ぎこちない休日
午前十一時、静かな日差しが差し込む光の事務所。
積み上がった書類と、半ば読みかけの専門書の隙間に、来客の気配が差し込んだ。
「こんにちは」
ドアの前に立っていたのは、ラフな私服に身を包んだ音葉だった。
白いブラウスに淡いピンクのカーディガン、柔らかな雰囲気だ。
「……どうした?」
光が目を細めながら訊ねると、音葉は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「えっと……今日は、もしお休みなら……デート、しませんか?」
一瞬、事務所の空気が止まったような気がした。
光は、ぽかんとした顔で彼女を見つめる。
「……デート?」
「はい。……あの、普通に、ちょっと街を歩くとか。ご飯を食べるとか……そういう、やつです」
光はしばらく沈黙したまま、考え込むように視線を落とした。
「……俺、そういうの……したことがない」
音葉は小さく笑った。
「じゃあ、今日は“デートの練習”です」
「練習……?」
「はい。光さんは、普段通り過ごしてください。私がついていきますので」
それはまるで、学校の遠足に付き添う引率の先生のような台詞だったが、音葉の表情にはどこか照れと決意が混ざっていた。
光は少しだけ眉をひそめ、けれど目は柔らかくなっていた。
「……わかった。なら、“いつもの休み”を付き合わせるだけだ」
「はい。喜んで!」
晴れた日差しの下、黒のジャケットと軽装に着替えた光と、柔らかな色合いの服を着た音葉が並んで歩き出す。
微妙な距離を保ちながら、ふたりの一日が始まった――。
光が最初に向かったのは、小さな路地裏の古本屋だった。
軋むような木の音とともにドアを開けると、書の香りと、懐かしい紙の匂いが迎えてくれる。
「いらっしゃ……おお?」
奥から顔を出したのは、年季の入ったエプロンをつけた店主。
「なんだ、お前さんが“二人”で来る日が来るとはなぁ」
「……今日はたまたまだ」
光がそっけなく答えると、店主はニヤニヤと笑った。
「まったく。いつも黙って哲学書の棚に直行して、コーヒー缶片手に30分は立ち読みしてたくせに……ふふ、こりゃ雪でも降るかねぇ」
音葉は思わず笑いをこらえ、光の横顔を見つめる。
「いつもここに来てるんですか?」
「……まぁ。落ち着くからな」
そう言って、光はいつものように“現代思想”の棚へ向かい、気になる背表紙を指先でなぞる。
音葉はというと、少し離れた「児童書」コーナーで立ち止まり、懐かしそうに絵本を手にしていた。
「これ、昔好きだったんです。“ちいさなともだち”」
「……知らないな」
「最後のページに、“ともだちは、すぐそばにいるかもしれない”って書いてあるんです。……なんか、好きで」
音葉の声に、光はふと目を細める。
「……そうか」
静かな時間が流れた。
本を一冊ずつ吟味する光と、それに寄り添うように歩く音葉。
誰にも気を遣わない“孤独な日常”が、“ふたりで歩く時間”に変わっていく。
光は書店を出たあと、いつもの習慣で近くのベーカリーに立ち寄ろうとした。
「あそこの卵サンドが好きなんだ」
「……あの、今日は」
音葉が言いづらそうに、紙袋を掲げた。
「お弁当、作ってきちゃいました」
「……弁当?」
光は少しだけ目を見開く。
「迷ったんですけど……どうせなら、と思って」
「……そうか。じゃあ、今日は弁当にしよう」
ベーカリーの前を素通りし、ふたりは近くの公園へ向かった。
公園のベンチに腰をかけ、広げられた弁当箱には、色とりどりの野菜とふっくらした卵焼き、小ぶりのおにぎりが並んでいた。
「……すごく丁寧だな」
「味は保証しませんけど、栄養バランスだけは考えました!」
光はひとつおにぎりを手に取り、口に運ぶ。
「……うまい」
「ほんとですか?」
「……本当に」
音葉はほっと息を吐き、少しだけ頬を赤らめた。
鳥のさえずりが聞こえ、子どもたちの遊ぶ声が遠くから届く。
光の中に、かつて感じたことのない“穏やかな時間”が広がっていった。
弁当を食べ終えたふたりは、芝生に敷かれた敷物の上でしばらく風を感じていた。
空は少し曇りはじめていたが、音葉の表情は明るかった。
「ごちそうさまでした。……じゃあ、このあとどうしますか?」
「気になる展示があった。……美術館に寄ってもいいか?」
「もちろん!」
光が案内したのは、小さな現代美術館だった。
静かな回廊に、抽象画や写真作品が並ぶ。
白い壁に囲まれた展示室には、訪問者も少なく、空調の音すら心地よく響いた。
音葉は作品を一枚ずつ見ながら、光の隣を歩く。
しかし正直、何が描かれているのか、何を訴えているのか、よくわからない。
「……これ、なんでしょうね。赤と黒と……なんかぐるぐるしてるだけみたいな」
「『衝動の記憶』だ。画家の内面を、色と流れで表してるらしい」
「へぇ……すごいですね、光さん。こういうの、好きなんですね」
「……見るのは、な」
光はそう答えると、少しだけ笑ったような顔を見せた。
音葉は、そんな彼の表情にまたドキッとする。
美術館を出た帰り道――。
突然の夕立がふたりを襲った。
「まじか……」
空は鉛のような色をして、細かい雨粒が勢いよく地面を叩いていた。
光は小さく舌打ちしながら空を見上げた。
「……傘は持っていないな」
音葉はバッグの中をごそごそと探り、一本の折りたたみ傘を取り出した。
「……じゃあ、入ってください。狭いですけど」
「俺は濡れても平気だ」
「だめです。そういうの、無理にカッコつけるの、よくないです」
光は少しだけ驚いたような顔をしたあと、しぶしぶ傘の中へと入った。
小さな傘の下、肩と肩が少しだけ触れ合う。
濡れたアスファルトを踏みしめながら、ふたりは無言のまま歩いた。
その沈黙を、破ったのは音葉だった。
「……光さん、いつも一人なんですか?」
「……そうするようにしてる」
「……そっか」
音葉は少し俯き、けれど決意を込めた声で言った。
「じゃあ、たまには“例外”がいてもいいですか?」
光は、驚いたように彼女の方を見た。
だがすぐに、目を伏せて小さく頷いた。
「……お前は、変な奴だな」
「よく言われます」
ふたりの声が、小さく重なって笑う。
傘の下で、濡れた世界とは切り離されたような空間が、そっと膨らんでいた。
――そのとき、遠くの空に一筋の雷が走った。
けれど、音葉の足取りは軽やかだった。
光もまた、その傘の影に、ほんの少し身を預けていた。
雨も止み夕暮れが濃くなり始めた頃――
光は音葉を自宅近くまで送り届けると、軽く会釈をして踵を返した。
「……今日はありがとうな」
「こちらこそ、素敵な一日でした。また……お願いします」
音葉の声には、ほんのりと名残惜しさが混じっていた。
光は言葉を返さず、ただ静かに頷いて歩き出す。
背を向けたままのその表情を、音葉はそっと見つめていた。
その日の夜――。
事務所に戻った光が扉を閉めると、室内にふわりと霊気が満ちた。
霧のように揺らめく空気の中から、ふたりの式神が現れる。
一人は、長身で鋭い眼光を持つ狼男・仁。
もう一人は、透き通るような肌と冷たい視線を持つ雪女・ユキ。
彼らは、普段は光の霊力に宿る存在だが、必要に応じて顕現する。
「……珍しいな。人間の女と歩いてたな、お前」
仁が腕を組みながら言った。
「しかも傘の下。見てるこっちが照れるぞ」
「べつに……大したことじゃない」
光が顔を背けるようにして答える。
だがユキは一歩、前へ出て言葉をぶつけた。
「……それでも。あの女に、心を許しすぎるのは良くない」
その声音には、ほんの僅かに棘があった。
「ユキ……」
「あなたは、半分“あちら側”。普通の人間と深く交わるべきではない。いずれ、傷つけることになる」
仁が視線を逸らしながら呟く。
「言い方はキツいが……ま、言ってることは正しい」
光は無言のままソファに身を沈めた。
ユキの言葉は、光自身が何度も自問してきたことだった。
(俺は……本当に、彼女と歩いていけるのか)
だが、傘の下で感じた温度。
寄り添うように並んで見た絵画。
手作りの弁当の味。
それらがすべて、光の中で、じんわりと熱を灯していた。
「……わからない」
小さく、誰にも聞こえないほどの声で呟く。
それが“否定”でないことを、ユキも仁も、感じ取っていた。
静寂が室内を包む。
――そのときだった。
事務所の固定電話が、けたたましく鳴り響いた。
光はゆっくりと顔を上げる。
ユキも仁も、音の主に静かに目を向けている。
受話器に伸ばしかけた光の手が、ほんの一瞬、ためらうように止まった。
その胸の奥で、ほんの少しだけ芽生えた、穏やかな感情。
鳴り続ける呼び出し音が、その感情を断ち切る。
光はそっと受話器を取り上げる。
――再び、“あちら側”の闇が、光を引き戻そうとしていた。