ペンキぬりとお月様
初投稿です。
三題噺「三日月」「間違える」「塗料」を元に書いてみました。
「お月様」は「お月様」でないといけないのか。
カタン、カタン。
今日もいつの間にか辺りは真っ暗になり、まだまだ眠ったままのお月様に木の梯子が掛かります。お天道様が輝いている間はこうやって、お月様は深々と眠りについているのでした。
梯子をゆっくりと登ってくる足音に気がついたお月様がチラリと目を開けると、登ってくるのはまだ擦り切れていない、真新しいツナギを着た少年でした。
少年は高いお月様に登るのが始めてなのか、少し怯えたような表情をしています。お月様も、この少年を見るのは初めてでした。少年の遥か下の方、梯子の根元で、ヒゲをたっぷりと蓄えた、煤けた色のツナギを着たおじさんがハラハラと少年を見上げています。落ちるなよ、ゆっくりな。おじさんが両手で作ったメガホンで叫びます。
カタン、カタン。
おじさんがいつも登る時間の、倍の時間をかけて、少年はようやくお月様に辿り着きました。お月様の顎に腰掛けて、少年はふう、ふう、と息を吐いて、びっしょりとかいた汗を拭います。
「やあ、はじめまして」
「はじめましてお月様。今日から入りました」
少年は汗みづくの顔をにっこりと綻ばせて、お月様に挨拶します。お月様には手がないので、少年は帽子を外して深々とお辞儀をしました。お月様も、やあやあ、どうも。と目を伏せます。
「真っ暗で、足を踏み外すかと思いました。お天道様がお眠りになると、外はこんなに暗くなってしまうんですね」
「その通りさ。僕もまだ寝ぼけているからね、さあ早く、今日もペンキを塗っておくれ」
お月様の言葉に頷くと、少年はツナギの胸のポケットから真っ白なパレットを、お腹のポケットからまだよれていない絵具のチューブを取り出しました。腰に巻いたベルトには、少年のお尻ほどの大きさもあるハケが刺さっています。
少年はパレットに、チューブから押し出した絵具を何色も置いていきます。そして大きなハケをそーっと動かして、覚えたばかりの順番で色を混ぜます。赤色、黄色、黄色、橙色……、梯子の根元で心配そうな顔で見守っている親方が言うには、この順番をちゃあんと守らないと、綺麗な「お月様色」が出来上がらないそうです。青色、緑色、もっかい黄色……、パレットの中にようやく綺麗な色が出来上がった頃には、少年はまた汗をぐっしょりとかいてしまっていました。
「ふう、ふう、出来た、出来た。さあ、塗るぞ、塗るぞ」
出来上がった色があんまり綺麗なもので、少年はわくわくしながらハケにこってりとつけたその色を、さっそくお月様に塗っていきます。顎の先から、頭の天辺まで。お月様がくすぐったがらないように、優しく、優しく。
スルスル、シャッシャ。シャッシャ、スルスル。
少年が色を塗った側から、お月様がピカピカと輝きます。半分しか開いてなかったお月様の目も、しだいにシャッキリとしてきます。一つの塗り残しもなくお月様の全身に色を塗り終えると、足場も見えなかった真っ暗闇が、真下の親方の足の先までしっかりと見えるくらい、明るく染まっていました。
すっかり目を覚ましたお月様は、大きなあくびを一つかくと、嬉しそうに少年に言いました。
「ありがとう、少年。目が覚めたよ。少年の作る色は、なんだか明るくていいねぇ。気に入ったよ」
「本当ですか。それはとっても嬉しいです。ありがとう、お月様」
「おおい、おおい」
地上から、親方が呼んでいます。お月様からひょっこりと顔を出して少年が返事をすると、何故だか親方は梯子の根元で、困ったような顔をしています。
「だめじゃないか、新人。色の順番を間違えたら」
「あれ、僕、間違えてましたか」
「ああ、間違えてる、間違えてる。その色は『お天道さん色』だよ」
えっと驚いて少年がお月様を振り返ると、確かに、ピカピカ光るお月様は、キリッと眉毛を釣り上げて、お昼に見たお天道さんのようです。ほー、とフクロウが鳴くと言うよりは、今にもコケコッコと鶏が鳴き出しそうな色をしています。
「そんな色じゃ眩しすぎて、あそこですやすや寝てる赤ん坊が、今にわんわん泣き出して、せっかく休めたおっかさんが、ホトホト困っちまわぁ。ようやく寝巻きに着替えたおやじさんも、まぁたスーツ着てネクタイ締めんといけなくなっちまう。間違えたのはしょうがない。早く元どおりの色作り直して、お月さん塗り直しなあ」
「でも親方あ」
少年は眉毛をへの字に曲げて、お月様と目を見合わせました。少年はお月様が気に入ったと言ってくれたこの色を、塗り直すのがとても残念に思ったのです。しかし下の方で赤ん坊がふえふえと泣き出す準備を始めています。ゆっくりだった時計の針が、途端にチクタクと駆け足になって、もうけたたましいベルを鳴らそうとしています。少年はすっかり困り果ててしまいました。
「困らせてしまって、ごめんよ少年」
お月様は少年に優しく言いました。キリッとした眉毛が、少年につられてしょぼんと垂れて見えました。
「確かに綺麗な色だったけど、僕には明るすぎたみたいだね。みんなを眠らせるのが、僕の役割なのを忘れてしまっていたよ。大丈夫、間違いだったけど、お天道さんみたいにピカピカ光ることができて、僕は満足さ。さあ少年、もう一度、色を作り直しておくれ。次は間違えちゃ駄目だよ。『お月さん色』じゃないと、僕は駄目なのさ」
お月様はにっこり笑って言いましたが、眉毛はしょぼくれたままでした。
観念して、少年がまた絵具をパレットに絞り出します。赤色、黄色、黄色、橙色……、次は間違えないように。慎重に、慎重に。
その時です。梯子がかかった方とは反対側から、お月様を呼ぶ声が聞こえました。
「おおい、おおい」
親方と同じ男の人の声でしたが、どうも親方の声とは違います。お月様と少年が一緒に首を傾げて、声の方を覗き込みました。
「何かご用ですか」
「ああ、ペンキ塗りさん。お月さんをその色に塗ってくれたのは、君だね」
「はい、そうです」
「ありがとう、ありがとう」
男の人は今にも泣き出しそうな顔で、お月様と少年にお礼を言いました。二人が目をまん丸にしていると、男の人が掌を上に向けて、その上に乗っていたものを見せてくれました。
「これはね、女房がつけていた僕との結婚指輪なんだよ。女房はずっと昔に死んでしまったんだけど、いやはや、なかなか手放すことができなくてね。肌身離さず持っていたんだけど、真っ暗闇に足元を掬われて転んだ拍子に、落としてしまったんだ。これは参ったと地べたに這いつくばって探しても、どうにも見つからない。このまま一生指輪は見つからないんじゃないかと肩を落とした時だ。お月さんがピカーっとお天道さんみたいに光りだしてね。そうすると辺りが綺麗に見渡せるようになって、大事な指輪を見つけ出すことができたんだ。本当に感謝しているよ。ありがとう、お月さん、ペンキ塗りの少年」
そう言うと男の人はまた頭が地面につきそうなくらいお辞儀をして、指輪を握りしめてお月様が明るく照らす道を帰っていきました。
少年はまだまだ目をまん丸にしているお月様を見上げて、少し鼻を啜って言いました。
「じゃあ、色を塗り直しますね。お月様。でも、もうちょっと待ってから。あの男の人がお家のドアをくぐって、パチンと電気が消えたら塗り直しましょう。赤ちゃんには、ごめんけどもうちょっと我慢してもらいましょう」
「そうだね、またあの人が指輪を落っことしたら、大変だものね」
お月様もふふふと笑って、しょぼくれた眉毛をピンと直しました。ピンとあげた眉毛で世界を見渡すと、明るくて、綺麗で、いつも夜空から見る世界とは、まるで別のもののように見えました。
青色、緑色、もっかい黄色……、少年が大きなハケを思いっきり使って、パレットの中で色を混ぜていきます。出来上がったのは、今度こそ綺麗な「お月様色」でした。
「ねえお月様。お天道様が目を覚まされて、明日になって、朝ごはんとお昼ご飯を食べ終えたら、今度は夜ご飯を食べる前に、梯子をかけます。お天道様が眠る前に、お月様にペンキを塗りにきますね」
顎の先から、頭の天辺まで。お月様が「お月様色」に染まっていきます。お昼のようだった世界はゆっくりと落ち着きを取り戻してきて、ホーホーとフクロウが鳴き始めます。ぐずり出しそうだった赤ん坊は、いつの間にかすやすやと寝息を立てています。
お月様は穏やかに輝いてしみじみと言いました。
「ああ、いいね。この色は、『いつもの』色だね」
「そしたら、塗る色は、そうだな、『夕暮れ色』なんてどうでしょう。お月様から一本取って、お月様の一歩手前の色。『夕暮れ色』。みんなが眠ってしまうまでその色を塗っていたら、あの男の人はもう、指輪をきっと落としませんよ」
「そりゃあ、いい。僕も世界を遠くまで見渡せるんだね」
「そうです。じゃあ、今日はここらへんで」
「また明日、少年」
「また明日、お月様」
少年は来た時と同じように帽子を取って、お月様に深々とお辞儀をして、梯子を来た時よりもゆっくりと降りていきました。
カタン、カタン。
お月様にかかった梯子が外されました。
お月様は静かになったいつもの世界を眺めて、綺麗だなあ、と呟きました。
すやすや、ホーホー、しんしん。
「夕暮れ色」の世界も、きっと綺麗なんだろうなあ。
「こりゃまた、明日が楽しみだ」
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
小説を勉強中です。少しでも面白いと思っていただけたら幸いです。
これからゆっくりとですが、三題噺や創作小説を更新していこうと思っています。
是非とも、よろしくお願いいたします。