(七)・最終回
ひと月が過ぎた。
相変わらず学校のバリケードは築かれたままで経済、工学部の主要な学舎は封鎖状態がつづきほとんどの授業が麻痺した。やがて、京浜地区に所在する他大学の三派系過激派の刺激するところとなりK大の闘争拠点には続々と他から集まった中核の白ヘルをかぶった学生が毎日のように出入りするよようになってきた。いよいよ長期化する兆しが不気味にキャンパス内に漂い始めてきていた。
いつものように純は四時半に病院に入ると薄暗い板張りの廊下を通って賄い室へ向かう途中でその入口の傍の流し台の小さな窓が少し開いているのに気づいた。そこから外を眺めると眼の前にすぐこの病院の中庭があってその向こう側にここの寮の建物が見えた。
その庭に咲く淡く色づいたあじさいの花がもうすっかり初夏の訪れを告げ、入ってくる風にその濡れた土の匂いを感じた。遂にまともに授業のない前期が終わるのか。同時に何となく空洞で焦りともつかない不安がよぎるのだった。
六畳一間のその畳の部屋に入るといつものように看護学校から帰ってきたばかりの新人三人が、先に食事をしていて訛りのある東北弁で早口に何かしきりに喋り合っていた。純が入っていくと急に恥ずかしそうに会釈をし、少し声を落としながらそのあともまた話をつづけるのだった。彼女たちは今春、増田と同じ大館から高校を卒業するとこの鳥山病院に見習い看護婦として住み込み、昼間は看護専門学校へ通っていた。もう最近では彼女たちも純の顔を見て増田のことは聞いてこなくなった。
一人で食事しながら純の耳に今、すぐ傍で語り合っている彼女らの弾んだり急に濁ったりあるいは同調したかと思えば三様に分裂したりする賑やかなその音が跳ねていた。そんななかで彼女らがひとつの話題について語っていて、断片的ながらもそこには共通してある特定の人物が登場しているように思えた。しばらくたって、どうやら誰かが離婚したらしいという噂について語っていることが分かった。そして、ポツンと洩れたその阪井さんという人の名前と一方で神崎さんがどうのこうのという言葉が耳に入ってきたとき突然、純は一点を凝視した。瞬間にして彼女たちのそれまでの奏でるような旋律は純の耳から遠くに離れ、今の一言だけが残った。
このとき、決定的にひとつの男女関係の結末が妖しく現実として起こったことに気づいたのである。
何よりも“暗さ”としての衝撃にしか純には写らなかった。あの神崎という薬剤師が流れ者のような存在でこの庶民的な病院のなかでひとり孤立していた姿が蘇り焼き付いた。彼女にはやはり他人に語れない秘密が隠されていたのだ。そしてどうしても読み取れなかったあのどことなく漂っていた彼女の翳りの結末が今こうした形で展開していこうとしている。
食事を終えて着替え室に入り白衣に着替えてその薄暗い廊下に立ったとき、眼の前に脚立が置かれているのに気がついた。見上げると廊下の電球を取り替えている六さんの姿があった。
「球が切れたんですか?」
「しょっちゅうだよ、古いからねぇ…」
暗い天井から下を振り向く六さんの陽気な声が返ってきた。鼻唄混じりに演歌を口づさみながら作業している六さんの背中を見ているとふとこのあいだの光景を思い出した。あのアオキ・フルーツパーラーの窓から見たときの六さんのデート姿が鮮明に甦り、今その鼻唄のなかに軽やかに重複してくるのだった。
「学校はどう?相変わらずかね?」
「ええ、まあ」
よほどこのときあのときのことを冷やかしてやろうかと思ったが何故か言う気がしなかった。ここにも秘かに育もうとしている恋愛があるのかと思いつつ純はそのままその場を離れて薬局に向かおうとした。歩き始めた純のその背後でそれはまるで追うようにして聞こえてきた。
「あ、そうそう。今日は神崎さん休みだよ」
その六さんの声がなぜか一瞬、侘しい音色で背中を一蹴されたように響いた。
その日の帰り今日は佐伯も現われず短大生の阿川憲子も休みだったため純は一人で鳥山病院の門を出た。賑やかなN駅前の本通りを横切りながら餃子でも食べて帰ろうと思っていた。アオキ・フルーツパーラーを通り過ぎ、小さな繁華街に立ち並ぶ飲食店の一角に入り込むとその店は南の外れにあるはずだった。
馴染みの中華料理屋である。いつもは大抵空いているのに何故か今夜は混んでいて、たった一席だけが隅の方で空いていた。し方なくその席に進み、とりあえず落ち着くと餃子を二人前注文した。
周りの喧騒のなかでまだ神崎薬剤師の孤立した“翳り”が頭に残っていた。大学紛争は長期化するに違いないし、増田は闘争をつづける。そして三年目に入った自分自身のこれから先はどうするのか。それはまるで自分のバイトしているあの陰湿な独房にはまり込んでいくような気がした。“陰欝な翳り”と空洞化した毎日から逃れ出たかった。もう過激派のアジ演説など嫌というほど耳に騒めき、聞きたくなかった。こんな店の騒めきの方がよほど説得力があると思った。
注文した餃子が運ばれてきて顔をあげたとき思わず純は遠くの席を見てあっと声を呑んだ。ちょうど純の座っている位置から最も遠くに位置する反対側のカウンターの隅にあの薬剤師の神崎さんと丹前姿の男がいるのを目撃したのである。相手は気づいていない。周囲の騒めきのなかを縫ってただひとり純の眼だけがその方向を射していた。
彼女は笑っていた。酒をつぐその手にこれまで見たことのなかった彼女のしなやかに充満する余裕が溢れ出ていた。それは余裕ではなく喜悦と言ってよかった。そのとき彼女の横顔にはあの翳りは一筋もなかった。あの密室で見られた陰欝な表情が一変していた。彼女を傍において静かに酒を呑む男の眼にもいつか見た重みのある澱みは感じられずその眼鏡の奥には微笑みがあった。そこには己れの破滅を悔いるような懺悔は到底見られず堂々としていた。すっかり落ち着き払った様子でただ動じることのない自分の終局的な賭けに今は酔い痴れるかのように浸っていた。
純にとってはただ驚きだった。騙されているような気がした。しかし、このふたりの中年のあいだには計り知れない妙があるのだとも思った。増田のいう“欺瞞的態度”が否定されていた。あんなに微笑む彼女の姿に狼狽せざるを得ず、何かが間違っているようでそれを否定出来ない恐ろしさと意外な真実が同居していた。まるで今日、六さんが口ずさんでいた男と女の演歌が流れているようだった。それはカウンターの隅でささやかに流れつづけていた。
奇妙な安堵感のなかで純はしばらく浸りつづけた。長期化する紛争に対しても空洞化する自分自身に対しても何となく意外な温もりのなかで一呼吸した自分の息遣いを感じた。
“翳り”が初めて笑った。
とにかくあの年増女の微笑みについて佐伯に語ってやろうと思い、餃子を頬張りながらこの店を出たら彼の下宿へ行くことを決めた。