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  作者: stepano
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(一)


 門のなかに足を踏み入れると敷き詰められた砂利の音が微かに耳に響いた。

 先を歩く増田がちょっと後ろを振り返りながら、何か小声で言ったようだがよく聞き取れなかった。純はそれよりもその病院の前に停まっている黒い車に目を奪われていた。

 車の前でその運転手と看護婦が玄関の方を見つめながら立っていて、病院から出てくる医師を待っていた。

「院長が往診に出かけるようだな」

 増田がその車に気づいて立ち止まった。

「…まあいいか。なかで待つことにしょう」

 再び増田は前へ歩んだ。純は促されるようにして後につづいたが、やがてその車の傍まで近づいたとき、その看護婦の横顔はやはり最初のひらめきどおり美人だと思った。

 運転手がちょうど増田の姿を確認していつものように例の調子のいい陽気な声をあげ、同時にその看護婦もつられてこちらの方へ顔を向けかけたとき、その病院のなかから頭をぼさぼさにしていかにもお洒落には無頓着な熊のような大男が額に汗をにじませながら急ぐようにして出てきた。

「院長だよ」

 増田はそう言いながら、車に乗り込む大男をしばらく眺め、その運転手と看護婦のことは説明せずにその大男の紹介だけを先にするのだった。

 この鳥山病院で少なくとも二年近くもバイトをやってきた増田なら恐らくここの従業員のことなどすべて詳細にわたり知り尽くしているだろうと純は思った。その運転手も看護婦も多分、増田と同じ出身地の東北の人間かも知れない。

 やがて、車のエンジンがかかり、玄関先の砂利を蹴散らせて、院長の乗ったその黒い車は病院の門を出て行った。

「挨拶は帰ってきてからでいいか」

 増田はあきらめたようにつぶやいて、見えなくなった車が残していった白い砂塵のなかでしばらくむせながら腕時計に眼をやり、“急患かな?”としきりに首をかしげた。

 玄関のなかに入ると、静かな院内の空気が純の耳を覆い、消毒液の臭いが鼻をついた。

「あら?どうしたの?」

 受付けでカルテの整理をしていた里見潤子が増田の姿を見てすっとんきょうな声をあげつづいて純に気づいてその大きな口を開けたまま戸惑うようにして黙った。

「院長は今、出て行ったけど急患?」

「そう。田浦町のおじいちゃん…いつもの」

「もう、だめなんじゃないの。この間退院したばっかじゃん」

 靴を脱いで先にあがり、受付け窓のすぐ下に置かれた大きな段ボール箱からスリッパを一足取り出してきて増田は純の足元に差し出した。

「今日はどうしたんですか?」

「ああ、この間言ってたとおり僕のあとがまの人をね、連れて来たんだよ」

 純は出されたいかにも安物そうなビニールのスリッパに履きかえながら、それでもちゃんと“鳥山病院”とネームの入っていることに気づいた。この病院の下町的な雰囲気と先程のあの熊のような院長の風貌とがその文字のなかに表れているような気がした。

「靴はそのままでいいや」

 増田に言われるまま純は脱いだ靴をそのままにし、履きかえたスリッパで黒光りのする床の廊下を歩んだ。

「へぇー。また全学連の方ですか?」

 里見は笑いながら受付け室から出てきて二人の前に現われ、交互に顔を見て冗談を言った。

「ばぁーか。彼はノンポリ。里見さん好み。まじめ、まじめ」

 純は増田のいい加減な紹介ぶりに苦笑いしながら里見に対して軽く会釈をし、「野上です。よろしく」と挨拶した。

「同じ学校ですか?」

「ええ」

 里見は白衣のポケットにボールペンをはさみなおしてもじもじしながら、「里見です」と、言って微笑んだ。

「明日から彼が交替するから」

 増田はもう先へ歩きかけていた。

「婦長は?」

「さぁ、二階の病室じゃないかしら」

 薄暗い廊下の角を曲がると、すぐ右が診察室になっていてその入口には明かりがなかった。その向かいの部屋には煌々と明かりが点いていて誰かなかに居る気配が感じられた。

 増田はその薬局と名札の掛かった部屋の前で足を止めた。

「どうも…」

 増田が軽く頭を下げながらなかに入って行く。ここが明日からバイトする場所だと瞬間的に悟った純は少し緊張した趣きでそのあとにつづいた。

 いきなり院内に漂っていたクレゾールの臭いの他にこの部屋にはさらに濃度の増したよな異様な薬物の臭いが混ざっていた。

 増田が会釈した相手はたったひとりで今しがた点けたばかりの煙草をくわえ椅子に腰をかけて新聞を読んでいた。

「あーら。いらっしゃい」

 四十は過ぎていると思った。白衣姿のその年増薬剤師は顔を上げて入口のふたりを見つめ腰を浮かした。

「お世話になりました」

「新人を連れてきましたので」

 純は増田に紹介されて、その女の前に立つと軽く頭を下げた。

「そう。よろしくね」

 女はちょっと品をつくるようにして微笑むとその年増を隠しきれない目尻に皺を寄せて煙草の煙を吐き出し、「神崎です」と言ってから余裕のある手つきで傍の灰皿へ煙草をもみ消した。

 何となくこの部屋には人間の翳りのような匂いがした。



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