夢に向かって
正史の視点
彼女と別れてから数日後。思い悩む僕に、出版社の担当の稲葉さんが、気晴らしになればと仕事を持ちかけてきた。
事務所から近いレストランに打ち合わせに来ている。担当の稲葉さんのほかにもう一人来ていた。渋い感じの初老の男性。
「坂下といいます。先生に仕事を依頼したくて伺いました。」
稲葉さんが補足する。
「先生に絵の依頼をしたいと、うちに来たんだ。仕事内容から先生の画風では難しいかと思ったんだけど、どうしてもってことなので、連れてきたよ。」
「はい、まあ、まずは話を聞かせてください。」
☆
イラストの仕事を受けた。
稲葉さんの言うとおり、少年漫画の僕の画風では難しいように思う。しかし、坂下さんの熱意が僕に嫌と言わせなかった。
打ち合わせでラフ画での意識合わせをしたが、構図を含めて任せると言われている。新商品のポスターに使う目的で、題目は世界一の笑顔の30代女性。僕の感性で描いてよい。全てお任せで、途中の摺り合わせは無しの完成原稿でよい。報酬は前金で貰った。さらに売れ行き次第でボーナスがあるそうだ。繰り返して指示があった。「君が納得した絵を頼む。」
割の良い仕事と思えた。仕事場でさらさらと描き、色を乗せていく。ある程度描いたところで、これは違うと感じる。任されたんだから適当でもいいのではないかと、邪な思いが過ぎるが、僕は書き続けた。
何枚も何日も描く。納得出来ない。
坂下さんの熱意に当てられたのもあるが、そうではない。
彼女の最後の言葉、姿。
「わたしはもう、あなたを好きではないわ。」
彼女は泣いていた。
なぜ会いに行かなかったのか。描きながら考え、そして気がついた。
僕は彼女を忘れていたんだ。そしてこの前、久しぶりに彼女に会って、懐かしくて、好きだと思い込んだだけ。
自分が許せなかった。
この仕事は納得するまでやる。彼女への想いを絵に重ねていく。
☆
思い出す。
離別の前、大学生のころ。
彼女は仕事をしており、疲れているのに僕に付き合ってくれる。何処かの喫茶店で彼女は微笑む。
「まーくん、好きよ。」
微笑みながら、どこか儚げに僕を見ている。
大学生になった頃、初めての夜。
長いキスのあと、上気した彼女が僕を見つめる。僕が想いを告げる。
「好きだよ、誰よりも君が好きだ。」
彼女がとろけるような笑みを見せる。
高校三年生のころ、受験勉強をしている。
彼女が難しい顔で僕を叱咤する。僕はやってみせると意気込む。答え合わせの後に激励してくれた。
「これなら合格できそうね。だけど油断しないで。毎日続けることが大事よ。明日も頑張ってね。」
彼女が真剣な表情から笑顔を見せる。
絵を描きながら思い出の中を彷徨う。僕の中に確かに存在する漠然とした彼女の笑顔。最高の笑顔はどこかにある。再び思い出の中を彷徨う。
高校二年生のころ。
遊園地での観覧車の中。彼女からキスをされた。僕は突然の出来事に驚き、赤面して彼女を見る。
「頑張ったご褒美よ。」
照れている彼女の横顔が、愛おしいと思った。
高校一年生のとき。
彼女は大学受験を控えているが、毎日のようにうちに来る。彼女と僕は並んで勉強をしている。勉強が終わり、ふたりで伸びをした後に彼女が笑顔を向ける。
「勉強が終わったから、お茶でもしましょ?」
笑顔の彼女を可愛いと思った。
中学ニ年生のとき、家庭教師として彼女がうちに来た。彼女が僕を見て言う。
「まーくん、大きくなったわね。これから一緒に勉強しましょう。」
年上の女性である彼女の微笑みが、思春期の僕には眩しかった。
もっとあるはずだ。僕が忘れていた彼女との思い出。
小学四年生の僕は、絵が上手くならず、諦めようとしていた。
不意に言葉を掛けられ、見ると笑顔の彼女が見ている。僕は心のうちを言う。
「上手くならないんだ。やめようと思ってる」
「夢なのよね? 諦めちゃ駄目、わたしが応援するから!」
彼女の真剣な言葉に僕は驚く。
「わかった、諦めないよ。」
彼女がとびきりの笑顔になり、僕の頭を撫でる。
幼稚園だろうか、幼い頃の僕が地面に絵を書いている。彼女が駆けてくる。
「まーくん、遊ぼ~?・・・何書いてるの?」
「ヒーローだよ。僕はヒーローになる!」
「格好いいね!」
屈託のない笑顔の彼女が、僕に手を伸ばす。
彼女が好きなんだ。心から。
絵を描く。ただひたすらに。
☆
絵が出来上がった。細かいところを直したいとも思ったが、その粗さを含めて完成なんだと思う。何より、完成したと感じたんだ。もう手を入れてはいけない。
カレンダーを見る。気がつけば締切が過ぎていた。
原稿の電子ファイルをメールで坂下さんと稲葉さんに送る。送信のメータが進んでいく。送信が完了して、仕事が終わった。
お気に入りの紅茶を飲み、ひと息つく。体も頭も疲れていたが心の中は澄んでいる。
彼女がいまどうしているのか気になった。あれから1ヶ月も経っている。それから、休載していた連載をどうするかも気になる。稲葉さんに連絡しないと。アシスタントにも迷惑をかけた。忙しくなりそうだ。
だが今回は間違えない。彼女を愛している、彼女に会うんだ。そう決める。
各々に謝罪のメールを送る。イラストの仕事は片づいたがもう少し待っていてほしいと。
みんなからメールがくる。彼らには事情を話してある。彼らのメールは温かかった。背を押された気がした。
彼女へのメールを書こうとするが、何を書いていいのか分からない。書いては消してを繰り返していると、メールの受信音が鳴る。坂下さんからの返信が来た。
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今度の日曜(日付)は自宅にいてくれ。
君の婚約者の望美君を連れて行く。
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え?
目を疑った。
彼女の関係者なのか。坂下さんのことは非開示のため何も知らない。必要がないから聞いていない。
情報がないので悩みようがない。あの熱意の人だ、信用しよう。
坂下さんを信じて待つことにする。
☆
日曜日。
彼女が駆けてきて、僕に抱きついた。僕たちは互いに想いを並べ、気持ちを確かめ合った。その後、伯父さんに報告するために墓前に来ている。僕の隣には望美がいる。
「伯父さん。いや、お義父さん。お待たせしました。僕たち結婚します。」
「お父さん、漫画家の妻になります。私たち幸せになりますから、見守っていてください。」
彼女の腰に腕を回して引き寄せ、ふたり身を寄せ合った。
☆
彼女は、新商品の大ヒットにより忙しく仕事をしている。
テレビ番組での商品紹介にも出演し、それを僕は事務所のテレビで見た。新商品の紹介の後、彼女が登場して商品の詳細を説明する。ポスターとの関連を聞かれて、わたしがモデルです結婚しましたと左手の指輪を見せる。商品のCMが流れる。
僕が食いついて見ていると、アシスタントから結婚おめでとうございますと祝福された。
僕は、休載していた連載を再開して、ストックが無いため事務所に籠もる。感覚を取り戻してきたあたりで、あのとき彼女を待っている時間で書いた読切が雑誌に掲載され、ヒロインの笑顔があのポスターに似ていると噂になった。
紆余曲折の後、ふたりで某新婚番組に出演し、司会者から馴れ初めを聞かれた。
「僕たちは10年間離れていたのですけど、お義父さんがまたふたりを会わせてくれたんです。その後いろいろあって、また別れそうになったのですが、絵を描く依頼があって、描いていて気がついたんです。彼女が好きなんだって。」
「わたしがその絵を見て、彼の絵だと気がついて、彼の思いが伝わってきて。わたしも好きなんだって。」
ポスターが出てくる。よく見ると商品名が無く、何か書かれている。
「これがその時の絵ですね。」
「はい、そうです。ですけど何か書かれていますが、、、」
近づいて見る。彼女も隣にくる。
そこにはみんなからの祝福の言葉が手書きで書かれている。その中で心に惹かれた言葉がある。
「お父さん・・・」
彼女の涙が溢れた。
僕は彼女を抱き寄せ、ありがとうと呟く。
☆
望美が子供と遊んでいる。僕はそれを見ながらネームを書く。
アシスタントは独り立ちし、いま僕は一人で漫画を書いている。連載は二本に減らしたが収入は十分にある。時々だが忙しいときは彼女が手伝ってくれる。
いま書いているのは新連載のネームだ。
スーパーヒーローが活躍する物語。サラリーマンが変身して、悪の怪人を懲らしめる。彼が守るのは幼馴染の女性の笑顔。
ありふれた設定のため、人気を取るのは難しいだろう。それでも僕は挑戦する。幼いころに憧れたヒーロー。僕の夢だ。そして、愛する妻の笑顔を守るために、僕は戦う。