木藤明日花は夢を見る 5
明日花が目を醒ましたのが夜中の二時前。まだ夜も明けていないので、仕方なく類は書類の整理をして夜を明かし、空が白けるのを確認して仮眠を始めた。
ソファに乱暴に横になると、目を閉じる。
思ったより疲れていたのか、すぐに意識が途切れた。
が、少しして遠くから電話の呼び鈴が聞えて来た。
職業柄、眠っている最中に聞える音には敏感だ。そして、それが夢の中の音か、現実での音か、体が無意識に判断出来る様になってしまっていた。
音は現実で鳴っているようだ。
すっと目を開けると、ソファセットのテーブルの上の電話が鳴っていた。
オカマからかも知れないので、珍しくすぐに出る。
「はい。」
『あ、私、メイ。』
やはり、オカマだった。
「どうした?」
訊ねながら、部屋の中がだいぶ明るい事に気付く。時計を見ると、十時を少し過ぎた頃だった。
『調べたわよ。すぐに解った。』
予想では、昼を過ぎると思っていたので、類は素直に感心した。
「早いな、有為。」
『本名で褒めるんじゃねぇよ! でも、凄いでしょ?』
ころりと態度を変えながら、オカマは悦に浸っている。
『で、どうする? 話しちゃっていいのン?
一応、資料まとめてあるけど。』
「それは願ったり叶ったりだ。持って来てくれ。」
『おっけー。
じゃあ、すぐ行くわ。』
そう言って、メイは電話を切った。
類も電話を切り、ふぅと溜め息を吐きながら辺りを見回す。
まだ頭が冴えないので、珈琲を入れる事にした。
オカマが持って来た珈琲がまだあったはずだ。
給湯室に行くとちょうど二人分余っていたので、ケトルで湯を沸かす。
その間にデスクに戻り、ノートパソコンを起動し、メールチェックをする。
基本的には、電話でしか依頼は受けていないのだが、知人やら、大まかに言うと同業者のような者経由でも仕事が来る事があり、面倒だがチェックしない訳にいかなかった。こと、同業経由の依頼は、一般人からの探偵染みた依頼と種類が異なり、少少厄介で放置すれば大事になるケースが多く、無視も出来ないのだった。
メール受信が終わったタイミングで、湯が沸いた。
給湯室に戻り、珈琲一人分をドリッパーに入れていると、玄関が開いた。
「来たわよー!」
オカマが大声で叫んだ。ずいぶん早い到着だ。電話をしてきた時点で事務所の目前にいたに違いない。
「うるせぇぞ。」
まともに相手にするだけ無駄に体力を消耗するので、メイに聞えるか聞えないかほどの小声で呟き、残りの珈琲をドリッパーに流し入れた。
「あら、珈琲入れてるの?
私の分もあるわよね?」
「入れてるよ…。」
溜め息混じりに答えて湯を注ぐ。悔しいが、メイの選んだ珈琲のくせに相変わらず素晴らしい香りがする。
給湯室からは、壁と直結したカウンター越しにソファセットが見える。ちらりと視線を上げると、メイがソファの前で立ちっ放しで大型の茶封筒に手を突っ込んでいる後姿が見えた。
電話で言っていた、まとめた資料だろう。
「で?」
と類が声をかけると、メイが振り返ってにやりと笑った。ちょうど珈琲も淹れ終わったので、カップを持って歩み寄る。
「中々興味深いわよ。」
そう言って、メイは封筒を類に寄越した。
類はカップをテーブルに置くと、半開きの封筒から中身を取り出し、立ったまま眺める。書類が五枚。そのうち二枚には、写真が貼り付けてあった。よくぞ短時間で写真まで用意したものだ。などと感心する間もなく、類は書類の内容に唖然とし、眉間に深い皺を寄せた。
「…どういう事だ…?」
「面白いわね? 何が目的かしら…。」
類の問いに、メイが悪戯っぽく、だが底奥深くに邪悪な物を纏って笑った。大体想像はついている、というようにも見えるし、ただの気のせいかも知れないが。
「”これ”をやって、何の利点が…。」
手にした書類には、考えもしなかった事が書かれていた。それが何を意味するかは、今の時点ではもちろん解らないだろう。
そして、彼女は恐らく、事の成り行きを計った上で、類に会いに来たのだ。
ならば、これをやる理由は、悪夢に関係するのだろうと思った。
「暫く、これを知っている事は伏せるか…。」
何が理由か、確かめねばならないと思った。
「情報収集もする?」
メイが壁に寄りかかり、腕を組んだ。やる気満々と言った感じだ。恐らく、腹に据えかねたのだろう。
「…多分、”こちら”で得られる情報はそれほど多くないだろうな。ゴミばかりが集まるような気がする。」
「じゃあ、どうする?」
メイの顔は、妙に挑戦的だった。
どうするもこうするも、言わずもがな、だ。
「…面倒な客連れてきやがって…。」
類は答える代わりに、メイに皮肉を言った。
◆ ◆
メイが来たのが十時過ぎ。
明日花が事務所に来るまでずいぶんと時間があるので、一旦解散する事にして、類は書類整理を再開した。
個人業なので、確定申告が煩わしい。日々レシートや請求書、銀行通帳など動いた金の整理をして置かないと、春先に花粉とともにとんでもない仕事が舞い込む事になる。
溜息とともに心に溜まったどす黒い何かを吐き出し、淡々と作業をする。
少しだけ開けた背の窓から、生暖かい風がそよそよと吹き込み、首筋を撫でて行く。
集中力が切れると時計の秒針の音が気になるが、すぐに気を取り直し、また集中する。何度かインターバルを繰り返し、書類の整理や作成を終えた頃には、空の色は薄っすらオレンジかかっていた。
事務所のインターフォンが鳴る。応えると、明日花だった。
招き入れ、ソファに座らせる。淹れた珈琲を目の前に起き、類は真正面に彼女を臨んで座った。
暫しの沈黙。明日花はここへ呼ばれたから来たのであって、類の出方を視るしかなかったし、類は類で明日花を少少観察したかった。
やがて、類が溜め息と共にカップを置いた。
「大変でしたね。」
一言言うと、明日花が眉間に皺を寄せた。確かに、今明日花が置かれている状況は”大変”ではあるし、事情を知っている人間ならば、そんな言葉もかけるだろう。しかし、今それをわざわざ類が言う事に疑問を感じるのだ。
答えあぐねる明日花に、類は肩をくいと上げて恍けてみせると、ソファの背凭れに体重を預けて踏ん反り返った。
「夢の事、一部始終覚えていますか?」
「はい。覚えています。でも、途中で目が覚めた事以外は、いつもと全く同じでした。」
「なるほど。では、私があなたの夢の中で見た事をお話しますね。よろしいですか?」
「はい。」
「大学に、噴水がありますね?」
「あります。」
「その近くに、植物園と言うか、花壇が。」
「あります。大学の生徒が、『花園』と呼んでいるところです。」
「よく、行かれますか?」
「いえ…、ほとんど…。花には詳しくありませんし、あそこは、大学の農業学科の研究施設に含まれるので、勝手にうろうろするのもどうかと思って…。」
「ほとんどと仰いますが、具体的な頻度が出せますか? 例えば、こういう時に行く、とか。過去、こういう事を理由にして、行った事がある、とか。」
「はい。入学レクリエーションの時に初めて行って、あとは学祭の催し物を見に二度。普段は通りかかりますが、入りません。」
真っ直ぐ見据える類の視線にやや戸惑いの表情を浮かべてはいるものの、明日花は至ってスムーズに質問に回答していた。
だが、続く質問に、明日花は一瞬であるが、妙な間を空けたのだった。
「私はそこで、大学の四年生だという男性に出会いました。心当たりはありませんか?」
「…いえ…全く。四年生に知り合いは…。交友関係は、狭い方なので。」
「なるほど。では次。花壇からグラウンドへ向かうと、そこで女性とぶつかりました。
ジャージを着ていて、黒い髪をポニーテールに結わいている女生徒です。学年は判りません。見た目も普通でしたので、特徴と言えば、今挙げた箇所くらいしかありませんが、心当たりは?」
「そちらも、全く…。見かけた事はあるかも知れませんし、女の子なら、話した事もあるかも知れませんが、覚えていないので、友人ではないと思います。」
「結構。有難うございます。
この二人と出会ったあと、私は食堂であなたを見付けました。そして、その向こうに、人影を確認しました。人影はじっとあなたを見ていた。恐らく呪い主である人物と思われます。」
明日花が恐怖と動揺の表情で息を呑んだ。
「残念ながら、その後すぐにあなたが目を醒まされたので、その人物については良く観察出来ませんでしたが。
私があなたの夢を見る事が出来た事、そして、怪しげな人物を見付けた事。悪夢と断定出来ました。
そして、目を醒ました後のあの嫌な気配ですが、あなたの勘違いや、夢の雰囲気に浸っていると言った類のものではなく、悪夢と同じ、呪縛の一種と思われます。」
「…呪…縛……?」
首を傾げる明日花に、類が嗤った。
「ぴんと来ませんか? まぁ、普通は来ないでしょうね。
単刀直入に言うと、『あなたは相当、恨まれている』と言う事です。」
「え…。」
類の言葉に明日花が固唾を呑んだ。顔に浮かんだ恐怖は数段濃くなり、身を縮める。
「心当たり、本当にないですか? こう言っては何ですが、相手が余程狂ってでもいない限り、こんなには恨まれないものです。ここまで強い呪いは私も初めて見ます。」
「い…、いえ…。」
「人間、無意識にはここまで恨まれる事はない、という事を覚えておいてください。そして、この度合いの呪いは、呪い主が死んでも終わらない、生かしたままでなければ終わらせる事は出来ない、という事も。
調査は引き続き行いますし、夢にもお邪魔しますが、もし誰かに恨まれるような覚えに心当たりが出来たら、すぐに報せて下さい。大抵は事務所にいますが、出払っていない時は、あのオカマの店にでも連絡して頂ければ、すぐに捕まりますので。
今日はバイトですか?」
「…はい。昨日と同じくらいに、家に帰ります…。」
「そうですか。ではまた今夜、夢にお邪魔する事にします。」
淡々と言う類の態度と言葉に、すっかり委縮してしまった様子の明日花は、類が話は終わりだと言うなり力なく立ち上がり、挨拶もそこそこにふらふらと事務所を出て行った。
後ろ姿を見送った類は、腰に手を当て、鼻から一気に空気を出す。
そこで、電話が鳴った。取ると、オカマだった。
『明日花ちゃん帰った?』
「帰った。」
『どうだった?』
「特に変わったところは。少し脅かしておいたがな。」
『ふぅん。相変わらず性格わっるいわよね。』
「お互い様だ。
お前が持って来た調査結果が確かなら、今夜すぐにでも何か動きがあるはずだ。」
『そんなに早く動くかしら?』
「恐らくな。その間に、もう一走りして欲しいんだが。」
『いいわよ。何?』
「調査対象と親しかった人物が知りたい。
恋人でもサークル仲間でも何でもいい。」
『あら、それならもう調べてあるけど。』
実は、言わずとも仕事を理解しているメイなら調査済みであろうと予想はしていた。ただ、そうと褒めると図に乗り面倒くさくなるので、言わないでおく。
「気が利くじゃねぇか。」
『当たり前じゃない! メイちゃんをおナメじゃないわよ。』
「舐めたくないけどな。」
『何か言った?』
「いや。」
『って言っても、今調べ終わったばかりなの。候補に十人ほど挙がってるから、絞るには十分でしょ?』
「ああ、恐らくは。」
『じゃあ、今からリスト持って行くから。』
「頼む。」
言うなり電話は切れ、きっかり三十分後、再びメイがやって来た。自宅から事務所まで三十分なので、本当に家で作業していたのだろうと思った。
「はい、これ。」
メイは到着するなり、クリアファイルに挟み込んだ書類の束を類に突き出した。
手に取ってパラパラと捲る。
類の予想以上に、交友関係者のリストは充実していた。
ただの名前一覧から始まり、履歴書形式の個人情報が一枚ないし二枚ずつ添えられている。
「よく調べたな…。」
思わず感嘆すると、メイがにやりと笑った。
「たまたま知り合いがいる学校の出身者ばっかりだったのよ。」
「教育機関に知り合いがいるオカマもなかなか珍しいぞ。」
「でしょう? 顔は広いのよ。ビジネスの鉄則。
どう? 使えそうでしょ? 顔写真は間に合わなかったのが残念だけど。」
「ああ…。」
言いながら、一枚一枚丁寧に読み進めて行く。そして、五枚目で、紙を捲る手が止まった。
その紙には、ピンク色の付箋が貼ってあり、『元カレ?』と書かれていた。
その点も気になったが、何より類の興味を引いたのは、本人そのものだったのだ。
「どうしたの?」
険しい表情でじっと書類を凝視する類の顔を、メイが覗き込んだ。類はそれでも暫くは何も答えなかったが、やがて口をゆっくりと開いた。
「中断した依頼人。」