木藤明日花は夢を見る 4
過去の資料を読みながら、明日花のバイト上がりを待つ。
時計を見ると、十時半直前だった。
夜の十時に上がるというので、そこから家へ帰り、寝支度が終わる頃には十一時になっているだろう。
あと三〇分。資料のファイルを閉じ、キャビネットに仕舞うと、伸びをして背筋を伸ばした。
ソファのある部屋に行くと、灯りが点いたままだった。不要なので、消す。
再び奥の部屋へ戻り、デスクの脇に置いた円柱型のスタンドライトを点け、この部屋の電気も消した。
”夢見”に灯りは邪魔だ。
灯りを消すと、窓の外の夜景が際立って綺麗だった。さらに今夜は満月だ。夢を見るには、中々良い。
柔らかい月明かりと、スタンドライトの弱い灯りの中で、類は椅子に座り、出窓風の窓の縁に両足を乗せ、ポケットに手を突っ込んだ姿勢で目を閉じた。
雑音がない。たまに車が行き交う音と、路地を通り過ぎる人の喋り声が聞こえるだけで、何の音も聞こえない。新宿という街の中で、これだけの静寂を感じられるのは、意外だ。
類は目を閉じたまま、鼻からゆっくり深く息を吸い込んだ。
ふと、背中がざわついた。
来た。
類は吸い込んだ息をゆっくりと吐いて、目を開けた。
そして、振り返る。
あった筈の光が消え、暗闇の中、体がふわりと浮きながら、落ちて行った。”誰か”の夢に入ったようだ。
重力に任せ、落ちて行く。段々ぼんやりとした光が、足元の闇から浮かんで来た。
目を凝らすと、どこかの街のようだ。
匂いがする。揚げ物の匂いだ。味噌のような、出汁のような、塩っぽい匂いもする。
徐々に光の様子も見えてきた。街と思ったが、どうやらどこかの施設のようだ。
白い建物に広い土のスペース、大きな噴水に、敷地を取り囲む緑色の植木。長い長い坂の両脇には並木が並び、沢山の黒い小さな何かが移動している。よく見ると、人だった。
恐らく、明日花の通う大学だろう。この中のどこかに、友人と談笑している明日花がいる筈だ。
降り立った場所は、中庭のような場所だった。
建物の影で、少し薄暗い。そして、若干の湿り気と、嫌悪感を感じた。
夢の中の風景は、夢主の心を反映する。
実際に然程暗くない場所でも、夢の中で居心地が悪ければ、夢主がよいと思っていない場所なのである。
人通りが見当たらないが、遠くから賑わっている声がする。
類は声の方へと歩いて行った。
渡り廊下を潜り中庭を出ると、今度は太陽が燦燦と照りつけた。
目の前には大きな噴水と、それを囲うようにして友人と団欒を楽しむ生徒の姿があった。この生徒たち全てが、明日花と何らかの接点を持つ。
一度すれ違っただけで名も知らぬ者もいるだろうが、何かが気になって記憶に留めた者が、夢に出る。そしてその人物が登場する場所は、必ずその人物と夢主が接した場所になる。
足元はレンガタイルで整備されていて、噴水の向こうには蔦の絡まるアーチが建っており、その先は植物園のように花花の咲く沢山の花壇が見える。
アーチを潜り辺りを見回すと、人気のないその場所にぽつりと、一人男性が立っていた。
男性はしゃがみこんで花を見ている。
「すみません。」
類が声をかけると、男性はこちらを向いて立ち上がった。しかし、目は合わない。何故なら、夢の中の住人は、類と接する事は出来ても、類を確認する事がない。みな上の空で、決して視線が合わないのだ。
視線が合ったら…。
それはその住人が、その夢の中で重要な役割を持っている事になる。
つまり、呪い主だ。
「木藤明日花という人を探しているのですが。」
「木藤…。」
男性は、何度か「木藤」と繰り返し呟いた後、首を振った。
「すんません、知らないです。大学の生徒っすか?」
「ええ、そのハズです。」
「何年生の人?」
「確か、二年生。」
「二年…。じゃあ、わからないな。オレ、四年なんで…。」
「そうですか。」
礼を言って、類は花壇を後にした。
噴水前に出ると、噴水前だけ人がいなくなっていた。辺りを見渡すと、正門から校舎まで伸びている緩やかな坂道の脇や、校舎の向こうにある校庭に、今度は人が集まっていた。
校舎に入っていく生徒らしき姿も見える。
類は少し考えた後、校庭に向かう事にした。
一般的によくある土のグラウンドの他に、人工芝を張り巡らせた大きな競技場と、屋内練習場のような建物が二種類あるようだ。土のグラウンドは一メートルほどの段差の階段を五段ほど下がった下にあり、階段はグラウンドを丸く囲っている。階段は、練習を観ている生徒が座ったり、練習をしている生徒の荷物置きとして使われているようだった。
最上段で類はグラウンドを見渡した。
集団で話をしている女生徒がいれば、その中に明日花がいると思ったが、そのような集団は見当たらなかった。
校舎の中かと振り返ろうとしたとき、背中に何かがぶつかった。
「ごめんなさい!」
振り向くと、女生徒が深々と頭を下げていた。
「いえ。」
「前を見てなくて…。」
そう言って顔を上げた女生徒は、ポニーテールをきつめに結い、ジャージの上下を身に付けていた。
「ちょっと聞きたい事が。」
「はい?」
「木藤明日花という人を探しているのですが。」
「木藤さん。はい、知ってますよ。」
にっこりと笑って、女生徒が頷いた。だが、目は合わない。
「今、どこにいるか解りますか?」
「今…、だと、多分、食堂じゃないかしら。」
食堂か。
「ありがとうございます。」
「いいえ。」
女生徒はぺこりと頭を下げ、走って行った。
類は女生徒を暫く見送った後、校舎の案内板へ歩み寄った。
食堂は、エントランスから入って、真正面の階段を昇った脇にあるようだ。
エントランスは、案内板のすぐ傍にある。中に入ると、しんと鎮まりかえった中に、遠くの方で賑やかに話す人の声が聞こえた。声を頼りに歩みを進める。ひんやりとした空気の充満する校舎内は、行けども行けども人の気配がしない。なのに、声だけがずっと遠くのほうで聞こえ続けていた。
不審に思った類は、一旦足を止め、辺りを窺った。
稀に、類が悪夢に入り込んだ事を、呪い主が察する事がある。そんな時、悪夢は夢主をどこかに”隠して”しまう。実際には隠れていないのだが、類に見えないようにしてしまうのだ。ある時など、呪い主が夢主を隠したせいで、類は目の前にいる夢主を悪夢の中で見つけ出せなかった。翌朝、夢で目の前に類が現れたと夢主に言われ、その事実を知ったのだった。
類は少し焦った。
察知されたなら、今回は愚か今後の調査に支障を来す可能性が高いからだ。
類はまず校舎から出る事にし、次に呪い主を探す事にした。
呪い主が類に気付いた場合、高い確率で悪夢に呪い主自身が舞い降りる。これは夢の特性と言うより、人間の本質である。自分が後ろめたい事をしている時、それが誰かの耳に入ればどうにかして隠したくなる。どうするかと言うと、それは実に短絡的だ。
知った者の口を封じるのである。
夢は万能だ。類だけでなく、夢主自身も超人的な力を持つ事も出来る。勿論、限度なくという事ではないが、悪夢の中で類を殺す事くらいなら誰でも出来るだろう。
類は校舎を出て、グラウンドを見下ろした。
先程と、大きく違わない風景。練習中の運動部に、見守るマネージャーやクラスメイトたち。一人ひとりを念入りに眺める。
誰かと目が合えば、ソレが呪い主だ。
二度、三度と一人ひとりを繰り返し見るが、誰とも視線が交わらない。ここではないのか。そう思い、場所を変える。
グラウンドの脇を歩き、体育館へ向かう。重い鉄扉を開けると、中でも生徒たちが練習をしている。バレーボールがだんと跳ね、生徒の声が飛び交う。
この中の人間も、一人ひとりを見るが、誰とも目が合わない。
類は再度グラウンドへ戻り、一か八かと再度校舎へ入った。
階段を上がり、食堂へ向かう。すると先程とは違い、食堂には生徒が溢れ返っていた。
類は中には入らず、出入り口の脇から中の生徒を一人ひとり見る。様子が一変しはしたが、類と目が合う生徒どころか、いると思われた木藤明日花自身がいない。
別の場所か…。
そう思い振り返った時、目の前で女生徒が数名、円になって話し込んでいた。
今まではいなかったのに…と思いつつ、一人ひとり見る。するとその中に、明日花がいた。
(いた…。)
類は明日花を見、夢の内容を思い出す。
視線は明日花の右斜め前から注がれていると言っていた。類が視線だけを動かして、明日花の右前を見ると、廊下の曲がり角に隠れ、確かに誰かがいた。
だが、シルエットだけではっきりとした姿は見えない。
類はそのシルエットに目を凝らす。背は低めで、少しダボついたジャージを身に付けている。
(…あれは…。)
まさかと思い、さらに目を凝らす。
徐々に明確になるシルエット。
それは先程グラウンドで類とぶつかった、あのポニーテールの女生徒だった。
類が一歩踏み出そうとした瞬間、ふっと周りが暗くなった。見回してみると、事務所の中だった。
「目を醒ましたか…。」
明日花が目を醒ましたようだ。何か起きたのか…?
類が明日花に電話をしようと受話器に手をかけると、電話が鳴った。
「はい。」
『…南正覚さんですか…?』
急いで取ると、明日花だった。
「木藤さん?」
『はい。』
「夢の途中で、目を醒ましましたね。何かありました?」
『いえ、あの、夢の中で、南正覚さんを見つけて、あっと思ったら目が覚めて…。今までは、怖くて目が開けられなかったんですけど、今回は目を開けても何もなくて。鏡にも何も…。』
少し早口に、明日花が言った。
類が、「ふむ」と溜め息を吐いた。
「…多分、今夜はもう大丈夫かと…。」
言いながら、時計を見た。まだ夜中の三時だ。窓の外も暗い。
『このまま、また寝ても大丈夫でしょうか…?』
「恐らくは。言い切れませんけどね…。」
類の保険の一言を聞いて尚、明日花は電話口で安心したように息を吐いた。
『じゃあ…、このまま寝ます。
有難うございます。』
「いえ。それじゃ…。」
と電話を切りかけて、「あ、ちょっと。」と明日花を呼び止めた。
『はい?』
「明日、事務所に来られますか? ちょっと聞きたい事が。」
『…明日…。はい。明日はバイトもないので。
何時に行けばいいですか?』
「うん、そうだな…。」
類は数秒思案して、「では、午後五時ごろに、こちらに来てください。」と言った。
『わかりました。では…。』
「おやすみなさい。」
挨拶を済ませ、電話を切る。
夢に出た、あのポニーテールの少女。夜が明けたら、彼女の調査をしなければならない。
身元調査だけなら、数時間あれば足りる自身があった。
類は一息吐いて、すっかり冷めたコーヒーを一口飲み込むと、再び受話器を取った。
手早く番号を押し、受話器を耳に当てる。
プルルル…。
数回呼び鈴が鳴った後、ガチャリと相手が取った。受話器から、どすの利いた声が聞こえる。
『こんな夜中に誰だ…?』
明らかに不機嫌な電話相手は、やや巻き舌気味に電話口で呟いた。
「メイ、オレだ。」
寝起きですっかり素に戻っている同居人のオカマは、類の声を聞くなりころっと声を変えた。
『なによ、ルイ。夜中に…。』
「なによって、そこオレんちだし。
それより、仕事どうしたんだ?」
この時間、メイは店にいる筈だった。自宅の留守電にいれるために電話をしたのに、その相手が出てしまったので、実は類も驚いていたのである。
『頭痛くって。バーテンに任せて帰って来ちゃったの。で、何?』
「ああ。H大学の生徒を一人調べて欲しい。」
『H大学の…? ああ、アスカちゃんの、ね。
どんな子?』
空気を読む事だけは手馴れているオカマは、話の流れを手早く汲んで、電話の向こうでゴソゴソ物音を立てた。恐らくメモ帳を探しているのだろう。
「背は小さめ。学年はわからない。ジャージで活動している時間がある。丸顔、黒い髪。ポニーテールで、少し目は大きめ…。」
明日花の夢の中で見た姿を思い出しながら、丁寧に細かく特徴を挙げて行く。
『フツーの子ね…。』
「ああ。極めてフツーの子だ。」
『見付け易いわ。わかった、やっておくわ。何時まで?』
「午後五時に事務所に来るよう言ってある。」
『五時ね。おっけー。』
眠気も覚めたのか、メイは軽やかに言って電話を切った。
メイを通じて、明日花を紹介した生徒に聞く。恐らく、明日花を良く知る人物であり、明日花自身も良く知る人物だ。だが、何の確証もなく明日花に伝えては、もしもの事もある。
調査をしてからでも遅くはない。彼女が呪い主であったとしても、類の存在を認識したので、少なくとも今夜はこれ以上手を出さないはずだ。