(五)
いつも午後八時半を回ると患者の数は減り病院全体が静かになってくる。そんな時間になるとたまにすぐ隣の当直室で大概、くだをまいているここの運転手の六さんが暇をもてあまして薬局を覗きに来るのだがどういうわけか今日は姿を見せない。それにいつもは彼の大きな声がその廊下に流れているはずなのに今夜は一度もその声を聞かない。
「今日は六さん休みですか?」
純は何気なく彼女に尋ねてみた。先程からの話題を変えたいひとつの工作でもあった。
「出てるはずよ。どこかその辺をうろついているのよきっと」
女はそう言いながら時計に眼をやり、やがて椅子から立ち上がった。「さあ、もうあと少しね」という声が女の口から洩れると純は内心ほっとするとともにこれで先程の話題が途切れたことを確認するのであった。
診察室には本日最後の患者がまだ入っているらしくその終わりを告げる処方箋のカルテがこの薬局になかなか廻って来なかった。受付けの里見嬢がいつも最後の患者であることの合図を薬局に告げに来てくれるのだが、今日はその合図を貰ってからかなりの時間が経過していることになる。
「今日は例のお友達は?」
突然、女は妙なことを言った。お友達とはきっと佐伯のことを指しているのだ。
純がここでバイトをし始めてから確かに終わる頃になると佐伯が病院にやって来ていて純のバイトの上がりを待っていたのである。おかげで彼が患者でもないのに待合室で待っているものだから受付けの里見嬢を始めここの看護婦のほとんどが佐伯のことを知っていた。
佐伯とは一年の時から同じクラスでこの病院のバイトをやる前まではよく一日だけのバイトに一緒に行ったりしていた。この春、ゼミはそれぞれ分かれたが彼は最初の二年間のいわば純にとっての遊び仲間のひとりで、相変わらず純の下宿に頻繁に出入りしていた。
今夜も来るかもしれない。
「そのうち来るんじゃないですか」
不意をつかれたような感じがして純がそう答えた瞬間だった。どういうわけか“お友達”というこの女の言葉を聞いてこの前の出来事を思い出したのである。
それは確か彼女がトイレか何かこの薬局の部屋から席を立った時のことであった。誰かが薬局の前でなかを覗くようなふりをして行ったり来たりしていることがあった。その五十半ばの中年の眼鏡をかけた男は明らかに彼女に用事があるように思われた。純と眼が合い、なかに彼女が今は居ないと確認するとすごすごと姿を消してしまったのである。その中年男の格好はいまどき珍しい丹前姿でそれが彼の普段着なのか割りと板に付いた着こなしをし、浅黒い顔とその眼鏡の奥に破天荒に生きてきたかのような鋭利でいて沈着な輝きと澱みを感じさせるその男の眼が覗いていた。
言葉を交わしたわけではなかったが直感して彼女の知り合いだと思った。しかし、このことをうっかりして彼女に知らせていなかったのである。今思い出したついでに報告しようと思った。
「あの、この間のことなんですが…」
と言いかけたその時だった。突然、薬局の戸を開ける音が響き、
「はい、これでお仕舞い」
と、看護婦が最後の患者のカルテを持って入ってきたのである。雰囲気が一変して全体に終了時を迎える活気がみなぎり、その話はそれきりになってしまった。
あの中年男はいったいこの女とどういう関係だったのだろう。そして考えれば考えるほどそのあいだに増田が何故かこのなかに加わっていて結びついているような思いさえ湧いてくるのだった。
後片付けの準備に取りかかりながら純はしばらくして彼の背後でまだ薬局の入り口で突っ立ったまま動かないでいるその最後のカルテを運んだ看護婦の影があるのに気づいた。
「あなたなの?増田さんのあとがまって」
若々しくて明るい声だった。彼女は阿川憲子といってこの病院に昨年の暮れあたりから現場実習にきている衛生短大の学生であった。週一、二回やはり純と同じように夕方からこの病院にやってきて四時間ほど働いていた。家がこの病院の近くなので現場実習の単位習得のためこの鳥山病院を選択していた。
「ええ」
顔は一度見ていたし短大生だということも運転手の六さんからすでに聞いていた純はその彼女の屈託のない呼びかけに一瞬戸惑いながら返事をした。
「やるわねぇ、K大。今、ストでしょう?」
彼女の最初の挨拶がまさか自分の大学のストに対する称賛の辞とは思っても見なかった。にこやかに微笑みかけてくる彼女のどこにそんな興味があるのか純にとっては不思議な気もしたが話題的なきっかけとしてはそれで妥当とも思えるのだった。
「ねぇ、増田さんはどうしてるの?“我々は闘うぞぉ”ってやってるの?」
冗談ふうに笑いながら彼女は言った。ここでも増田が出てくるのか。しかも彼女
の場合はより具体的にその彼の行動をイメージしていた。
「彼は雲隠れしているので…。何をやってんだかよく分からない」
と言ってから今度は純の方から聞いてやろうと思った。
「おたくの学校ではやらないんですか?“私たちは闘うぞぉ”って」
「“教授会問題”ですか?」
と言って彼女はアッハハと軽く声を立てて笑った。
「別に“教授会問題”でなくたってさぁ、例えば“原潜、帰れ”だとか“成田支援闘争”だとか…」
純としては彼女自身の学生運動に対する興味の度合いを計りたかった。
「やらないですよぉ。そんなの」
彼女はいつまでも笑いつづけていた。その健康的な若い女性の笑い声はまるでこ
の湿ったような独房に久しくなかったような明るい一条の光を射し込むように響き渡るのだった。
やがて、最後の処方箋に取りかかっていた年増薬剤師の調製が終わりその薬用袋に純は患者の名前を記入するとあとはそれを受け付けに回せばよかった。
「野上さーん、お友達」
反対側の出入り口の戸が開いて隣の受付け室から里見嬢が顔を覗かせた。佐伯の奴がやって来たのだ。
このときもまた、その短大生に対して次に聞こうとしていたことがここで中断されてしまったような恰好になった。