見えない傷、触れた言葉
「人の痛みが分かる子になりなさい」
お母さんの口癖だった。そんなことを言うようになったのは、お父さんが家からいなくなった頃だろうか。毎日暇さえあればその言葉を呪文のように私に言って聞かせた。
「人の痛みが分かる子になりなさい」
やがてその言葉は呪いとなり、私を締め付けた。
異変は徐々に表れた。
小学1年生の時、とある男子がクラスメイトの女の子に向かって暴言を吐いた。
「お前、死ねよ!」
女の子はその言葉にたまらず座り込んで泣き出した。当然周囲は女の子を庇い、男の子を攻め立てた。私は少し離れた場所からそれを見ていた。
「……っ」
突然鋭い痛みを感じた。反射的に足首を見ると、赤い血が靴下をじわじわ染め上げていた。急いで靴下を脱ぎ出血しているところを確認すると、くるぶし近くに切り傷のようなものがついていた。
それからも異変は続いた。
給食をこぼしてしまった男の子が周囲から馬鹿にされた時、殴られたような頭痛がした。
女の子が自分の陰口を偶然耳にしてしまった時、絞られるような腹痛が止まらなかった。
宿題を忘れた男の子が先生に強い言葉で責められた時、腕に焼けるような痛みが走った。
次第に気が付いた。誰かが言葉で傷つく度、私の体には痛みや傷がつくのだと。
私は、長袖の服を好んで着るようになった。
それから私は誰かが傷つけるような言葉を使うと、すぐに注意するようになった。
「そんな事言ったらダメだよ!」
「どうして相手の気持ちになってあげられないの!」
何度も何度も声を上げた。もう傷つくのは嫌だったから。
だが、状況は悪化した。
「みちるってさ、うざいよね」
「お前、鬱陶しいんだよ」
「何様なの」
気づけば言葉の槍は私自身に向くようになっていた。体に傷が増えていく。どうやら私は、私が言葉で傷ついても体に痛みが出るようだった。
私は心身共に疲弊していった。それからはもう誰にも注意することはなくなった。ただひたすら誰かが言葉で傷つく度、体の痛みを黙って我慢するようになった。
そんな生活を当たり前のものとして受け入れていた小学5年生の時、ある男の子が私たちのクラスに転校生としてやってきた。
その男の子はとびきり強い言葉を使う子だった。
「はい、柊木くん。これプリント」
「……ほら、受け取ったぞ。早く消えろ」
「なあ、転校生。お前ゲームとかやる?」
「黙れ。話しかけんな」
「おい、お前ちょっと生意気すぎだろ」
「誰だてめえ。死ねよ」
時に殴り合いになることも珍しくなかった。あんな強い言葉を毎回言っていれば当然だった。
そして、彼が周囲を言葉で傷つけるたび私の体には痛みが走った。
体のあちこちに切り傷ができた。頭が割れそうな頭痛に保健室で1日過ごしたこともあった。だけど何より、必ず毎回感じる腹痛が苦しかった。
私は我慢の限界が来ていた。このままでは私の体は壊れてしまう。
「柊木くん放課後は図書室にいるらしいよ」
偶然クラスで聞いた情報を頼りにその日の放課後、私は図書室へ来ていた。
気づけば手が震えていた。
しかしそれを押し殺すように、勢いよく扉を開く。
空気中に舞う埃が柔らかな夕日に照らされていた。
放課後の喧騒から切り離された図書室には静けさだけが満ちている。
その中に一人、まるで自身も図書室の一部かのようにして男の子が座っていた。
私は小さく拳を握りしめ、一歩ずつ彼に近づいていく。彼は私の存在など欠片も意識していないようで、一度も顔を上げることなく読書を続けている。
やがて男の子の目の前までやってきた。彼はまだ顔を上げない。
「あの……」
消え入りそうな声で呼びかける。彼はまだ顔を上げてこない。
「あの!」
勇気を出して大きな声を上げる。私の声に僅かに空気が震えた。
「……あんた、誰」
彼は鋭い目つきで私を睨む。その目はまるで敵を見るようだった。怯みそうになる心を必死に抑える。
「……同じクラスの弥生みちる。……あの、えっと、どうして皆にきつい言葉を使うの」
「は? なんだお前」
彼は読んでいた本を勢いよく閉じる。ピンと冷たく張りつめた空気は鋼を思わせた。
「俺がきついこと言って、お前になんか迷惑かかんのか? くそ鬱陶しいな……どっか行けよ!」
言葉が静寂と私を切り裂く。腕と足に鋭い痛みが走る。
「……っ」
「……?」
一瞬顔をゆがめた私に、彼は異常者でも見るような目を向けてくる。
「気色悪いな……。早く消えろよ、死ね」
私の存在に興味を失くしたように、彼は再び本を開いた。
私はお腹にいくつかの切り傷ができたのを感じた。そして視界の端まで響いてくるような激しい頭痛が頭を貫く。
「……ぅぅぅ」
頭を抱えながら、耐え切れずその場に座り込む。
「……おい、どうした」
視界が徐々に白み、霞んでゆく。
「おい!」
意識が遠く、彼方へ零れていく。
「っ! おいちょっと待ってろ!」
プツリと辺りが真っ黒に染まった。
「……あれ」
目を開くと見慣れた天井が目に入る。上半身を起こし周囲を確認する。白いカーテンに囲まれた私はベッドに寝かされていたようだ。
「なんで、保健室」
手探りで海を泳ぐように、曖昧な記憶を辿っていく。
そうだ。私は図書室にいたはずだ。そこであの男の子と話をしようとして、それで……。
唐突にカーテンが開かれる。
「よお」
男の子が目の前に立っていた。
「……お前、急に倒れたから保健医呼んでここに運んだんだよ」
そう言って、男の子は私のベッドの側に置いてある丸椅子に腰を下ろした。
「……ごめん、ありがとう」
「……」
礼を言ったが、彼は何も答えなかった。
「……お前、しょっちゅう倒れるのか」
「え?」
「保健医が『また、この子』って言ってたから」
「あ……、いや、倒れたのはこれが初めてだけど。でも、保健室にはよく来るから……」
「……」
彼はまたしても黙り込んだ。
私は姿勢を正すように体を少し動かす。
「……っ」
忘れていた。頭痛は消えたが、体に切り傷が出来ているのだった。さりげなく確認すると、服に少し血が滲んでいる。
「……」
気づけば、彼がこちらを睨んでいる。そして急に立ち上がると私に近づいてくる。
私は反射的に怯え、布団で身を隠すようにする。
しかし、彼はそんなことお構いなしに布団を剝ぎ取ると、私の服の袖を強引に捲ってきた。
「……お前これ」
「え……」
「この切り傷、もしかして全部……」
「……」
私は驚きで咄嗟に声が出なかった。私は今信じられないものを目にしている。
「……柊木くん、この傷が見えるの?」
「は? 見えるのって……当たり前だろうが」
私は首を振る。
「……この傷、今まで誰も見えなかった」
彼は驚きと恐れが入り混じった目を向けてくる。
「……嘘つけよ。そんなことあるわけねえだろ」
私は繰り返し首を振る。
「……もし、それが本当だとして、なんで俺には見えるんだよ」
私は三度首を振る。
「……分からない」
彼はそれ以上何も聞かず、ただ黙って唇を固く結んでいた。
「……ねぇ」
「あ?」
「……どうして、みんなにきつい言葉を使うの」
私は小さく震える手を握り込み、同じ質問をぶつけた。
ぎゅっと目を閉じて、痛みに耐える用意をする。
けれど、体に痛みは走らなかった。暴言が飛んでくると身構えていた耳がその行き場を失う。
恐る恐る目を開くと、彼は座ったまま頬杖をつくようにしていた。
「……それはお前のその傷と関係があんの?」
「……」
私は何も答えられなかった。
彼はどこか遠いところを見るように視線を宙へ向ける。
「……前いた学校にな」
「いじめられてたやつがいたんだよ」
柊木くんは静かに前いた学校のとある生徒の話を語りだす。
「別にそいつは何かいじめられるようなことをしたわけじゃなかった。ただ、大人しそうな奴だったから。それだけで、いじめっ子の標的になっちまったんだな」
彼は頬杖を解いて、今度は足を組むようにした。
「そいつがどういういじめられ方をしたかは……知らねえけど。そのうちそいつも考えたんだよ。どうしたらいじめられなくなるかってな」
「……それが、他の人を先に言葉で傷つけること?」
「……そいつは大人しい奴だったから、まず言葉で威嚇しようと思ったんだろ。こう虫みたいに」
柊木くんは指でカマキリのようなジェスチャーをしてみせるが、すぐに止めた。
「そしたらよ、喧嘩とかにはなるんだけど、今までみたいないじめはなくなったんだ。……そいつは別に喧嘩したいわけじゃねえけど、いじめられるよりはマシだって思って、それからずっとそのままさ」
それだけ語ると、彼の話は終わりのようだった。
私は黙って今聞いた話を頭で咀嚼した。
……そういえば、柊木くんがきつい言葉でみんなを傷つけるとき、いつもお腹が痛かった。
どうしてだろうってずっと思ってた。
多分その痛みは――
「……柊木くんは言葉が人を傷つけるって分かってるんだね」
彼は一瞬だけ目を伏せた。そして静かに立ち上がる。
「どうなんだろうな、……でもお前の傷は見えるよ」
柊木くんが白いカーテンを開けると、途端に夕日が視界に飛び込んできた。思わず視界を手で塞ぐ。
「……悪かった」
その声はまるで蜃気楼のように、だけど確かに私の傷を慰めた。
「人の痛みが分かる子になりなさい」
母の願いで、私の呪い。
体の痛みは、なくならない。
今日も誰かが誰かを言葉で傷つける。
それでも。
私は人の痛みが分かる。
そして、私の痛みを分かる人がいる。
「人の痛みが分かる子になりなさい」
――その言葉の意味を、私は前より少しだけ知っている。




