新説・本能寺の変1
歴史上最大の謎に迫りたいと思い以前から調べて書いていました。
書いている途中に出会った人からの大切なアドバイスは僕のライフワークでもあった、この事変の真相に近づけたと感じました。
この事件が語られないのは、今も続いているからです。それがこの事変の深いところだと思います。
今から本能寺の変の事を書きたいと思います。資料も何もかも一般の人しか見れる物のレベルですが、もしタイムマシンがあればこの時代この時に一番行きたいと思うほど真実が知りたいと思っています。したがってこれに以下書きます事は想像が大部分です。読んでも構わないと思う方だけお読み頂いて面白いなぁと思って頂ければ幸いです。
取りあえず伝えで聞く話から、この変の概要から話してみたいと思います。
1582年6月21日(天正10年6月2日)午前4時頃に、この変は起こりました。
信長を含め100人余りの手勢が京都本能寺で殺害され、その後必死の検分にも関わらず信長の遺骸は見つから無かったと言われています。(判別せずに後に僧がお墓を作りました、この後はあちこちに信長の墓は出来ています、生きていたとかは問題では無く、その後の歴史に登場していない事を見ると生きていても、亡くなっていても歴史上の問題は無いのだと思います)
これだけの大事件なのに勝者の史実もしくは勝者の意向に沿った物しか無いので、動機やその後の疑問が解けなくて困っているのか楽しんでいるのか、400年近くたった今も話題に事欠きません。
では誰が犯人か?
この時代は兄弟でも意見が合わなければ殺し合う時代です。斎藤道三(主君の土岐氏を滅ぼす)にしても、この信長にしても肉親(親)さえ滅ぼしてしまうほどです。
僕は明智光秀の気持ちになれば、義に生きて何が悪いと言うと思います。
今から僕が光秀になり口上を皆さんにお聞きいただきたいと思います。
予てより武士の秩序の足利幕府を蔑にし、大阪本願寺は致し方無いにしても、京都王城鎮護の比叡山を焼き打ちし、この国の規範であり神である皇族までを落としめる計画は許し難い。
依って、本日、いまこの時より、この日の出る国の秩序を取り戻そうぞ。
信長の敵は今や日本中にいる、上皇の許しも幕府の依頼も、この光秀に来ておる。
事が終われば、世の秩序を取り戻し、戦の無い国家安寧を計るのが我が使命である。
3日前、愛宕神社で(ときはいまあめがくだしるさつきかな)と、この変の本当の首謀者の使者の前で決意を歌に求められて、この歴史上もっとも面白い策士の舞台が始まりました。
つづく