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赤いドレスの女

東京・杉並区――。

梅雨明け直後の湿った風が、夕暮れの街をぬるく通り抜ける。

セミの声も鳴り止み、どこか湿気と不穏な空気が混じる黄昏時。


閑静な住宅街にぽつんと佇む、築年数の古い雑居ビルの2階。

くたびれた表札には、手書きのような筆文字でこう書かれている。


「阿部探偵事務所」


中では一人の男が、陽の落ちかけた光を受けて書類を束ねていた。

整然とした机の上には、事件記録、都市伝説の切り抜き、そして除霊具らしき木箱。

黒いシャツの袖をまくり、柔らかな目元にかかる前髪を無造作に指で払う青年――。


青年の名前は阿部あべ ひかる

切れ長の双眸と中性的な顔立ちは、一見すると女性のような儚さを感じさせる。

しかしその目には、年齢に似つかわしくない深い闇と、何かを背負う者の鋭さが宿っていた。


静かな空間に、階段を駆け上がる足音。

ドアの向こうで、軽くノックの音が鳴る。


「開いてる」


返事とほぼ同時に扉が開くと、スーツ姿の男が現れた。

無精髭のある輪郭に、緩く乱れたワイシャツの首元。

その男は、どこか疲れた笑みを浮かべながらファイルを手にしていた。


「やっぱり光、この事件はおかしい。」

光は目線だけで応じる。

「滝か。最近話題の連続変死事件か?」


滝は刑事で、最近このように光を頼ってくる仲になっていた。


滝は黙って手元の資料を差し出す。

光が受け取り、手早く目を走らせた。


「脅威の連続変死事件」


遺体はすべて都内の裏路地や監視カメラの死角で見つかっている。

いずれも遺体は潰されたような見た目だった。


「これは……ただの猟奇事件じゃない。“あいつら”じゃないか?」

滝に尋ねられた光はファイルを閉じ、ゆっくりと目を細める。

「悪魔かな……いや、まだ断言はできない」


滝の背後から、そっともう一人が姿を現す。

足音を忍ばせながらも、戸の影から顔を覗かせたその女性は、どこか気品と切なさをまとっていた。

黒髪を後ろで一つに束ね、薄化粧に整えられた顔立ちは凛としていながら、どこか脆い。

白のブラウスとベージュのカーディガンが、彼女の繊細な空気感を際立たせていた。


「音葉っ、勝手に入るなって」

「ごめんなさい……でもそれよりも」


音葉は一歩前へ出て、光に頭を下げた。

声は震えていたが、その黒い瞳には、確かに強い意志があった。


「光さん、お願いです。この事件……実は私の友達が……被害に遭いました」

一瞬の沈黙。


光は資料を机に戻し、静かに立ち上がる。

「……わかった。まずは調査だ。何かわかればすぐに連絡する」

「……ありがとう。助かる」

と滝は答える。


街灯がひとつ、またひとつと灯る東京の黄昏。

車のクラクションと遠くの駅アナウンスが重なり、東京の“夜”が静かに始まろうとしていた。


調査を始めて数日が経過したある日。

阿部探偵事務所の夜は静かだった。

机の上には、整理された事件資料と防犯映像のキャプチャ。

光は黙々と情報を見返していたが、犯人像は依然としてぼやけたまま。


そのとき、事務所のドアがノックされた。

「どうぞ」


入ってきたのは、滝真司の妹・音葉だった。

白いTシャツにカーディガン、肩にかけたショルダーバッグが小さく揺れていた。


「こんばんは、遅くにすみません」

「……また何か?」


光がそう尋ねると、音葉は頷き、静かに腰を下ろした。

彼女の顔には、不安と決意が同居していた。


「調査の進み具合が気になって……」


光は目線を伏せて、一枚の資料を取り出した。

そこには、潰れたような遺体の写真と、その周囲の環境を記録したメモが貼られている。


「今のところ、現場はすべて夜の人気のない裏路地。

監視カメラもなく、証言もなし。ただ……一つ共通点がある」


音葉が目を見開いた。


「被害者は全員、“赤いドレス”を着ていた」

「赤い……ドレス?」

光は静かに頷いた。


「そして、ただの猟奇事件じゃない。“悪魔”の可能性がある」

音葉は真剣な目で光を見つめた。

「……悪魔って、どういう存在なんですか?」


光は少し間を置き、口を開いた。


「“悪魔”は、人間を殺すことで快楽を得る存在。

人間でいう“性癖”みたいに、“殺癖さつへき”ってものを持ってる。

例えば――今回みたいに、“赤いドレスを着た女性だけを狙う”とか。

徹底的にこだわるんだ。殺しの“型”に」


音葉の指が、無意識にカーディガンの裾を握り締めた。


「そしてもう一つ。“殺衝動さつしょうどう”。

悪魔が殺したい相手を見つけた時、瞳が紅く光る。

その瞬間から理性はない。話も通じない。ただ、“殺す”ためだけに動く」


重苦しい空気が事務所を包む。

沈黙のあと、音葉がぽつりとつぶやいた。

「……じゃあ、今回の悪魔は、“赤いドレス”に“殺癖”があるんですね」


光は黙って頷いた。


音葉は目を閉じ、一つ深呼吸をした。

そして――ゆっくりと目を開け、言った。


「光さん、お願いがあります。

……私が、“赤いドレス”を着て囮になります!」


光は目を見開いた。

「何を言ってる!無茶だ!」


「私の友達が殺されました。見てるだけなんてできません。

私が赤いドレスを着て現れれば、あの悪魔はきっと……」


「だからって命をかける理由にはならない」


「……誰かがやらなきゃ。だったら、私がやります」


その言葉には、迷いがなかった。

光はしばらく黙って彼女を見つめていたが、やがて低く呟いた。


「……わかった。やるなら、俺が全力で守る。

ただし、俺の指示には絶対に従え」

音葉は小さく微笑み、静かに頷いた。


夜の東京が、じわじわと深くなっていく。


東京・練馬区――深夜。

人気のない路地裏。街灯は壊れたまま、建物の影が深い闇を落とす。


一人の少女が歩いていた。

赤いドレスが、夜風にかすかに揺れる。


自ら囮になると申し出た音葉だったが、高鳴る心音と汗ばむ手のひら。

それでも足を止めず、なんとか彼女は歩き続ける。


不意に、後方で物音がした。


「……!」

振り返ると、暗がりに“何か”が立っていた。

その姿は牛の頭、巨大な体躯、ずんぐりとした脚。そして紅く光る双眼――


音葉の口から息が漏れる。

その瞬間、悪魔が襲いかかった。


ドンッ――と地面が震えた瞬間。

音葉の前に、誰かが立ちはだかっていた。


「よくやった。あとは任せろ」


黒いシャツの青年。

光が、音葉をかばうように立っていた。


悪魔が再び吠え、腕を振り上げる。


「……来い、仁」

静かに囁かれたその言葉と共に、光の背中に赤い霧が立ちのぼる。

その霧はやがて、一本の漆黒の刀となり、光の右手へと収まった。


――じん

光の式神である狼男。

普段は霊魂状態で光の周囲に漂い、戦闘時のみ武具へと具現化する。


悪魔の拳が振り下ろされる。

しかし、仁の刃がそれを迎え撃つ。


激突の一瞬――

火花と血しぶきが闇を裂いた。


悪魔の腕が切り裂かれ、悲鳴が上がる。


「……ユキ」

光が左手を差し出すと、今度は冷気が集まり、銀色の銃が現れた。


氷の銃――《ユキ》。

光の式神である“雪女”。

今は光の第二の式神として、凍てつく力を宿す銃へと姿を変えている。


引き金が引かれる。


鋭い銃声と共に、氷の弾丸が発射され、悪魔の胸を撃ち抜く。


悪魔がのたうち回る。

凍り始めた体を砕こうと、四肢をバタつかせるが――


「……これで最後だ」

光が、ゆっくりと歩み寄る。


その目が――赤く、紅蓮のように染まっていることに、音葉は気づいた。


(え……?)


ぞくりと背筋が震えた。

それは“怒り”でも“正義”でもない。

まるで、快楽に身を委ねるような瞳――


彼は、今まさに“殺す”ことを楽しんでいるように見えた。


「終わりだ」

静かな声と共に、仁の刃が一閃。


牛の悪魔は苦しむ間もなく、氷の霧と共に崩れ落ちた。

……辺りに静寂が戻る。


光は刀を手放し、背後に現れた仁の霊魂が静かに霧散していく。

氷の銃・ユキもまた、光の左手からふわりと消えていった。


音葉は震える膝で立ち上がろうとする。

光が、何気ない顔で手を差し出す。


「君が囮になってくれなければ、倒せなかった。……ありがとう」

その言葉は嘘じゃない。けれど――


(あの目……あれは、一体……)


音葉の心に、小さな疑問が灯った。

彼にはもっと深い“何か”があるのではないか――


彼女の目が、光をじっと見つめていた。


東京・杉並区――阿部探偵事務所。

昨夜の激闘から一夜が明け、事務所には静かな空気が漂っていた。

カーテンの隙間から朝の光が差し込み、積まれた資料や除霊具がほのかに照らされる。


光はソファに腰を下ろし、黙ってカップを傾けていた。

その向かいに、音葉が座っている。表情は穏やかだったが、指先は落ち着きなくカップの縁をなぞっていた。


しばしの沈黙。音葉が、恐る恐る口を開いた。

「……昨日、最後に見たあなたの目。あれ、やっぱり……普通じゃなかった」


光は目を伏せたまま、静かに答えた。

「“紅く光っていた”だろう」


音葉はこくりと頷いた。

心臓の鼓動が、まだどこか乱れている。

だが彼女は、怖れていると悟られたくなくて、微笑を装った。


「……あの目は、何?」

光は窓の方へ視線を向け、しばし黙っていた。

そしてぽつりと呟く。


「俺は、普通の人間じゃない。……父が陰陽師で、母は“悪魔”だ」

その言葉に、音葉の手がぴくりと止まった。


「だから、俺には“悪魔の血”が流れてる。人間みたいに感情を持ってるけど、時々、抑えきれなくなる」

「……昨日のあれが?」


光は頷いた。

「“殺衝動”。自分の殺癖が叶うとき目が紅く染まる。俺の場合は、“悪魔を殺す”ときに、それが出る」


音葉はぎゅっとカップを握った。

頭では理解しようとしている。でも――


(この人は……本当に“人間”じゃない)

そう思ってしまった自分を、すぐに打ち消す。


「でも……あなたは、人間の命を守ってくれた。それだけは、本当ですよね?」

光はわずかに目を細めた。

それが肯定なのか、否定なのかはわからない。


重い沈黙が落ちた。


音葉は立ち上がりかけて、ふとためらい、その場に座り直した。

そして、少し笑みを浮かべて言った。


「じゃあ……人間の私がここに来るのは全然危険じゃないってことですよね?」


光がゆっくりと彼女の方を見た。

音葉は怖かった。でもそれ以上に、知りたかった。

この人が、どこへ向かうのか。何を背負っているのか――


「……気が向いたら、また話を聞かせてください。私、人の話を聞くの、得意なんです」


そう言って立ち上がると、音葉は玄関の方へ歩き出した。

ドアが閉まり、事務所に再び静寂が戻る。


東京の空は、どこか遠く霞んでいた。

街は今日も、いつも通り始まっている。

だがその裏側では、また新たな“殺癖”が、息を潜めているかもしれない――

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