めるところだけ拾い上げて内容に目を通していった。
―――れ しー ちやん へ
ほんと は たくなかつ の けれど たし すい い ようって びようき なの。
もし これを れいしー ちやん へ つたえ ら きらわれちや ん やないかって。いま でいえな つたんだ。ご んね」
ところどころ何と書いてあるのかわからなかったが、おおよそ彼女が言わんとしている事は伝わった。手紙はそれだけでは終わらず、崩れた文字の後に空白を開けて別の者が書いたと思われる整った文字が綴られていた。
随分長く書いてあるが、これはただ事ではないとレイシーは目を通しながら固唾を飲んだ。
―――レイシェルハウト様、お元気でしょうか。以前お手合わせしていただいたクラリアの兄、ランカースです。いつも妹と文通してくださってありがとうございます。
突然のことで混乱されているやもしれませんので、補足しておきます。妹は難病である”水解症”を患っております。
珍しい病気ですのでご存じないかもしれませんが、体が少しずつ溶けて水になっていってしまうという不治の病です……―――
レイシーはその病気の名前を初めて知った。一般常識や教養についてはルーブ爺との1対1の講義のみではあったが、それなりに学んできたつもりだ。
病気や伝染病やそれへの対処法などについてもある程度掘り下げた講義を何度もやってきている。だが、”すいかいしょう”などという病気は本当に今この時まで知らなかった。
ランカースが珍しいと書いている通り、本当に奇病なのだろう。なぜこんな事になってしまったのかと彼女は戸惑いながらも続きを読んだ。
―――思い当たるところがあると思いますが、妹が汗かきなのは体質ではなく、その病のためだったのです。世間では患者と接触すると伝染するなどと言われておりますが、これは迷信です。どうかその点はご安心下さい。
また、妹がそのことを伝えるのが遅くなってしまった点についてもお許しいただきたいのです。妹が病にかかって以来、彼女の友人たちは皆、感染を恐れて離れてしまったのです。そこへ貴女が親善試合に屋敷へいらしたと。今や貴女は妹の大事な大事な唯一無二の親友です―――
クラリアがあそこまで積極的だったのはそんな背景があったのだと知ってレイシーはやるせない気持ちになった。友人が出来たと喜びながらも、どこか憂いを帯びていたのはその時点で彼女”も”孤立していたからだろう。
何も知らなかったレイシーにつけこんだと言えばそれまでだが、それでももはや彼女との友情は嘘偽りのないものである。最後に彼女の近況について書かれていた。
―――今、妹は半身をバスタブにつけています。もう、腰の辺りまでは溶けきって水になってしまいました。やがて、上半身も溶けていくことでしょう。
酷いことに、この病気は脳が溶けきるまで意識があるとのことで、苦しい闘病生活を続けることになります。出来れば、クラリアにメッセージを送ってやって下さい。
励みになると思います。これからは直筆で返せるかはわかりませんが、私が責任をもって彼女の言葉を代筆します。突然のご報告、お許し下さい。失礼します―――
レイシーは手紙を手からこぼすように落とすと両手で頭を鷲掴みにした。彼女の長めな前髪はグシャグシャに乱れた。なぜ、何故クラリアがこんな目に合わねばならないのか。
あまりにも理不尽な現実に彼女は平常心を失った。バスタブに浸かる半身の溶けた少女がこちらに向けて力なく微笑む様子が頭に浮かんだ。
「ええいっ!!!」
彼女は頭を鷲掴みにしていた両手を離すとギリギリと握りしめ、思いっきり拳を机に叩きつけた。机はダンという鈍い音を立て、机上の筆記用具や小物が軽く跳ねた。その後、彼女は立て続けに2回机を強打した。
物音は虚しく響いた後、静寂がその場を包んだ。彼女は現実を噛み締めなおして動けなくなり、やがて動いているものは窓の外の降り続く雪のみとなった。
気づくと部屋の入口にサユキが立っていた。よほど大きい音だったのか、先ほどの机を叩いた音を聞きつけてやってきたようだ。机に両拳をつけたままレイシーは部屋の入口のサユキの方を向いた。
レイシーと目の合った彼女は思わず目線をそらしてうつむいた。まるで事情を既に知っているといった様子だ。レイシーは無表情のままサユキに歩み寄った。すると彼女は重い口を開いた。
「お嬢様……、クラリア様は……」
「サユキ、アナタ、知っていたの……?」
その場は沈黙に包まれた。その反応を見たレイシーはすぐさまサユキに食って掛かった。腕を上に伸ばして自分より背の高い彼女の着物の襟をグッっとえぐり込むように握りしめた。その顔は怒りに満ちていて、瞳は炎が燃え上がるように紅く殺気を放っていた。
「どうして黙っていたのッ!! 知っていたんでしょう!?」
「…………………………」
レイシーの問に何も答えないサユキを彼女は思いっきり揺さぶった。少女のものとはとても思えない強い力だった。すぐに空いていた左手もサユキの襟を捕らえて両手で彼女を揺さぶった。
「答えなさいッッッ!! ええっ!? 何とか言いなさいよォ!!」
「……………………………………」
「なんとか……うっ……なんとか、なっ、なんとか……いいなさいよォ……うっ、うううう……」
レイシーはサユキの襟にぶら下がるようにして激しい嗚咽とともに力なく両膝を床についた。サユキは無言のまま彼女を抱きしめて、泣き声が廊下に漏れないように扉を締めた。そしてレイシーの肩に顎を置きながら語りかけた。
「クラリア様を初めて見た時、もしかしたらとは思ったのです。しかし、確証はありませんでしたし、それをあちらの家の方にお聞きするわけにもいきませんでした。水解症にかかったという者が生き残ったという話は聞いたことがありません。こんな事……こんな事、お嬢様に伝えられるわけが……ないじゃないですか……」
「だからって!! だらかって……こんな事……こんな事って……こんなのってあんまりよ……」
レイシーは長いこと泣きじゃくっていた。半日ほどそのままで涙が枯れるのではないかという程、泣き続けた。やがて泣きつかれるとサユキの腕の中で眠ってしまった。サユキは彼女をベッドに寝かせると暗い表情のまま部屋を後にした。
その出来事がレイシーに与えた影響は非常に大きく、三日三晩は食事も喉を通らないほどだった。表情も乏しくなり、無表情あるいは塞ぎこんだ表情しか浮かべないようになってしまった。
あまりの絶望感の前に心ここにあらずといった様子だった。サユキを始めとしてパルフィーやアレンダも彼女を心配したが、状況が状況だけにかける言葉が見つからなかった。
だが、レイシーは内心で本当に絶望しているのは自分ではないと思っていた。本当に絶望と闘っているのはクラリア本人である。
ランカースは闘病生活の励みになるから返事を送ってくれと書いてきたが、何を書いても無責任な励ましにしかならないように思えて、返事を返すことが出来なかった。
しばらく大した食事をとらなかった彼女はやつれたように見えた。その日の昼食時も彼女は全く料理に手を付けなかった。
普段なら残り物はパルフィーが残らず食べるところだが、流石にここ数日はそんな空気ではなかった。その様子を見てたまらずサユキは声をかけた。
「レイシーお嬢様……こんな事、クラリア様は望んでいません。お嬢様が元気で居ないと知ったら、彼女が悲しみます。彼女が勇気を持って出してくれた手紙が原因でこんな事になっているとしたらそれほど悲しい事はありません」
「……………………」
レイシーはテーブルに立て肘をついて窓の外の雪をぼんやりと眺めている。サユキは反感を持たれる覚悟をもって発言したが、暖簾に腕押しといったところで最悪の反応だった。
ついにはその噂が父ラルディンにも届いたらしく、レイシーは直接当主の間に呼び出されてしまった。
レイシーと対峙したラルディンは内心驚いた。覇気が無く、まるで魂の抜けた抜け殻のような娘の姿がそこにはあった。
ここまで落ち込んでいる彼女を見るのは初めてだった。だが、それを顔に出すわけにはいかず、いつものような厳粛な態度で娘に接した。
「レイシェルハウト、この頃、食事をとらないそうだな。それに、ろくに家来と話もしないそうじゃないか。私から言わせてみればお前は戦いから逃げている。なんの戦いかわかるか?」
「わかりません」
レイシーはそう即答して黙りこんだ。ラルディンはこんな態度をとられるのも初めてで、これは反抗期というやつだろうかとなんとなく考えた。同時にいかに娘が追い詰められているかを感じ取った。
少し戸惑いはしたものの、彼なりに彼女に問いかけたいことがあったので彼はそのままの態度を貫いた。
「もう一度、問いただす。本当に、本当にお前は戦いから逃げている自覚がないのか?」
「……今は戦いに身を置いていません」
「そうか。だがな、バウンズ家の娘は、”病と戦っている”のだ。例え、勝てないとわかっていても逃げることなくな。武家の娘の鑑ではないのか? お前は逃げている。”何があっても生きる”という事からな。戦場に立つ友人を残してお前は逃げるのか?」
根っからの武人である父の事だ。てっきり、ここ数日の戦闘訓練を放棄していたことや、体調管理を怠っていることに関して「逃げている」と説教をしてくるとレイシーは思っていた。
だが、彼女に投げかけられたのは予想外の指摘だった。戦いとは何も相手と剣を交えることではない。生きることもまた戦いであるという彼なりの人生訓だった。
「理由は様々だが私も、友人を何人か亡くしている。私自身、お前のような心持ちになった事も少なくない。なぜあやつは死んで、私が生き残ったのかと。だがな、そのたびに思うのだ。死んだ者が戦えなかった分の戦いをするのが武士というものだと。ここまで言ってわからぬような娘に育てた覚えはない。下がれ」
「……………………」
レイシーはしばらくの間、無言だった。そして我に返ったように深くお辞儀をして当主の間を出た。部屋を出たレイシーは自分の両手を見つめて、そして力強く握った。そして1人呟いた。
「クラリア……貴女は戦っているのね。それなのに目を背けるなんて……そんなの、そんなのただの卑怯者だものね」
ラルディンの呼び出しを食らってからというもの、レイシーはいつもの調子を取り戻していった。食事は毎食しっかりとるようになったし、戦闘訓練にも復帰した。
少しずつだが、表情も和らいできている。サユキ達はきっとラルディンの説教が彼女に通じたのだと互いに安心し合った。
すっかり調子を取り戻したレイシーは多少遅くはなったものの、クラリアへと返事を返した。
何があってもクラリアは自分の親友であると伝えた。そしてどんなに絶望的な状況でも彼女の”騎士”として諦めずにクラリアを見守ると。
そう綴ってから軽く指先に傷をつけて手紙に押し付け、誓約の血印をつけた。本当にこんな内容で良かったのかはわからない。だが、それが彼女なりに見出したけじめだった。




