(三)
しばらく薬局の入口で突っ立ったまま純はあのときの増田の様子とそのときの言葉を脳裏に思い浮べていた。
彼女が増田の言っていた年増の薬剤師か。純はさっき直観的に捉えたこの部屋の隅々に漂う薬品の臭いとは別の何となく複雑に漂う人間の翳りのような原因はこの眼の前に立っている女性にあるのではないかと思った。
年格好からいけばもう四十は過ぎていそうにみえるが、長い髪を少女のようにうしろで束ねてヘア・ゴムか何かで質素に留めている様は凡そ奇妙な印象といえた。そしてそれはまるでこの理化学研究室のような密室で厭世的に生活しつづけるひとりの婚期を逸した女性を思い起させたのである。
「で、あなたはどうするの?例の活動に専念するわけ」
「ええ、まあ」
「でも言ってたわよ、婦長さんが。今に田舎の御両親がまさかうちの息子が学生運動をやっているって知ったら大変なことになるわって…」
「そんなことないですよ」
増田は笑いながら答えていた。
増田の出身地は東北の秋田県と青森県の県境にある小さな町で彼の父親は教育者として地元ではかなり有名らしく同じ町の出身であるここの院長や婦長も勿論そのことはよく知っていた。
「僕は僕の信念でやっているわけですから、両親には関係のないことです」
「そう。でも、そのうち院長の耳にも入るわよ」
「でも、明日から僕はもう居ませんから」
薄暗い明かりのともった薬局に二人の笑い声が響き渡った。
こんな古びた小さな個人病院を経営する男があのさっきの熊のような大男で増田としてはこの院長が親父と知り合いの仲である以上何をやるにも都合の悪いことがあるらしい。その薬剤師の言葉は見事に増田の弱みをついていた。
「じゃあ本当に明日から?」
「そうです。明日からはこの彼が来ます」
再び年増の薬剤師の視線が純の方へ流れ、純は又取り繕うようにして会釈した。
しかし、この女の微笑みにはその奥になぜか暗くて複雑な翳りが漂っているような気がしてならなかった。それは彼女が与えた最初の一瞥がいつまでも突き刺さっている感じだった。
増田がなぜあのとき特別な意味があるように躊躇して説明したのか。単なる年増なら別に問題のないことではないか。それとこの薬局の入口に立った瞬間、何となく直観的に感じたこの薬品以外に漂っている暗くて湿ったような雰囲気は一体何なのか。この女だけの棲む独房の匂いだけなのだろうか。
「院長は今、往診よ。婦長にはもう挨拶した?」
女は増田に言い、増田が答えてしゃべっているあいだ、純は黙ったまま薬剤を調合する台の上を眺め続けた。明日からこの年増薬剤師が指示する仕事がこの台の上で始まるのか。
調合台の横には水道管の細長い管と蛇口がその台の縁に付着するように首を出していて小さな洗面台がその傍にくっついていた。部屋の左右にあらゆる薬品の瓶がガラス戸棚のなかに並んでいてその下には様々な薬品罐がこれまたぎっしりと詰まっていた。
広さからいけば、人が五、六人も入ればこの部屋は窮屈なような気がした。独房的で実験室のような印象は依然として消えなかった。そしてその調合台を見ているうちにこの密室のような部屋で増田が二年間この年増女と向かい合って仕事をしていた光景を何となく秘かに想像してみるのだった。
やがて薄暗い廊下に足音が聞こえ、誰かがやって来るような気配がしたときその姿を見る迄もなくそれはこの病院の婦長であろうことが純にも分かった。
「どうも。お世話になりました」
増田は薬局から首を出し、手を上げた。
「あらまあ。本当なの?」
遠くでそんなふうに聞こえてその声の持ち主はしきりに笑みを浮かべながらこちらに近づいて来る。
「あなた、あまり親を心配させるようなことをやっちゃだめよ」
小太りで眼鏡をかけ、頭には少し白髪の混じったその婦長は目を細めながら薬局の前までやって来るといきなり増田に言った。先程薬剤師の女が言っていたとおりになったと純は思いながらこの婦長がやはり増田の故郷の両親を知っていて彼女も又同じように学生運動に熱中する彼の将来のことを心配しているかのような心遣いがその雰囲気のなかに読み取れた。
増田はただ笑っていた。そして手短かに純を紹介すると、そのあとはしばらく婦長を相手に田舎の話題を口にした。そのあいだ、薬剤師の女はただ黙って増田を眺めたり、時々純を見ていたりしていた。
仕事の内容はいったい、いつ説明されるのか明日何時に来てどうすればいいのか考えてみればまだ一度も具体的な話が出てこない。のんきそうに話しつづける増田と婦長のあいだに立って純はふとそのことに気づいていた。
午後は休診になっているのかこの古ぼけた小さな個人病院の静かな廊下にはどこからともなくこの下町界隈の穏やかな生活の物音が静かに響いているような気がした。
実際には増田と婦長の会話の声だけが響くなかでその物音の気配はやがてこの町に訪れる三年目の初夏の物音であることを告げていた。
「時間は五時からですが、四時半頃には来て下さい。そこの角を曲がったところの部屋で食事を摂って、この薬局の裏側の部屋で服を着替えて下さい」
増田とのよもやま話にようやく区切りがついたのか婦長がにこにこしながら純の顔を見て言った。
傍で薬剤師の女も同じようにその説明のあった場所を眼で追って純に示したがやはり婦長のそれとは何かどこかで違っているものを感じた。女には孤独なインテリ女の陰欝でそれでいて妖麗的な深い翳りのあるような皺が確かに刻み込まれているような気がした。
「院長は今、往診に出かけていますがもうすぐ戻ってくると思います」
「田浦町のおじいちゃんだって?」
横から増田がまた口をはさんだ。
「あなたも同じクラス?」
増田を無視して、婦長は純に問いかけた。
「ええ、ゼミで一緒です」
「そう。で、下宿してらっしゃるの?」
「ええ、野島町です」
「じゃあ、近くじゃないの。歩いて来れるしそれに学校にも近いし」
「俺なんかいつも帰ったら夜中よ。それにここに入る前、結構時間調整がいるし授業のない日なんて丸々ロスだよ」
そういえば増田の方は同じこの横浜でもかなり都心に下宿しており、この病院やK大へ通うためには約四十分もかけて私鉄に乗って来なければならなかった。
「仕事は聞いていらっしゃると思いますが…」
と前置きをしてやっと婦長が本題の仕事についての具体的な説明をし始めた。
増田から前もって聞いていた内容とほぼ変わりのないことを確認しながら、純の頭のなかは明日からこの眼の前の薬剤の調合台に向う白衣姿の自分を思い浮べていた。
眼の前のその調合台の上に置かれた灰皿には先程、女の吸っていた煙草の吸い殻が捨てられていてそのフィルターにはうっすらと口紅の色が着いていた。