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以前別アカウントで連載していた話の移行版です。

誤字脱字等の修正の他は以前とほぼ同じです。


 夢は時間も空間も超えるんだよ。

 




 夢が現実になったのかと思った。


 そして、やはり。

 あれは、本当にあった事だったのだと思った。


 それは、ずっと、長い間忘れられずにいた“夢”の話。




「名前は?」

 彼は答えた。

 いつかの“夢”と同じ、月明かりの下で。


 




「うーん、ここも違うなあ……どこかなあ……困ったなあ」

 どこかのんびりとした調子で、ちっとも困っているふうでなく言う人に、俺はひそかに拳を握ってしまった。

 誰がそれを責められようか。

 とうに時間の感覚なんてなくなっているけれど、とても長い時間、こうして何処とも知れない場所にいる。

 帰り道がわかれば、すぐにでも帰るのに。帰りたいのに。

 それが出来ない……とても遠い場所にいるから。

 なにより腹が立つのは、この頼りなさそうな人の力を借りないと、自分と弟は元の場所に帰れないということだった。

 さっきまでは自分にしがみついていたくせに、弟はあっさり得体のしれない人に懐いている。

 流れに棹差し小さな船を操る人の手元を、面白そうに覗きこんでいた。

 お前さっきまであんなに泣きそうな顔をしていたくせにもう笑ってるんだなと、ひとり呟く。


 泣かれるよりは、笑っていてくれる方が、もちろんいいのだけど。


 泣かれたらどうしていいかわからない。特に、こんな場所では。

 自分だって泣きたいくらいだったから。

 でも泣くわけにはいかなかったから。

 堪えて、大丈夫だよと何のあてもないのにそんな言葉を繰り返して。

 ただ、歩いていた。弟の手をひいて。

 手を繋いで。

 すがっていたのは本当はどちらだったのか?

 より強くすがっていたのは。

 

 船の縁にもたれて、ぼんやり自分の手を見つめる俺の耳に、無邪気な弟の声が飛び込んでくる。

「ねえ、じゃあどこなんだよう」


 弟は自分よりも背の高い人に聞いていた。

 その人は頭をかいてうーんと腕を組んだ。弟は返事が返らない事に不安そうな顔をする。

 それを見て弟の頭をくしゃっとかきまわして、その人はふんわり笑うのだ。

「すぐにはわからないんだけどさ……俺もあんまり得意な分野じゃないしさ……でも、絶対帰してやるから。そんな泣きそうな面してんじゃねえよ」

 ぽんぽん、と宥めるように頭を叩かれて弟は、

「うん」

 と頷いた。俺の視線に気付いたのかその人はこっちを見た。

 弟に向けたのと同じ笑い方で。

 大丈夫だよと安心させるような顔で。

「すこーし時間かかるけどさ、帰してやるから、お前も泣きそうなツラしてんじゃねえぞ。ほら」

「俺は泣いてなんかいない」

「だから、泣きそうに見えたんだけど、違うんか?」

「違うっ……て、なんだその手は」

 差し出されたのは、上にむけた手のひら。

「こっち来いよ」

「なんで」

 きょとんとその人は首を傾げた。

「いや、なんかお前寒そうに見えるから。だから」

 あんまり舳先にいて、落っこちでもしたら、本当に拾えないから。おいでと伸ばされた手をじっと見つめて。つん、と顔をそらした。

「俺は落ちるほど間抜けじゃないし、だいだいここは暑いとか寒いとか、感じない場所なんだろ?」

 そうだけどな、と笑う人。でも、と言葉を続ける。

「なんだか寒そうに見えたから。それだけだよ」

 じゃあお前はそこにいな、とその人は言い、底の見えない流れに棹をさした。

 大船に乗った気分には到底なれないような小さな船は、微かな水音をたてて進んでいった。

 振り向いた背後には水脈が長くひいていた。自分と弟が迷い込んでいた、奇妙な街が遠ざかる。

 でも、こんな……月明かりと水面しか見えない場所では本当に帰る場所に向かっているのか、わからなかった。

 帰り道を知っているのは船を操るこの人だけだ。

ちらりと見上げると、眠そうな顔をして、真昼の野原を歩くようなのんびりとした様子だ。

 何だかこちらの気が抜けてしまうような。

 弟は何やらしきりに話しかけ、その人もつきあいよく返事をしてやっている。

 船にもたれて俺は小さく息をついた。ぐるぐる考えていたって仕方ないし……それに、あんな怖い出来事なんて忘れてしまおう、と。

 

 そうして。心細さがいつの間にかすっかり消えていたことに、気が付かなかった。





「……ねえ、兄ちゃん……」

 心細さを表しているかのような、細い震える声で弟が言った。

 ぎゅっと力いっぱい腕にしがみつかれた。

 その拍子にがくんと歩みが止まる。小さな弟のどこから、と思うほどの強い力だった。

 けれど俺は痛いなんて言わない。平気な顔をしてないと駄目だから。

 自分までが不安げな顔をしたら駄目だと思ったから。

「大丈夫だ。歩いたらどこかには着くから。誰かが通りかかるかもしれないし、な」

 だから歩こう、と弟の手をひいた。弟はその手を勢いよく振り払った。顔を赤くして早口にまくしたててくる。

「やだっ。だって何処まで歩いても誰もいないじゃないか。家に帰りたいよう」

 そして地面にぺたりと座り込んで大声で泣き出した。

 泣きたいのは俺もだよ。

 許されるなら、自分だって大声で泣きわめいて、座り込んでいたかった。

 そうしていても、誰も助けになどきてくれないとわかっているから。

 大丈夫、だなんて言ったけど。

 この街は……と今まで歩いてきた道、街を振り返る。

 どこか見慣れた、けれど自分たちが知っている街とは確実に違う街並みがそこにはあった。

 

 たとえば。今歩いている道をこのまま行くと家に着くはずだった。途中にある交番も公園も、記憶の通りちゃんとあったのに。

 自分たちの家はなかった。

 見覚えのある風景の隣には、見知らぬ風景があった。

 そして誰も……人も動物も。動くものを何一つ見なかったのだ。

 空には丸い月が出ているのに、家には明かりが煌々とついているのに。

 どの家に入っても誰もいなかった。

 しらじらとした灯りが、無人の室内を照らしていた。ついさっきまで誰かが居たみたいに、食卓には料理が載っていて、テレビからは賑やかな音が聞こえるのに。

 それを見たとたん、背筋がぞおっと冷えて、弟の手を掴んで外へと飛び出した。

 どこが安全かもわからず、ただ歩き続けるしか出来なかった。

 月に照らされて、影が長く地面にのびる。

 二つだけ。自分と、弟の分。


「……そうやって座って泣いてても、家には帰れないんだぞ。だから、歩こう」

 弟は顔もあげないで地面を睨んでいた。そうやっていたらいつの間にか悪い夢から覚めて、家のベッドで寝ているんじゃないかと思っているみたいに。

 本当にこれが夢だったらいいのに。

 何度も何度も願っているのに、まだ目は覚めない。夢なら早く覚めてほしい。

「……おい、……」

 このまま蹲っていても仕方ないし。

 弟の名前を呼ぼうとした声は、当の弟の声にかき消された。

 地面から飛び離れるように立ち上がり、弟は叫んだ。

「兄ちゃん、あれ、なんだようっ!影が勝手に動いている……」

 長く地面に伸びた影。弟と自分、二人分の。

 それが見る間に大きくなり膨れ上がり、ゆらゆらと体を揺するようにして。

 月を覆い隠し、俺たちに覆いかぶさるように影がのびた。

 月の光を通さないほど暗い影の“口”が。

 ぱくりと開いた。

 ぞっとした。

 “口”には、月の光をぎらりと反射する、金属のような歯がびっしり生えていたから。

 鋭い歯が、がちりがちりと噛み鳴らされた。

 あれは、自分たちを食べようとしているのだ。

「逃げるぞ、走れ!」

 弟の手をひき、駆け出した。

 後ろから影がついてくる。走った分だけついてくる。

 それでも後ろは見ずに、懸命に走った。

 確かにベッドに入ったのを覚えているのに。

 夢なら覚めてもいいはずなのに。

 なんで俺たちはこんな所にいるのだろう。


 



 月は天高く、いっそ冷ややかに地上を照らしている。

 くっきりと濃い影が地面にのびるほどに。

 雲ひとつない空が、今は憎らしい。

 アスファルトを駆けた。弟と手を繋いで、息を切らして。

 俺たちはいつの間にか見慣れた、けれど違和感のある街並みを走り抜けていた。

 目の前には砂丘が広がっていた。

「兄ちゃん、苦しいよ」

 ぜいぜいと荒い息をつく弟。俺もとても苦しくて、座り込みたかった。

 ざく、と砂地に足をとられて、足がもつれた。

「うわっ」

 二人揃って転んでしまう。でこぼことした砂の山。膝をすりむいたくらいで済んだけど。

「いてて……」

 弟も膝をさすっていた。

「大丈夫か?」

「うん……へーき。なあ、兄ちゃん、さっきのまだついてきてる?」

 怖くて後ろを振り向けないのだ。

 明るい月のもと、白々と浮かび上がる砂のうえを。そっと振り向いた。

 もう影がついて来ていない事を願いながら……でも。

 でこぼこと平らでない地のうえで。

 影はいっそう歪な形でそこにあった。

 がちり、と歯を噛み鳴らしていた。

 声にならない悲鳴を上げて、弟の手を掴み、走り出した。

 後ろから影の笑う声を聞いた気がした。


 走れ走れ。影に追い付かれないように。

 月は空高く見下ろしていた。ただ、静かに。

 


 俺たちが砂の上を駆ける足音、息遣いの他は、何も聞こえないくらいの、静けさ。

 なんで誰もいないんだろう?

 なんでアレは追いかけてくるの?どうしたらいい?

 頭の中は答えの出ない疑問でいっぱいだった。

 砂地は走りにくい。走りどおしで足も疲れていた。いくらも走らないうちにまた転んでしまった。

 繋いでいた手が離れてしまった。

「いったー……」

「いててて……」

 立ち上がろうにも息が苦しくて、砂地に転がったまま。じっとりと額に汗が滲む。吐く息はとても熱かった。

 しばらく互いの荒い息遣いだけが聞こえていた。

「兄ちゃん……俺もう走れないよう」

 もう、アレどこか行ったよね?あんなに走ったんだもん。

「そうだな……俺ももう走りたくないな……」

 砂の上に手をついて、上を見上げた。

 月は真上にきていた。

 影はもうどこにも見当たらなかった。ほっとした。

 ほううと大きく息をついた。もういないんだ、よかった、と。

「ほら、後ろ見てみな。どこにもいないだろ?」

「うん。よかったあ。でもアレって一体何?」

「さあ……もう鬼ごっこはゴメンだな」

 そうだね、と弟は膝を抱えて座る。そして同じように空を見上げた。

「すごい大きい月。ウチの方じゃ見たことないくいらい明るいし」

「明るいなほんと。だから影ができるんだろうな」

 影。はっと気が付いた。弟の腕を掴み、立ち上がる。

「走れ!」

 ぞっと背筋を冷たいものが駆け上った。

 それが何か考える前に叫んでいた。

 弟はきょとんと自分を見上げていた。

「え?影はもういないよ?」

「いるんだ!だから、早く……!」

 走れ、と続けるはずの言葉は。弟の悲鳴に遮られた。自分こそが悲鳴をあげたかった。

 影は、後ろにはいなかった。

 それは、足元に。真下にいたのだった。

「うわああああ」

 黒々とした影は足元からにゅうっと立ち上がった。

 大きく口を開けて歯を噛み鳴らして、今度こそ逃げられないようにと弟の体を影の一部で捕まえていた。

「兄ちゃん!」

「その手を離せっ」

 腕を振り回しながら、駆け寄ろうとした。けれど。がくん、と何かに引かれて地面に膝をついた。

「なに……?」

 膝と手をついた地面の……わだかまる影。

 真上から照らす明るい月。

 手も足も影に掴まっていたのだ。月が真上に昇れば影は短くなるけれど、自分の真下に、ちゃんとできる。

 がっちりと掴まれた腕も足も、もう動かせない。

必死になって解こうとしても駄目だった。どうしよう、外れない!


 にゅうっと影が地面から伸び上がった。

 ぱくりと口を開いた。がちりと歯を噛み鳴らしてから、それはますます近づいてきた。頭から食べる気だ!

「兄ちゃん!」

 弟が叫ぶ。

「離せっ」

 叫んでもがいても、影の力は強くてびくともしなかった。

大きな“口”と金属みたいな歯が、目の前に迫っていた。ぷん、と何か嗅いだ覚えのある匂いがした。

 そう、モノが錆びたみたいな……と感じた所で、血の匂いだと気付く。

 こんなところで食べられてたまるもんか。

 頭を下げて、顎の下と思う辺に思い切り頭突きを食らわせてやった。思わぬ反撃に驚いたのか影の力が緩む。もう一度やると腕と足から影か離れた。

 素早く立ち上がって弟の所に走る。弟を捕まえた影もまた、弟を頭から食べようとしていた。それに後ろから体当たりした。

 影なのに。固い感触があって変だなあと頭の隅で妙に冷静な事を考えた。

 

 夢のはずなのに。

 なんでこんなに怖いの?


 俺の影が来ないうちに、早く。

 そう焦るけど、弟を捕まえた影は少しも力を緩めようとしなかった。

 何度も体当たりする俺を、ただ煩そうに振り向いてぶん、と長く伸びた腕みたいなもので振り払った。

 まともに体に当たって、俺は後ろにふっとんだ。

「その手を離せよ!」

 砂地だったから、それほどダメージはなかったけれど、背中から転げて息が詰まる。それでも必死で起き上がり、叫んで、もう一度体当たりをしようとしたけれど。その前に。

 自分の影に掴まってしまった。砂地へと前のめりに倒れこんだ。細かな砂が舞い上がり、口の中に入り込んで、じゃりと嫌な感触が広がった。

 しゅるしゅると影が伸びてきた。両腕、両足、そして首にも。

 がっちりと締め付けられて息もできないほど。

 まるで笑っているかのように歯を噛み鳴らし、影は大きく“口”を開けた。




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