水底の女神様は
アシェリィはフラリアーノ教授に案内されて教授室へ連れて行かれた。
学内の水道のセキュリティをリーネが突破し、侵入してしまったため、厳罰を言い渡されていたのだ。
それについては不問にすると言われたものの、アシェリィは緊張してカチンコチンになっていた。
「ここです。緊張しているようですね。何、別に何か罰を下すわけではありません。あなたが知っておくべきことを教えるだけですよ」
優しげに両目に泣きぼくろの入った紳士な教授は柔和に笑った。
彼の教授室はほのかにいい匂いがしていた。
「座ってください。クラーナ・コーヒーでもいかがですか?」
少女はぎこちなく頷いた。
「ミルクと砂糖は入れますか? はは、私はミルクと砂糖をたっぷり入れないとコーヒーが飲めないんですよ」
これには思わずアシェリィは笑ってしまった。
2人して向かい合って高そうなチェアに腰掛けるとその場はリラックスした。
「いいですね。これから話すことは決して他人に話してはなりません。禁忌というほどの事ではありませんが、正直言ってあまり人に話すべきことではないんです」
いまいち理解しかねたが、とりあえずアシェリィはそれに同意した。
「貴女は”クレケンティノス帝”をご存知ですか?」
クレケンティノス帝といえば学院の闘技場史に名を残した人物だ。
なんでも33連勝を成し遂げたらしい。途中、教授が参戦する”ちゃぶ台返し”を返り討ちにしてだ。
その戦いぶりから学院生たちの間で畏怖され、クレケンティノス帝と呼ばれている。
それは今でも変わることはなく、闘技場の猛者達は彼を超えることを目標にしている。
「はい。知っています。名前と、功績についてくらいですけど……」
緑髪の少女が答えるとフラリアーノはため息を付いた。
「……クレケンティノスは33連勝した後、忽然と学院から姿を消しました。実は彼は君の師匠、創雲のオルバなのです」
それを聞いたアシェリィは驚くより先に笑ってしまった。
「ま~さか~!! あの師匠にそんな覇気があるわけないじゃないですか!! 人違いですよ。きっと!!」
弟子としてはにわかには信じがたい発言だった。しかし果たしてフラリアーノがウソをつく必要があるだろうか?
「……私はオルバと同期だったんです。だから、彼がなぜああなったのかを知っています。そしてポカプエル湖の守護精霊の事も……」
話が真実味を帯びてきて彼の愛弟子は真剣な顔つきになった。
「もう10以上前になりますか……オルバは非常に精力的に学問や戦闘訓練に取り組んでいました。おまけに優秀で、研究科の主席候補になるほどでした。国立魔術局からも直接スカウトが来ていましたし。正直、いくら努力しても彼に及ばない自分が私は嫌いでした。これはまぁ今もそうですが……」
教授は細目で宙をあおぐように見ながら回想した。
「オルバにはフィリンという恋人が居たのです。結婚を誓い合う間柄だったのですが、ある時、不幸にもフィリンが水解病を患ってしまったのです。水解病については講義で習っていますね? 治療法の確立されていない不治の病です」
確か体が徐々に水に変化して溶けていってしまうという恐ろしい病気だったはずだ。
脳が溶け切るまで意識があるのでかなりの苦痛を伴うと奇病の講義で勉強した。
「オルバはどうにかして治療できないものかと、文献などを読み漁り、世界中を駆けずり回りました。しかし……その努力も虚しくフィリンは完全に水になってしまいました。彼は抑えきれない自分の怒りをコロシアムに叩きつけてから学院から消えました。もちろん、オルバとフィリンのことは親しい人物しか知りません。こうして彼は皮肉にも闘技場の帝王となったのです」
今までただの能天気ぐうたらだと思っていた師匠にそんな過去があったのである。
アシェリィはそれを聞いて今まで少し小馬鹿にしていた自分を深く悔いた。
「近況はあなたのほうが知っているでしょうが、もうかつての彼はこの世にはいないと伝え聞いています。私も親しい仲だったので一連の出来事には大変、心を痛めました。会いに行くのが人情と思う気持ちと余計なお節介という気持ちの間で彼には未だ会えていません。君の担当が私だと知ったらきっと鼻で笑っているでしょうね」
弟子はギュッと拳を握った。
「そんなことありません!! 担当教授を聞かれた時に先生の名前を出したら師匠は嬉しそうでしたよ。普段は飄々(ひょうひょう)としてるのに、ニヤリと笑ってましたし。あれは馬鹿にする笑い方じゃなかったです!!」
満足そうにフラリアーノは微笑んで続けた。
「それは光栄ですね。……では、本題に戻りましょうか。フィリンの見た目は銀髪でおっとりした顔つき、白いローブを着ている事が多かったのです。さきほどあなたが接触した守護精霊の見た目と一致していませんか?」
少女は頬に指を当てて振り返った。
「はい。そうです。……ということはもしかしてあれはフィリンさんそのもの!? ポカプエル湖にフィリンさんの体が溶け込んでいるって事なんですか!?」
教授は真顔で頷いた。
「ええ。オルバはフィリンと協力してあの湖を管理しているのです。ただ……死者とのコミュニケーションは死霊使の領域であって、召喚術師には触れることができません。だから彼にはフィリンを見ることも、感じることも出来ません。代わりに”仮の娘”を練って創ることは出来るようですが。プロテクトを破った彼女ですね」
リーネが「オヤジはあくまで管理人」の意味をようやくアシェリィは理解した。
オルバが湖を離れようとしないのはフィリンやその娘達とずっと一緒に居たいからに違いない。
たとえ、作り物の娘だったとしても。
気づくと少女は溢れる涙を抑えきれずにいた。
フラリアーノが群青色のチェックのハンカチーフを差し出す。
どれだけ経っただろうか、ひたすら泣いていた気がする。
「ね? わかったでしょう? この話が禁忌である理由。クレケンティノス帝の評判についてはどうでもいいですが、オルバ本人にとってこれは知られて気持ちのいい話ではありませんよね? 弟子にさえ語ったことがないのですから。だから、この話題は絶対にあなたの師匠には言わないこと。私との約束です」
フラリアーノは落ち着いたアシェリィに微笑みかけた。
「さて、今後のことについてですが、海龍の血盟に誘われたのは良いことだと思います。身構えることなく喜んでいいでしょう」
ポカプエル湖のマスターは不思議な顔をした。
「どうして海龍様の事、知ってるんですか?」
先生はズレたネクタイを直しつつ言った。
「さすがにあれだけ強烈な幻魔の反応があれば嫌でもわかりますよ。あの時、あなたは人間界と幻魔界の狭間に居たんですから。妖精の侵入で気づいたのではなく、君が講義をしているうちにアドバイスをと思って駆けつけたんですよ。ちょっと”ノック”してみますか」
フラリアーノが手をアシェリィにかざすと青いライネン・ホタルのような小さな光源が体の周りを漂い始めた。
「私の呼びかけに確かに反応していますね……。海龍様との契約にすると水属性の幻魔が強化されると思います。無名幻魔が結びついて目覚める幻魔も数知れないでしょう。同時に樹木属性とは親和性が高くなり、地面属性へは契約の脅迫がやりやすくなります。ただし、デメリットは炎属性の幻魔はすべて契約が解除されること。あとは敵対視されて襲撃される事もあるでしょう。そこは注意しなければなりません。ただ、それ以外は特に害などはないです」
少し考えたあと、少女は先生に尋ねた。
「フラリアーノ先生も高位の幻魔とのパイプ役をやってるんですか?」
彼はコクリと首を縦に振った。
「ええ。4つの高位幻魔と契約を結んでいます。中が悪い人達ですから争いのストッパーにならねばならないのは大変ですが……。それくらいで見たとおり生活などに支障は出ていませんよ」
アシェリィの決断は早かった。
「悪魔憑きなんじゃないかとか疑っちゃいました。いけない。謝りに行かないと!!」
そう言うと彼女はチェアにぐったりと横たわって眠ってしまった。
再びポカプエル湖の底を訪ねる。
そこにはフィリンが湖底に座っていた。
「フィリンさん!! あなたがフィリンさんなんでしょ!?」
彼女はにっこりと笑うだけで一言もしゃべらない。
「そうか……死霊使しか話せないんだ……。でも、バルクなら!! サモン・ロッテン・パープル!! バルク!!」
骸骨犬が出現した。わずかだが、フィリンと意志がつながる。
「私は……もういいのです。どうか、オルバを。どうか、オルバを頼みます。私の最愛の人……。あの人は……腐ってしまうにはまだ早すぎる……」
そうつぶやくと守護精霊は消えた。同時にバルクもかき消えた。
湖の奥の暗闇から巨大な海龍が姿を現した。
「おや? 何か御用ですか?」
アシェリィは瞳を閉じて胸に手をやった。
「海龍様、私、ポカプエルズクランの血盟主をやります。パイプ役として契約してください!!」
ドラゴンは少し意表を突かれた感があった。
「また急な決心ですね。ですが、決心が必要なほど大それた事ではありませんし、貴女がそうおっしゃるのならば。ポカプエル血盟をアクアマリーネの一員として迎え入れましょう」
その直後だった。ゴーーーッとどこからともなく音がする。
気づくと自分の体が音を立てていたのだ。
「なにこれ……からだが……熱い……」
少女の中でバラバラだったものや歪に繋がっていたものがすべて整理されて繋がった。
そして彼女の頭と体はわき出る力のあまり真っ白になった。
眠ったアシェリィを見るフラリアーノは確かにそれを確認した。
「ほとばしるこの力……。契約に成功したようですね。おそらくすぐにこの力は発揮されないでしょう。ですが、これを使いこなせれば相当の力になるはず。後は彼女次第ですね……」
その頃、ポカプエル湖畔のオルバの家……
「いっくしゅ!! へ~っくしゅ!! ……う~ん、今日はやたらくしゃみが出る。誰か私のことをウワサしてるのかな? まっさか~。こんな隠居生活のオッサンのウワサをする人なんて……い~っくしゅ!!」
その日は一日中、彼のくしゃみはとまらなかった。




