19.それは甘くて苦い時間
※ヴォル視点です。
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果物の絞り汁で煮詰めたコーンポート。
レーネの思い付きにより絞られる果物と煮込まれる果物は入れ替わるので「また食べたい」と思っても二度とは同じ味に出会うことのないそれは、まさに一期一会の味だった。
「今日のこれ、旨いなぁ」
白フィグをグズベリの絞り汁でやわらかく煮られたそれは、舌の上で蕩けるように甘く、レーネが作ってくれた数々の料理の中でも一、二を争う味わいだった。
「先月もらった黒フィグで作った時は、眉間に皺をこーんなに寄せて、口をこーんな風にへの字にしてた癖にぃ」
こーんなこーんなと言いながらレーネが口元に指を当てて押し下げてみせる。
あの日以来、レーネの住む小屋の前には森の動物たちからのお裾分けの品が届けられるようになっていた。
動物たちにとって食べ頃かどうかで運ばれてくる物の中には、人の舌には苦かったり酸っぱかったりといろいろだったし、時には毒まで持っているものもあったが、レーネはひとつひとつ丁寧に仕分けて、薬を作ったり、罠に仕込んだりして上手に活用していた。
「毒を使って捕まえたら、たべられなくなるのでは?」
そう訊ねたこともある。
「食べてすぐなら、内臓を捨てれば大丈夫よ」
なるほど、と思ったので以降口を出すのは止めた。
「そんな変な顔真似してると、その顔になるぞ」というと、レーネがべぇっと舌を出す。
その小さな舌の赤さに、どきりとした。
まだ熟しきっていない黒フィグはエグ味が強くて確かに美味しくはなかったなと記憶にあるが、レーネが真似をしてみせた顔ほど変な表情をしていただろうか。
先ほどの赤い舌を見た時に湧き上がった衝動への気まずさもあって、それを誤魔化すように、ふたたび変顔を真似して燥ぐレーネに付き合った。
「あぁ。あれは確かに酷かった。思い出しただけで口にエグ味が戻ってくるようだ」
うへぇと大袈裟に顔を顰めてみせたヴォルに、レーネが笑った。
春に始まったふたりの生活は、すでに夏を過ぎて、秋の入り口になろうとしていた。
定期的に小屋の前に積まれる果物も、あの日からずっと続いている。
ヴォルの体は、レーネの献身的な看病をもってしても快方に向かっているとはいえるようなものではなかった。
足は辛うじて動くようになった。立つことも、ゆっくりとなら壁を伝ったり杖に縋れば自分ひとりで歩くこともできるようになった。
これは本当にほっとした。
勿論、トイレにひとりで行けるようになったからだ。
それまではレーネに肩を借りてゆっくりと移動して用を済ませ、再びレーネにベッドへと連れ戻して貰っていた。これは本当に辛かった。
言い出すタイミングを見失い、粗相して汚した服やシーツもレーネに洗濯して貰わねばならなかったし、それで汚れた身体を綺麗に拭く事すら自分ではできないのだから。
情けなくて仕方がなかったが、ひとりで動けるようになったことで、そういった失敗もしなくなった。
これに関してはレーネとヴォル双方共に心の底からホッとした。
レーネだって、母親の看病の経験から『そういうものだ』と理解はしていても、妙齢の男性のそういった世話をすることは、(できるだけ表に出さないようにはしていたが)本当に辛くて恥ずかしい事だったと思う。
笑顔が増えたし、どこかぎこちなかったふたりの会話もスムーズになった。
だが、ヴォルの左肩から先はまったく動かないままだった。
紫色をしていた肩や手首の関節は捩じくれたまま固まって、腫れだけが引いた。
変形してしまった肩を無理に動かそうとするだけでヴォルの形のいい額に脂汗が浮かぶ。
それでも、レーネの見ていない隙を見計らって動かす練習をすると夜には腫れあがって、何度も熱を出した。
黒紫色に膨れ上がり皺ひとつなくなってパンパンになる左腕を見る度に、レーネが悲しむ。
「歩く練習をして、手を付いてしまったんだ」
「そう」
嘘だと分かっていて微笑んで頷くレーネの顔を見るのが辛くて、段々と訓練で無理をすることもなくなっていった。
それは、動かすのを諦めた訳ではなかったが、国に帰って大望を成就させることを諦めることではあった。
「諦めた訳じゃない。諦めるしか、なかったんだ」
夕闇に呟いた言葉は、誰に届く事もなく風に乗って消えていった。
動く右手で前髪を掴む。
「なにが、大望だ」
病床の父はどうしているだろうか。奇跡のように持ち直してくれていないだろうか。それとももう間に合わないだろうか。
ぐるぐると頭の中を母国に残した憂いが巡る。
助けてくれた少女以外は、動物たちしかいない森の中では異国の情報など手に入る筈もなく、国元へ助けを求める術すらない。
トイレにひとりで行けるようになったから、それがどうだというのだろう。
左腕に受けた傷の後遺症か、魔法も使えなくなってしまった。
杖を突いて歩くのが精一杯で走ることもできない。
なにもできない自分が国に帰ってどうなるというのか。
「すでに死んだと思われている方が、ずっとマシだ」
国の人間が、何もできなくなってしまったヴォルを見つけて落胆することもないのだから。




