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「あれ迷子かお前ら」
ねえこの状況が見えていたのと、後になって聞いた。返ってきた答えは
「うんもちろん。でもお前らがここの住人になったんなら、俺は手出しできない。それが決まりなんだよ。だから訊いた」
至極当然といった顔で言われた言葉は、考えようによっちゃあ凄く残酷な言葉だった。
だって彼の言う“ここの住人”……俺はまだ一人も見てないけど……が、あんな風な影に襲われていたとして。彼はそれから助ける力を持っているのに、“ここの住人”だったら助けないという。
「なんで?」
弟は聞いた。
「俺たちは助けてくれたのに?」
彼は肩を竦めて答えなかった。
ただ、月の光を避けるようにフードを目深におろし、手にした棹でとん、と水底をついたのだった。
突然響いた声に、とても驚いた。
だってこの場所にいて、初めて俺と弟以外の声を聞いたから。
びっくりして声もでない。助けて、と叫びたいのに凍りついたように喉の奥が塞がれているみたいで。
影は動きを止めずに今にも弟や俺を食べてしまいそうだ。
彼はもう一度言った。
「お前ら迷子? 違うんなら俺行くぞ」
真上にある月のせいと、目深に被ったフードつきコートのせいで、顔かたちや表情はわからないけれど。
どこかめんどくさそうな声と。あっさりのんびりした口調だった
まったくこの場に不似合いな。
このまま何も言わないと、彼はさっさと行ってしまうと、確信に近く思った。
「俺たち迷子だよっ。気付いたらここにいたんだっ。これは夢じゃないのかっ」
「あ、やっぱり。そうじゃないかとは思ったんだ。で」
彼は言葉を切って、じっと俺の顔を見た。
陰になって顔なんか見えてないのに。
強い視線を感じた。
「助けは要るか?言っとくけど、これは夢じゃない。目を閉じててもいいけど、そしたら食べられてお終いだ」
「いるよ!わかったよ、夢じゃないなら助けて!」
今や影は自分をも食べようとしていた。
金属みたいな歯が髪の毛に触れた。
「離せようっ」
弟も叫んでいた。けれど。
きいいん。甲高い音が響いたと思ったら、拘束が緩んだ。とさりと軽い音がして、そちらに目を向けると二分された影が砂地の上をのたうっていた。
「兄ちゃん!」
弟の方も同じで、駆け寄ってきた。今や四つになった影はじりじりと近づいてまた一つになろうとしているみたいだった。
「気持ち悪ぅ……」
「うん……」
「お前らのんきなこと言ってんだなあ」
呆れた声がそばで聞こえた。肩に細長い棒を担ぐようにして彼は見下ろしてきた。
今、影を斬ったのは その棒のようだった。
よく見れば棒には様々な飾りが付いている。
砂地を歩くというのに、足音一つしない人。
「とりあえず、すぐにくっつかないように、と」
懐に手を突っ込んで、何かを取り出した。片手でぐしゃりと潰して、欠片のようなものを影にぱらぱらと振りまいた。すると影はぴたりと動くのをやめた。
「これで一安心っと。お前ら怪我はないか?」
ぽんぽんと手を払って彼は言う。
「ない」
「ないよ」
俺も弟も砂にまみれているし、転んだせいで擦り傷はあちこちにできていた。口の中も砂の味と感触がして気持ち悪い。
でもこれくらい“怪我”に入らない。さっきまでの、あの怖さに比べたら。
そう思ったら今になって体が震えだした。
あのまま、この人が通らなかったら?
俺も弟も影に食べられていたに違いないのだ。
「そうか」
ふと彼はしゃがみこんだ。目の高さが俺と同じくらいになった。
弟と一緒に頭を撫でられた。
優しい手つきだと思った。
「怖かったろ?」
フードの陰から現れた優しげな瞳に。
うん、と頷いて、泣きそうになるのを我慢した。
だってここはまだ家じゃないから……帰れたわけじゃないから、泣くわけにはいかない。
「助けてくれて、ありがとう」
「ありがとうっ」
ぽんぽん、と宥めるみたいに頭を叩いて、それから彼は言った。
「よし、じゃあここから離れるぞ。あれは一時的に動けないだけなんだから」
そう言う彼の足元には影はなかった。
「ねえ……何で影、ないの?」
彼はどこか疲れたように笑った。
「これ被っているからな……まったく面倒な仕事ばっか俺におしつけるんだからあの親はあ……」
何やらワケのわからないことを呟いてから。ひらひらと手を振った。
「ああなんでもない。丘越えたところに乗り物あるから、取りあえず歩くぞ」
「……これが乗り物?」
「そうだ。なんだ?」
ほれ狭いんだから詰めて座れと言われ、俺は舳先に座った。
だらだらと登りになっていた砂地を歩き、そうして辿りついた丘の天辺で見たもの。
それはどこまでも広がる湖だった。
海かと思っていたけど、彼は違うと言う。
「塩辛くないし波もない。だから湖だろう」
でもどこまで行っても岸はないんだなあと彼は不思議な事を言う。
「岸がない?じゃあどこに着くんだよ」
「岸はこちらから引き寄せるんだよ……まあ見てな、そのうちわかる」
弟は彼のそばに座った。さっきまで俺にしがみついていたくせにと思う。 まあ泣かれるよりはよほどましだ。
丘を下り辿りついた岸辺。そこに待っていたのは小さな船。
そう、よく海で見かけるようなものではなく、渡し舟みたいな細長いものだった。
どこにもエンジンは見当たらない。どうやって漕ぐのさと訊いたら、
「これで」
と彼は手に持っていた棒をかざした。
すっと見る間に伸びたそれを、水にさす。
「じゃあ出るぞ」
彼は声をかけた。とん、と軽い揺れがあって。
船は滑るように湖面を進み始めた。
砂山も街も遠くなる。
何処に着くのだろうと思った。
彼は名前を名乗らなかった。
自分たちにも名前を聞かなかった。
それどころか、互いに名前で呼ぶなと言った。
「なんで?」
「それがルール。家に帰りたけりゃ言うとおりにしろよ」
「なんでだよ」
助けてくれた事には感謝する。でも理由も言わず頭ごなしに言われるのは我慢ならない。
あ~、と彼はどう言ったらいいんだかな、なんて頭をかいていた。
なんだ、単に説明するのが面倒だっただけなのか?
それは、図星だったらしい。
「まあ手っ取り早く言うと、名前を呼んだら、この“場所”にお前らの“存在”が確定してしまうってこと。ここじゃあお前らは幻みたいなもんだから。それが名前を呼ぶことで実体になる。だから、さっきみたいな影から、ほんとに逃げられなくなる」
「……さっきだって、捕まってたよ?」
「あれだって、何とか逃げ出せただろう?もし名前を呼んでいたら、俺だってもう助けようがなかった」
頭からフードを被るその人はけろりととんでもない事を言う。
俺と弟には“お守り”と言ってじゃらじゃらといろんな色の石がついた首飾りを貸してくれた。
少しでも影が薄くなるそうだ。
「ここの住人には、俺たちの姿は見えないんだ。なんといっても幻だから。でも、地面にできた“影”は見える。だからそれを目じるしに来るんだ」
「ここの住人はどこにいるのさ」
なんとなく答えがわかる気がしたけれど、好奇心に負けてつい訊いてしまった。彼はあっさりと言う。
「あちこちにいる。ああ、お前の斜め後ろにも」
ぎょっと後ろを振り向いても、そこには船の舳先と水面と藍色の空間が広がるだけだった。
「なに言ってんだ。何もいないじゃないか」
「嘘じゃないさ。見えないだけで、いるんだよ。まあ彼らにお前らの姿が見えないのと同じで、お前らにも彼らの姿は見えないのさ。ああ、見えるとしたら、“影”で、だけどな」
その影にも色々あってな。大人しいのから凶暴なのまで。お前らに絡んだのはそこそこ凶暴な奴。
「……知りたくなかったな」
「訊かれたから答えただけなのに」
「で。そばにいても平気なわけ?さっきは襲われたんだけど」
「まあ今は気付いてないから。で、大人しい部類の奴だし。ああ、もう行ったよ」
弟は影に捕まったのが余程怖かったのか、ぎゅっとしがみついていた……彼に。
彼はその頭をぽんぽんと叩いていた。
「もういないよ、ここには。にしても」
彼はじっと俺を見た。どこか面白がるような目で。
「お前はよくよく知りたがるね。なんで?」
これは、お前の見ている夢かもしれないよと。
「夢でも納得のいかないことは知りたい。それだけ」
夢じゃないと言うなら余計に。第一ここは何処なんだろう。
ふうんと彼は言った。
「知って……どうするのさ?」
まったく、面白いガキだなあと、自分も普段両親から “ガキ”扱いされているのも綺麗に棚に上げて思った。
肝が据わっているというか、好奇心旺盛というか。
たまたま見つけた迷子の兄弟。
真っ黒な髪と目の兄と、明るい茶色の髪と目の弟。
子どもの年は、まわりに小さな子どもがいないせいかよくわからない。
兄の方は十二、三才くらいで、弟の方はそれより幾らか下だろうかと見当をつけた。
「知りたい、ねえ……俺だったらそんなの面倒だからどうでもいいって言っているな絶対」
というか、自分だって実のところ、“ここ”のことを、よく知りはしない。
兄弟を悪戯に不安にさせるのはまずいという頭くらいはあるから、言いやしないけど。
「だって必要なかったし。俺はただの遣いだしな」
やり方と万が一の対処方法だけ知っていればいいだろうと言ったのは他ならぬ母親だった。
知りたけりゃ後は自分で訊け、と言わんばかりの態度は両親に共通していた。
まあ俺もわざわざ聞こうとは思わなかったしなあと似た者親子は思う。
ここがどんな世界か、よくは知らない。
見える通りの事と、起こる通りの事しか。
普段生活している世界との関わりも知らない。
自分がここに来るのは「家業の手伝い」これにつきたから。
こちらに落ちた“失せ物”を探すのが自分の仕事。
ていうより、母親の使い走りだなあとぼやく。
「なんで寝てまで働かないといけないんだかな……」
起きたら起きたで、父親の手伝いが待っている。
ぼやきながら、寄り添うように眠る兄弟に口元を緩めた。怖い思いをしたんだろうし、疲れたんだろう、船を漕ぎ出していくらもしないうちに眠ってしまった。
余計なものは持ち込まないから、あいにく掛けてやる毛布もないが、ふと思い出した。
この世界の月の光は、異物を暴いてしまう。
その異物は容赦なく食べられる。
免疫細胞が体内に入り込んだ異物を攻撃して死滅させるように。
だからそれを避けるために、ここに来る時は目くらましのコートを着ているのだ。
その下にもう一枚羽織るものを着ていた。
上のコートを脱がないように、器用に下に着ていたものだけ脱いで、それを兄弟に掛けてやった。
ここはあまり暑さ寒さを感じない場所だけれど、水の上は流石に冷えるから。
暖かいのか二人丸くなって服の端を掴んでいる様子は、まるで。
「動物の子どもみてえ……」
くすりと笑って、さてこいつらの家はどこかなあと流れに棹をさす。
このまま眠っているうちに送ってやれるのが一番いいのだけど。そうすれば。
これは夢だと思って、すぐに忘れてしまえるだろうから。本当はそれが一番いい。
怖い思いをしたことも、自分と会ったことも。
本当なら来る筈のない場所、会うはずのない人間だから。
「ああでも、俺の用事が済んでないんだよなあ……まあ仕方ないな」
呟いて船を漕ぐ。月が水面に映ってきらきらと反射していた。
微かな水音以外はなにも聞こえない明るい月のもと。
見通せない先に向かって船は進んだ。
「絶対帰れるって思っとけな」
て、俺が言わなくても思ってるよなと笑う人に、
「なんでなのさ?」
と弟は訊いた。
「それが“岸”を引き寄せるから」
「“岸”?」
「そ。お前らの家のある場所」
お前らが、“そう”思う方向に船を漕ぐからと。
こんな、どこまでも広がる水の上、方向なんてわかるのかと思った。
目じるしは空にある月しかないのに。
不思議だったが、彼は、
「ああ、こっちみたいだな」と、とん、と船の向きを変えた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「なんだ?」
「船漕ぐの上手なんだねー。俺海で漕いだんだけど、ちっとも上手く進まなかった」
「そうか。慣れれば上手くなるぞ」
「へえ……そんなもん?」
「そんなもんだな」
そうして船は進み、彼はのんびりと呟く。
「あれか?」
ぼうっと何もない空間に、浮かび上がった光景。
シャボン玉の特大版みたいだった。
とん、と棹をシャボン玉に触れて引きよせる。それは目を丸くして見上げる俺たち兄弟の側までやってきた。
「触ってみな?」
言われて、そっと手を伸ばす。でも。
シャボン玉はぱしんと弾くように硬かった。
「あれ?」
それに首を傾げたのは他でもない彼だった。
「おかしいなあ」
「おいおい……間違えたんじゃないのか?」
「うーん。ああ、場所はいいのか……時間が違うんだな」
と俺にはわからないことを言う。
首を傾げてじっと見つめていると彼は大丈夫だとくしゃっと頭を撫でてきた。いきなりのそれに、少し驚く。
もう親もこんなふうに触れてくることは少なくなっていたし、そんなことされても嬉しいとか思わないし、それどころか鬱陶しいはずなのに。
何でだろう。離れていく手を引き止めたいなんて思ってしまった。
「いつになったら帰れるの?」
弟が聞いた。
「待ってな、次は大丈夫だから」
弟にも同じようにしてやって、彼は笑った。