聞きたかったこと
正史の視点
締め切り前の最後の追い込みを終わらせた。連載の1本が捗らず、締め切りを過ぎてしまったのだ。他の連載はストックがあるのにと思いながら事務所を出る。既に日付が変わり未明の時刻となっている。
自宅に帰り玄関を開けると、見慣れぬ女物の靴があった。
居間に行くとソファーでスーツ姿の彼女が寝ている。仕事の帰りに寄ったのだろう。
彼女の額にキスをして、よく来たねと声をかけた。
彼女が来たなら心が動くものと思っていたが、あのときの高まりは鳴りを潜め、冷めた目で見る自分がいる。伯母さんの言うとおり、一時的な昂りだったのだろうか。
しばらくなにも考えず、紅茶を飲みながら彼女を見ていた。彼女が寝ていて良かったと思う。今の僕には彼女に掛ける言葉がない。もしかすると非難の言葉が出るかもしれない。なぜあのとき僕にサヨナラと言ったのか。・・・いや、僕はその意味に既に気がついている。なぜ僕は会いに行かなかったのだろうか。
気がつけば1時間ほど過ぎていた。彼女が起きる気配はなく、このままだと風邪をひくと思い、彼女を抱きかかえてベッドに運ぶ。普段から鍛えてはいるが、机にかじりつく仕事だ。若いときと比べて筋力の衰退は隠せない。
彼女を寝かせた後、一瞬迷うが、一緒にベッドに入るのは不埒だと思い部屋を出る。
空が白み始め、朝食を作ろうと台所に立つ。白米と煮魚に味噌汁。和食を好んで作る。レシピの通りに自炊しているうちに、何も見ないでも作れるようになった。一人暮らしが長い。
彼女が起きてきた。寝ぼけているのだろう、服が乱れている。
「望美さん、おはよう」
「まーくんおはよう。大きくなったね?」
彼女はソファーに横になるが、すぐに起きた。目をパチクリしている。
「わたし、寝ぼけていたかしら。」
「ああ。なんか幼い感じになっていたよ。」
「そう。」
一緒に朝食を取る。
彼女は少し上の空に見える。
「美味しいわ。あなたが作ったの?」
「ああ。代表作のひとつ、快傑クッキング侍を書くのに勉強したんだ。」
「あれは面白かったわ。連載が終わったときは残念に思ったものよ。」
「見てくれてたんだ。」
彼女は、ハッとした。
「忘れて頂戴。見てないわ。」
「ふふ、もう遅いよ。」
仕方ないという顔をする。
「シャ&イニングとトライアンも読んだわ。少年誌だからお店で買うとき恥ずかしかったけれど。最近は通信販売で買っているの。」
「ありがとう、応援してくれて。」
食事の間は漫画の話しをした。
その後、彼女は考え込んでいる。
「聞きたいことがあるわ。」
「なに?」
「なぜもっと早く来なかったの? なぜ今になったの?」
僕は言葉に詰まる。
5年前。人気作品の連載を持ち、仕事は余裕が無かったが経済的には安定した。あのときは仕事が楽しくて、彼女のことを考えていなかった。
その後、仕事にも余裕が出来て複数の連載を持った。いつでも彼女を迎えに行けた。怖かったのか、諦めていたのか。結果として会いに行かなかった。
僕は、言葉を出せなかった。
「わたしはもう、あなたを好きではないわ。もう遅いの。」