黒き目覚め
音葉と光が横たわり、夜は静寂に包まれていた。
温もりを失った身体に、冷たい空気だけが刺さる。
シキはつぶやく。
「弱いな……こんなものか。なんで“あの方たち”は、こんなのをわざわざ殺したがったんだ?」
その言葉は、もはや意識を失った光の耳には届かない――。
光の沈んだ意識の奥底に、ふわりと差し込む声があった。
優しい女性の声だった。
「ごめんね……あなた一人に背負わせて。
でも、お願い。あなたが、世界の“光”になって――」
「……母さん?」
どん、どん、どん……
貫かれ止まっていた心臓が、音を立てて鼓動を始める。
どん、どん、どん、どん、どん!
赤黒いオーラが光の全身を包む。
その肉体は、恐ろしいまでに静かに、しかし確かに“悪魔”へと変貌していった。
筋肉はしなやかに引き締まり、肌は黒く硬質に染まり、
背中にはまだ形を持たぬ“何か”が脈打ち、爪は獣のように伸びる。
そして――双眸が、闇の中で紅蓮に燃えた。
その姿は、“完全体”の悪魔そのもの。
シキの目が見開かれる。
「なんだ……お前……完全に悪魔じゃねぇか……」
静かに立ち上がる光。
その足元の床が、力に反応して微かにひび割れた。
風が巻き起こる。
次の瞬間、光の姿が視界から消える。
「……チッ、どこ行きやがった」
シキが舌打ちした次の瞬間、ズドンッ!!
爆音のような衝撃が背後から鳴り響く。
床が砕け、シキの身体が宙を舞う。
「――がっ……!!?」
床にめり込むように叩きつけられたシキは、目を見開いた。
視えなかった。音もなかった。ただ、一撃が先に来た。
「……早すぎる……!」
悪魔の反応速度をもってしても、光の動きは認識すらできない。
残像どころか、「次」に移る前に「今」が終わっていた。
「チッ……飛んで距離を――!」
翼を広げ、最高速度で上昇する。
だが――その上空にすでに光はいた。
「っ、嘘だろ……!」
顔面を捉えた黒い拳が炸裂する。
空気を裂き、光のオーラが雷のように放電しながら、
シキの体を地面に垂直落下させる。
ドゴォオオオオン!!!
轟音と共に、地面が巨大なクレーターのように陥没した。
煙が立ちこめる中、シキが呻きながら立ち上がる。
「やりやがったな……幻覚を喰らえ!!」
ピィイイイイ――――!!!
空間が歪むような超音波が響き渡る。
一瞬、光の動きが止まったかに見えた。
「幻覚に入ったか……!」
しかし――
「……効かないッ!?」
煙の中から、無言で迫る光。
目には理性も怒りもない。ただ、「殺す」という本能だけが宿っていた。
「クソッ……透明に――!」
シキが透明になる。だが、次の瞬間には腹部を抉られていた。
「……どこを見ている?」
声が、耳元で囁かれたかと思えば、腹から腕を突き抜けている光の姿。
シキは悲鳴を上げ、暴れるように飛びのく。
「強すぎる……なんだよお前、完全に……」
「悪魔、だと?」
低く、凍るような声。
光の体からは黒い瘴気が立ち昇り、髪は風もないのに靡いていた。
その背に見えるのは、黒い「翼」。
紅い瞳でシキを見下ろす光。
崩れた瓦礫の中、シキは呻きながら立ち上がる。
「……チッ、化け物め……」
背に翼、全身を黒い瘴気で包んだ光が、無言でこちらを見据えていた。
そして――光が踏み込み、地面がひび割れる。
その瞬間。
「ッ――!?!?!?」
視界が焼き切れるほどの閃光。
光が瞬間移動に近い速度で目の前に現れ、
仁の漆黒の刀が、シキの左腕を切り飛ばす。
「ぐあああああああああ!!」
痛みによる絶叫。だが容赦はない。
直後、ユキの姿をとった銀の銃が光の左手で瞬時に構えられ――
“氷弾”が空間を裂く。
バキン――!
凍りついた足元ごと、シキの動きを封じる。
「……はっ、足止めか……」
次の瞬間、シキが口を開き――超音波の咆哮を放つ。
キィィィィィィ―――ン!!
地面が波打ち、空間が歪み、光の身体が一瞬硬直する。
「くらえェェ――!」
透明化し、死角から襲いかかるカメレオンの尻尾。
しかし――動いたのは光の足だった。
透明な敵の“気配”を捉え、地面を蹴り、一回転蹴り上げる。
空中に浮かびあがるシキの姿。
その背に――再び銀の銃が突きつけられる。
「終わりだ」
バンッ―――――!!!
至近距離から放たれた氷の銃弾は、シキの頭部を貫き、凍らせる。
空中で硬直したまま落下するシキ。
その身体は砕けるように地面へと叩きつけられた。
静寂。
重く、冷たい空気が満ちる。
光の全身からは湯気のように黒い気が立ち上っている。
紅い瞳が虚空を睨み――そして、ゆっくりと閉じられた。
倒れたシキの骸の前に、光が膝をついた。
全身の黒き魔力が霧のように抜けていく。紅い瞳も、徐々に人間のものへと戻っていく。
そして――
「音葉ッ!!」
横たわる、血に染まった音葉の姿。
胸元から広がる鮮血の赤が、彼女の命の灯がすでに消えていることを告げていた。
「うそだろ……」
声が震える。視界が滲む。
「守るって……俺は……」
震える手が音葉の頬を撫でるが、返事はない。
「……また……失ったのか……」
叫びにも似た嗚咽が、夜に響く。
光は自分の胸を拳で何度も殴る。
「くそっ……俺には……何も……守れない!!!!」
その目に狂気が宿る。
自分の手首に仁の刀を突き立て、深く切り裂く。
ドクンッ……ドクンッ……
滴り落ちる深紅の血。
光は、そのまま音葉の胸に手を当て、自分の血を押し当てるように注ぎ込んだ。
「……いい……何でもいい……俺の血でも、悪魔の力でも……俺の命でも……!」
声が割れ、喉が枯れるまで叫ぶ。
「頼む……音葉を……返してくれ!!!!」
――静寂。
時が止まったような闇の中。
ただ、風の音すら鳴りを潜める空間。
トクン
光の手の下、微かに脈を感じる。
トクン トクン
その胸が、小さく上下する。
「……っ」
音葉のまぶたが、ゆっくりと持ち上がる。
「……光さん……?」
その言葉が、あまりにも優しく――
あまりにも儚く響いた。
光の瞳が、再び涙であふれた。
「音葉……!」
音葉が、微かに微笑んだ。
「……守ってくれて、ありがとう……」
遠くにパトカーと救急車のサイレンが鳴り響いていた。
――誰かが、通報したのだろう。
この惨状を見れば、それも当然だ。
「……俺はここに居られない」
光は、血のついたシャツの裾を握りしめながら立ち上がる。
「待って、光さん……」
まだ横たわる音葉が、微かに手を伸ばす。
だが、その体は思うように動かず、わずかに震えるだけだった。
光はその手にそっと触れ、穏やかに微笑んだ。
「治療を受けるんだ。生きろ、音葉」
「……あなたは……?」
光はその問いに答えなかった。ただ、ゆっくりと背を向ける。
「必ずまた、迎えに行く。……約束だ」
その瞳は、もう涙ではなく、決意で満ちていた。
風が吹き抜ける。
そして――光は、闇に溶けるように、夜の街へと姿を消していった。
その直後、パトカーと救急が駆け込んでくる。
その中に滝もいた。
「音葉!?無事か!?何があったんだ!?」
街の惨状、地面に横たわる彼女、大量の血だまり――。
全てを見て、滝の表情が凍りつく。
だが、音葉はただ、ゆっくりと目を閉じて答えた。
「……なんでもない……」
滝は戸惑いながらも、彼女をそっと抱き起こした。
そのまま、音葉は病院へと搬送された――
胸の奥に、誰にも明かせない“約束”と、“秘密”を抱えながら。
街を覆う冷たい夜風が、コンクリートの肌を撫でていた。
光は廃ビルの屋上にひとり腰を下ろしていた。
目の前に広がるのは、光の届かぬ都市の影――彼の心と同じく、どこまでも深く沈んでいた。
沈黙を破ったのは、背後から響いた静かな声だった。
「……光?」
ユキが光へ声を掛ける。
だが光は答えず、空を見上げて呟いた。
「……俺は、本当の悪魔になってしまったのかもしれない」
手のひらを見る。
そこには、かつて誰かを救いたいと願った“人間の手”ではなく、殺戮の象徴と化した傷跡が刻まれていた。
「この力を……制御しなければ……。でなければ、また誰かを壊してしまう……」
ふと、音葉の顔が脳裏をよぎる。
最後に見た彼女の姿――血に染まり、けれど確かに微かに動いたその瞳。
「……気づいたか?あのとき……音葉の目が、一瞬紅く染まっていた。
あれは――俺と同じ……。
……俺は、彼女を俺と同じ道に引きずり込んだのかもしれない……」
その声には、怒りでも悲しみでもなく、ただ深い“悔恨”がにじんでいた。
すると、次は仁が口を開いた。
「……光。あのシキって悪魔、“あの方たち”って言ってたな。
ありゃどう考えてもただの悪魔じゃねぇ。いくつもの力を持ってた。
……悪魔たちも、何かを始めてる。確実に動いてやがる。
お前は、どうしたいんだ?」
問いかけに、しばらく光は答えなかった。
けれど、ゆっくりと、吐き出すように言葉を紡ぐ。
「……俺は、音葉を守りたい。
普通の人生に、戻してやりたい。
あの子が俺みたいになってしまうなんて……耐えられない」
拳を強く握る。
再び自分の意思で“戦う”と決めた青年の目には、かつての迷いはなかった。
「俺は……俺たちは、この闇に立ち向かわなきゃならない。
その先に何があっても、音葉を人間として生かすために。」
ユキと仁は、黙って頷いた。
主を選んだ式神たちにとって、それは新たな“誓い”の夜だった。
ビルの上に、夜風が吹き抜ける。
かつての日常が壊れたその場所で、阿部光はもう一度、闇に誓った。
――これは、世界の―音葉の未来を守るための戦いだ。
静まり返った夜の東京。
破壊された街を背に、フードを深く被った光が駅へと歩いていた。
「……まずは、京都だ」
ユキと仁は黙っている。
「阿部家。俺の“生まれた家”……陰陽師の総本家。
あの家なら、俺の力や悪魔の動きに関して何か知っているかもしれない。
あるいは……音葉の身体に起きた“異変”の手がかりも」
彼の足取りは迷いなく、しかし心の奥にはかすかに震えるものがあった。
再び“あの家”の名を口にする日が来るとは――。
── 一方その頃、京都。
静謐な空気が漂う古都の一角、阿部家本邸。
陰陽道の流れを汲むその家系は、千年の時を超えて今も続いている。
厳かに調えられた畳の間。
その中心に座するのは、現当主――阿部 天。
鋭い眼光を持つ青年。光とは異なる、氷のようなカリスマと威厳を湛えていた。
天は光の異母兄弟の兄である。
「天様……先日に続き、東京でまた“悪魔の騒動”が発生しました」
「東京支部の者たちは、何をしとるんや」
「申し訳ございません。現在、事態の収拾と一般人への隠蔽工作を進めております。
そして……東京支部からもう一つ報告が……現場に“あの忌み子”がいた、と」
天の目が細められ、静かにその名を口にする。
「……光か」
一瞬、畳を打つ風の音がした。
「忌まわしき混血……父の血と悪魔の血を宿す存在。
……光。私が当主になったからには――容赦せえへん。」
その言葉には、"兄弟"としての情も、過去のぬくもりもなかった。
ただ冷たく、陰陽師の血を正す者としての“誓い”がこもっていた。
── 一方、光は。
深夜の高速バスの車内、眠ることもせず車窓を見つめていた。
東京の灯が遠ざかっていく。
過去を振り切り、新たな真実と向き合うため、少年は生まれた地――京都へ向かう。
その先に、かつて交わることのなかった“兄”との再会が待っているとも知らずに――。