(六)
その日の帰り、鳥山病院のすぐ角を曲がったところにアオキ・フルーツパーラーという下が果物店で上が喫茶店になっている洒落た建物のなかに純と佐伯と短大生の阿川憲子の三人の姿があった。
このアオキ・フルーツパーラーの前の通りを横切ったところに私鉄のN駅がありその私鉄は横浜の都心を特急で二十五分で結んでいた。N駅はK大の通学駅であったことからよくこの店にはK大の学生らが出入りしていた。 二階の喫茶室からは駅周辺に建ち並ぶ飲み屋やパチンコ屋や本屋などが見下ろせその店に出入りする客の動きや付近の雑踏がよく見えた。
純は佐伯と並んでその短大生と向かい合ってすぐ窓際の席に座っていた。
「ねえ、どうしてこんなバイトをしているの?」
彼女がまるでさっきのつづきをするかのようにに純に問いかけていた。
それにしても気さくな女だ。軽々しく“やるわねK大”とか“我々は闘うぞぉ”とかケタケタ笑うとか。そして先程病院の門を佐伯と一緒に出ようとしたとき、彼女が先を歩いていて、佐伯に肩をこづかれるまま、“お茶でも飲みませんか?”と声をかけると“いいわよ”ときたのである。
「暇だからさ…」
純は答えながらさっき中断してしまった事柄を思い出そうとしていた。だから彼女が尋ねている本来の意味を取り違えていた。傍で佐伯が無関心を装いながらもこの彼女の言っている意味を読み取り、「若い女の子のいる職場専門でね、彼の場合」と茶化した。彼女はまたケタケタと笑った。辺りに客は少なくただ手持ち無沙汰に隅の方でしゃべり合っていた従業員だけが顔をあげてこちらを振り返った。
「すぐ近くだし毎日四時間くらいなら手頃だし、それに何といっても飯付きが魅力だよ」
「下宿してるの?どこ?」
「野島町」
「あらそう」
「君の家は?この近所でしょ?」
「あらよく知っているわねぇ。田浦町よ」
屈託のない彼女の明るく弾んだ声は今日の四時間の心地よい疲労感を和ませてくれた。少なくとも彼女はあの病院で半年近く現場実習という名目でバイトをしている。あの神崎という年増薬剤師とはいったいどんな経歴の持ち主なのか。そして増田の勤務ぶりはどうだったのか。例えば過激派の闘士たるべき片鱗を果たしてあの病院内でも見せていたのだろうか。純は彼女に聞いてみようと思っていた。
「増田さんに本当に会ってないの?」
彼女から先にまた同じことを聞かれた。
「会わないね。ここ一週間ちょつと…」
横で佐伯は黙ったままコーヒーをすすりながら自分に聞かれている事柄でないことをわきまえていたのか今度は出しゃばらなかった。勿論、佐伯にしたって増田があのバリケードのなかに閉じ篭もっているだろうことは知っているはずだった。
このとき二人してなぜか増田の行動の真相について不確かな断言を避けたのである。
「でも本当に大変ね。いつまでつづくの?」
「知らないよ。しかし、そのうち機動隊が入るんじゃないの。たちまち封鎖解除だよ」
「一般学生だって黙っていねぇもんな。いい迷惑だよ」
「本当はあなたたち授業がなくて喜んでいるんじゃないの?」
やがて彼女は二人の顔を見比べるようにして悪戯っぽく微笑むのだった。
その二階の喫茶店の窓から外の景色を眺めるとN駅周辺の夜のネオンの隙間を縫って歩く人々の群れや個々の騒めきが電車の走り去ったあと一定の間隔をあけるようにして純の耳まで届くようであった。その騒めきにはあの七号館の前でがなって
いた過激派のアジ演説のような理屈は微塵にもなく穏やかでささやかで何よりも先ず安らぎが含まれているような気がした。
「神崎さんってあそこに長くから居る人?」
純はさり気ないふりをして切り出してみた。恐らくは独身で何か複雑な過去を持っていてそしてあの丹前姿の中年男と何か関係がありそうな気がした。
「あんまりよくは知らないんだけど昔は東京やずっと前には関西にも居たことがあるって聞いたわ」
彼女は訝しそうに純の聞いている意味を探ろうとしていたが、やがてその核心の部分に答えるかのように、
「どうもあのひと、今一人みたいよ。いろいろあったんじゃない。もっとも今もいろいろあるようだけど…」
「ほら、よく来てるでしょ?男のひとが」
「えっ?」
純の脳裏にまさしく的中したかのような驚きと予感の興奮が走った。
「薬局に来たことない?眼鏡をかけた五十男が。時々、ださい着物を着て」
まさに丹前姿のあの中年男のことだ。その彼女の話す内容はまるで純のその固執
する好奇心を読み取るかのように次から次と喋りつづけるのだった。
「病院中みんな知ってるわよ。増田さんから聞かなかった?もともとあの人も鳥山病院に通っていた患者さんで阪井さんって言うんだけど、呑み助けで肝臓いかれてんのよ。どこでどうなったんだか知らないけど、よくあの薬局に入り込むようになって…。私もいつか二人が話をしているのを見たことがあるわ」
純はあのとき眼に写った男の印象を呼び起こしていた。言われてみれば確かにあの眼は単なる身内とか知り合いを捜している眼ではなかった。それは間違いなく幾度となく繰り返してきた逢瀬の相手を捉えようとする光陰が部屋のなかを貫いたに違いなかった。
「しかしまあ、阪井さんっていう人もあれで昔は大学教授だか何だかやってたっていうんだから…」
彼女の饒舌は止まるところを知らなかった。
これで何となく分かるような気がしてくるのだった。あの独房にも似た薬局内に漂う静謐でいて陰気に澱んでいた部屋の精の匂いが。あれは彼女とその部屋に出入りしたその関係者の持つ複雑な人間関係の邂逅のシミが妖しく漂っていたのかもしれない。
増田の左翼思想の砦もあの女とはどうやら無関係だと悟った。
そのうち、何気なく窓の外に眼をやった彼女があっと小さく叫んだ。
「六さんが歩いてる。まあ、あの娘とデートだわ」
つられて純もその方向に眼を走らせた。
「六さんもよくやるわねえ。この間まで里見さんに熱あげてたくせに」
N駅前の本通りをその彼女と肩を並べて歩く六さんの姿が確かに見えた。
やはり今日、病院に六さんの姿が見えなかったはずだと気づくと同時にその一緒に歩いていた娘にも見覚えがあった。
一番最初の日、確か鳥山病院の玄関で見かけたあの看護婦だと思った。