沈黙の通学路
東京・足立区――。
午前十時の空は、梅雨の名残を引きずるような鈍い灰色をしていた。
商店街の隅を抜けた先にある寂れた公園。そのベンチに、無精髭の男がひとり、缶コーヒーを片手に座っている。
滝真司。警視庁の刑事であり、光の数少ない協力者だった。
彼は、ベンチの隣に座った黒いシャツの青年にファイルを手渡す。
「……また、か」
光が低く呟く。
滝は苦い顔で缶を一口飲み、話し出した。
「今度は子供だ。ここ2ヶ月で、小学生が4人失踪してる。共通点は、平日の下校中に忽然と姿を消してること。遺体も目撃証言も一切なし」
「……誘拐事件として扱われてるのか?」
「ああ。ただな、遺体が出てないせいで、本庁は“家出か事故”って線も残してる。警察が本気で動くには、“証拠”が足りないんだよ」
滝は悔しげに眉をしかめた。
「けど、俺の予想だが。これは“あちら側”の匂いがする。……光、頼めないか? お前にしか見えないものがあるはずだ」
光は黙って資料に目を通した。
年齢、性別、居住地――どれもバラバラ。だが、唯一共通していたのは、“最後に目撃された場所”だった。
「……全員、通学路の途中で消えてるな。夜でもなく、人目のある時間に。普通の人間なら、そんな強引な真似はできない」
「やっぱり、そうだよな」
滝が身を乗り出す。
光は静かに頷くと、ベンチから立ち上がる。
「次に狙われるとしたら、通学路のどこかだ。……子供たちの動線に入り込む必要があるな」
「教師のフリでもするか?」
「いや……もう少し、悪魔が警戒しない自然な接触がしたい」
そう言って光は資料の中の一つ、地域の小学生剣道クラブの欄に目を止めた。
そこには、“事件が発生した小学校に併設されている課外クラブ”の記載がある。
「……剣道クラブか」
ぽつりと呟く光。
数日後――。
光がその剣道クラブのある体育館を訪れた夕暮れ時。
道着姿の小学生たちが「メーン!」「コテェー!」と元気な掛け声を響かせていた。
その前で指導していたのは、道着に身を包んだ一人の女性。
竹刀を構え、姿勢を正す彼女の動きは凛として美しい。
そして、振り返ったその顔に――光は立ち止まった。
「……音葉」
「……光さん?」
思わぬ再会に、ふたりの視線が交差する。
音葉は驚いた顔を浮かべながら、次の瞬間、ふっと微笑んだ。
「偶然ですね」
「本当に、偶然だな……」
光の心に、わずかに波が立った。
音葉と再び会えた照れ臭さを感じていた。
あの晩のことを思い出すと、光は普通の人間と交流を持たない方がいいのでは、とも考えていた矢先だった。
体育館の端に移動し、指導の区切りがついたのを見計らって、光は声をかけた。
「少し、話せるか?」
音葉は小さく頷くと、子供たちに水分補給を促し、光とともに体育館の隅へと歩いた。
窓の外には茜色の光が差し込み、薄く汗ばんだ音葉の額に淡く影を落としていた。
「少し久しぶりですね……」
「……そうだな」
二人の間に一瞬だけ、懐かしいような空気が流れた。
だが、光はすぐに顔を引き締め、静かに口を開く。
「……最近、この辺りで小学生の連続失踪事件が起きているのは知ってるか?」
音葉の表情がすっと硬くなった。
「はい。聞いています。……学校側からも注意喚起が出ていて、剣道クラブの子たちにも、日が暮れる前に帰るように言っています」
「やはりな……」
光はポケットから滝にもらった資料のコピーを取り出し、音葉にそっと見せた。
「今のところ、被害者は全員、通学路の途中で忽然と姿を消している。共通点は狙われているのが子供ということだけ。警察も動いてはいるが、捜査は難航している」
「……”悪魔”の仕業なんですね?」
音葉のその言葉に、光は少し驚いた顔をした。
「その言葉を、簡単に使うな。だが……おそらくは、そうだ」
彼の声音はどこか苦しげだった。
“悪魔”――人知れず人間社会に紛れ、時折、人を喰らい、壊し、姿を消す異形の存在。
「だから、子供たちに近い場所で、自然に張れる場所を探してたんだ」
光は言いにくそうに視線を外し、ぽつりと呟いた。
「……俺にも、剣の道は多少わかる。ここでアルバイトとして、子供たちに混じっていてもいいか?」
音葉は一瞬、驚いたように目を瞬いた。
「もちろんです!――」
音葉は次の言葉が出てこなかった。
あの晩の恐怖を知っているからだが、彼を放っておけない気持ちも本物だった。
「……ありがとう」
音葉は、しばらくじっと光を見つめた。
その目の奥にあるのは、使命感か、それとも――狂喜か。
「子供たちは、無邪気です。きっと、あなたが何者かなんて関係なく、すぐに懐きますよ」
その言葉に、光はほんの少しだけ微笑んだ。
「そうだといいけどな……」
体育館に戻ると、子供たちはふたたび稽古を始めていた。
「じゃあまず、素振りから始めようか!」
音葉の声に、少年たちの「はいっ!」という元気な返事が重なる。
その中に、剣道の経験者として歩み寄る黒シャツの青年の姿。
彼の目の奥には、静かな闘志と、かすかな希望が揺れていた。
次の“消失”を止めるために、光のアルバイト生活が始まった。
アルバイトを始めて数日が経った。
光は思っていたより早く子供たちに馴染んでいた。竹刀の握り方、足さばき、声の出し方――口数は少ないが教え方は的確で、特に中学年の男子たちに人気だった。
「光先生、面がうまくいきません!」
「じゃあ構えて。……手首を柔らかく。振り下ろすときに力まない」
屈託なく懐いてくる子供たちに、光の表情も少しずつ和らいでいく。
その横には、笑顔を浮かべる音葉の姿があった。
光はふと、そんな彼女に目を向ける。
剣道の指導中は真剣な眼差しで、時に厳しく、でも優しく。子供たちの前では大人としての凛とした態度を崩さない。
だが、ふと見せる笑顔には、年相応の無邪気さが混じっていた。
半分悪魔である化け物の自分が深く人間と関わり合い、本当に許されるのか。
それを考えたとき、胸の奥がどこかざらついた。
だが、それでも。
剣道場の帰り、二人で並んで歩く帰り道は、どこか心地よかった。
ーその夜も、光はひとり、学校近くの通学路に立っていた。
夕暮れから夜にかけて、人通りが途絶える一瞬の“すき間”を狙う異形の存在がいる――それが、彼の予感だった。
民家の明かりがまばらに灯る中、静寂の中に身を置き、風の気配を読む。
その時だった。
チィィ――……。
空気が震えるような、かすかな笛の音が風に乗って届いた。
「……来たか」
その音は、音楽というより“誘導”に近かった。
魔に誘われるように、帰宅中だった小学生のひとりが、ふらふらと角を曲がっていく。
光の目が鋭くなる。
「誘導系の術か……!」
すぐさま光は走り出した。
地を蹴り、住宅の隙間を縫って角を曲がる。
その先――
そこにいたのは、イルカの頭部をした異形の存在。
細長い胴体、濡れたような肌、手には笛、そして紅い双眼。
着ぐるみのような不気味さではなく、まるで水族館の水槽から飛び出してきたような、生々しい“獣”だった。
子供はすでに意識が朦朧としていた。
悪魔が手を伸ばす、その直前――
ズドンッ!
激しい風とともに、悪魔の腕が吹き飛んだ。
「……そこまでだ」
煙の中から現れたのは、黒いシャツの青年。
その手には一振りの刀――狼男・仁。光の式神だ。
『また厄介そうなのを相手にしてるな』
光にしか聞こえない声が、耳の奥に響く。
霊魂の状態では人の目には映らない仁が、戦闘の意思に呼応して刀に具現化されたのだ。
「こいつはどうやら音による感覚支配が得意だ。油断するな、仁」
『応。』
光は足を踏み出す。
イルカの悪魔は切り落とされた腕から黒い体液を滴らせながら、それでも顔は満面の笑顔で笛を構え直す。
「――子供を返してもらおうか」
光の声は冷えきっていた。
風が止み、夜が静まり返る。
イルカの悪魔は、満面の笑みを浮かべながら、手にした笛をふたたび吹き鳴らした。
キィィィ……
その音は、耳ではなく“脳”を直接揺らすような錯覚を引き起こす。直線に伸びていた地面が揺らぎ、風景が歪む。
「――幻術か」
光は即座に目を閉じ、足の感覚だけで敵との距離を測った。
『こいつ、音で空間そのものをいじってやがる』
悪魔を睨みつける仁。
光が右手を上げると、刀に宿っていた仁が一瞬、霊魂の姿へと戻る。次の瞬間、光は左手を掲げて呪符を一閃した。
「破式――“断音符”!」
符が弾け、空間が震えた。耳を覆うような衝撃が一瞬、周囲の音を“無”にした。
「……!」
イルカの悪魔がわずかに怯んだ。その隙を見逃さず、再び仁が刀の姿となって光の手に戻る。
「今だッ!」
ダンッ――!
地を蹴る音と共に、光が一閃。
イルカの悪魔が笛を口に運ぼうとするより早く、刃がその喉元を切り裂いた。
黒い体液が飛び散り、悪魔が後退する。
『まだだ……!』
「ユキ、頼む」
その言葉と同時に、光の背後から冷たい風が吹き上がる。
少女の姿をした霊――雪女・ユキがふわりと現れ、氷の銃へと変化した。
〈了解。〉
冷ややかな声とともに、銃口から氷の弾丸が放たれる。
バシュンッ!
イルカの悪魔が再び笛を吹こうとするその瞬間、口元に命中。
笛が砕け散り、口内が凍りつく。
「これで、お前の武器は終わりだ」
ガクン、と膝をつく悪魔。
光はゆっくりと歩み寄る。
目を伏せたまま、静かに語りかけた。
「……子供を喰ったお前には、救いはない」
刃を構え、そして――
一閃。
静寂の中、悪魔の頭部が地に落ちた。
黒い体液が地面に染み込み、異形の存在はそのまま朽ち果てていった。
しばらくの沈黙。
風が、静かに流れる。
光は剣を納め、背後に佇むユキを一瞥する。
「ありがとう、ユキ」
〈私も仁に負けず大活躍ね〉
『コンビネーションの力だ』
光はふっと笑うと、ぐったりと倒れていた少年を抱き上げた。
「無事で、よかった……」
その表情に、わずかな安心の色が浮かんでいた。
その時、遠くから音葉が駆け寄ってくる足音がした。
「光さんっ――!」
音葉が息を切らせながら駆け寄る。だが、彼女の目が光の顔を見た瞬間、ピタリと止まる。
「……その目……」
紅い。光の瞳が、かすかに“紅く”染まっていた。
あの夜、牛の悪魔を倒したときと同じ――いや、それ以上に深く、冷たい光を宿していた。
音葉は思わず言葉を失う。
だが、光は気づかないふりをして子供を抱きかかえたまま、ただこう呟いた。
「……子供を、助けた。それで十分だ」
音葉は何も言わず、その背を見つめていた。
悪魔を喰らう殺癖――その深淵が、光の中で少しずつ広がっていた。
数日後。
足立区の寂れた公園。あの日と同じベンチに、滝真司が缶コーヒーを片手に座っていた。
その隣に、光が無言で腰を下ろす。
「……終わったか?」
滝がそう尋ねると、光は頷いて答えた。
「悪魔だった。音を使って子供の感覚を操っていた。……もう消した」
「被害者は?」
「……ない。“喰われる前”だった。今回の子は、助けた」
滝は静かに息を吐き、缶コーヒーを一口飲む。
「……お前のおかげで、少なくとも一人は帰ってこれたんだな。ありがとな、光」
「礼はいらない。ただ、次も来る。それだけだ」
滝がわずかに眉をひそめた。
「お前……最近、目が変わってきてる。前よりも、ずっと……深い闇を見てるような気がする」
光は答えなかった。ただ遠くを見つめていた。
しばらく沈黙が続いたのち――
滝がぽつりと、言葉を漏らす。
「……音葉には、感謝してる。あいつがいたから、お前も現場に張れたんだろうしな」
光が少し目を伏せた。
「だが正直……複雑だよ」
「……」
「お前の力を信じてる。だから、妹を預けることには反対はしない。けどな――」
一瞬、滝は言葉を止め、低く続けた。
「……あいつには、“普通の人生”を歩んでほしいとも思ってる」
その言葉に、光は何も返さなかった。ただ静かに立ち上がり、背を向ける。
「……俺には、“普通”は与えられない――」
滝がふっと笑った。
「……いや、もう言うまい。あいつはもう、自分の意志で立ってる。そこに口を挟むのは兄貴のエゴだな」
光は背を向けたままだ。
「……じゃあな。また何かあれば、連絡を」
「ああ。……」
そう呟いた滝の声は、どこか寂しげだった。
滝はそれ以上、何も言わなかった。
公園には蝉の声だけが鳴いていた。
その夜。
剣道クラブの稽古場に、光の姿はなかった。
アルバイトは、辞めた。
子供たちは少し寂しそうにしていたが、音葉は何も言わなかった。
ただ、黙って稽古の号令をかけるだけだった。
「構えて――面!」
その声の裏に、微かに残る余韻を、誰も知らなかった。
光は夜の街を一人歩いていた。
ネオンの灯りがにじむアスファルトを、靴音だけが響いていた。
脳裏に浮かぶのは、音葉の笑顔。剣を振る子供たち。
そして、イルカの悪魔が放っていた“誘いの音”。
あの時、自分の中の“何か”がまた目を覚ました。
――。
「俺は、止まれない」
誰に聞かせるでもなく、光は呟いた。
人を守るためでも、正義のためでもない。
ただ、血の中に刻まれた「殺癖」がそうさせている。
悪魔を見つけ、斬り、滅ぼす――それが、自分の存在理由。
だから、今日も歩き続ける。
終わりのない、狩りの夜を。