23.本当はわかってる
「ただいま……!」
帰ってきて初めに発したその言葉は、自分でも驚くくらい大きな声だった。
学校にいる時間のほとんどをエルフィリアのことばかりを考えて過ごしていたのだから、それもしかたがないと言えばしかたがない。
とは言え、元はと言えばエルフィリアはクロムがきちんと学校で勉強することを条件に、家で安静にしていると約束した。そして今の状態のクロムがエルフィリアと顔を合わせれば、勘がいいエルフィリアはそのことに気がつくだろう。
もしもろくに勉強が進まなかったことをエルフィリアが知れば、間違いなく彼女は怒る。
そう思うと、一旦落ちついてから会った方がいいかも、と立ち止まりかける。
しかし結局はエルフィリアに会いたいという衝動が勝ってしまった。
自分の部屋に荷物を置くことも後にして、クロムは一直線でエルフィリアの部屋に向かう。
「エルちゃ……ん?」
ノックもせずエルフィリアの部屋に突入したのだが、ベッドにエルフィリアの姿はなかった。
ベッドどころか、部屋のどこにもいない。
他の場所も探してみるが、台所にもいない。お風呂場にもいない。
廊下を歩き回りながらエルフィリアの名前を呼んでみても、反応がない。
「……まさか地下の研究室……?」
約束を破って研究を? いや、クロムも破っていると言えば破っているが……。
どうしてか、約束を破られた怒りや不満を覚えるよりも、困惑の感情の方が強かった。
だってクロムには、今日の朝エルフィリアと話した時、彼女が嘘をついているようにはまったく見えなかった。
無論そんな思い込みが当てにならないことはわかっている。しかしクロムはこれまでずっとエルフィリアのことを気にかけて、一番近くで見続けてきた。
だから彼女が掲げていた悲願の本当の意味にも気がつくことができたのだ。
ぐるぐると回る思考を抱えたまま、その答えを得るために地下室へ向かう。
本当は、クロムはエルフィリアと一緒でなければ地下室に入ることは禁止されていた。
しかしエルフィリアが中にいるのであれば引きずってでもベッドに連れ戻さなくてはいけない。
エルフィリアはたぶん、自分一人で全部抱え込んで無理をするタイプだ。
直接問いただされない限り絶対に弱音は漏らさないし、一度決めたことを曲げることもない。
それは彼女が幼い頃に両親をなくし、ずっと一人で生きてきたゆえに出来上がった性格なのだろう。
誰にも頼れず、誰も頼らず。誰にも助けられず、誰に応援されるはずもなく。
だから誰かに甘えたりだとか、自分の体を大切にするだとか、そういう思考ができなくなってしまっている。
エルフィリアのことを大事に思ってくれる人が、長い間誰もいなかったから。
だからクロムは、せめて自分だけでもエルフィリアを大切にしようと決めたのだ。
昨日、ずっと強がりだった彼女が初めて涙を流した、あの時から。
「エルちゃん、いる……?」
地下の扉をくぐって照明をつけると、以前も見た独特の雰囲気の部屋がクロムを出迎えた。
窓もなく照明も少ないため、若干薄暗い。しかし埃っぽくなどはなく、湿度も適温で、ひんやりと冷たい空気は心地がいい。
エルフィリアいわく、魔法の材料や研究の資料の保存状態をよくするため、この部屋は常に一定の環境を保つような魔法が展開されているらしい。
クロムにはまだ理解の及ばない、複雑な術式ばかりが組み込まれた魔法だ。しかし、自分の研究室を保有する魔法使いは皆これを使いこなしているという。
「……いない……?」
部屋のあちこちを見回ってみるが、どこにもエルフィリアの姿は見当たらなかった。
というかよくよく考えてみれば、照明がついていなかったのだから、いない確率の方が普通に高いだろう。
(本当にどこ行ったんだろう。もしかして出かけてたりとか……?)
さすがにないとは思うけれど……もしもそうだとしたら、帰ってくるまで待ち続けるしかない。
「ん……? これって……?」
ばれないうちに退散しようと出入り口に向かいかけた足は、机の上に置かれていた一枚の紙を見て、止まってしまう。
その紙に書かれているのは、一つの魔法陣だった。
研究室の環境を保つ魔法を複雑だとクロムは感じていた。しかしそれも、この魔法とはまるで比べるべくもない。
環境を保つ魔法が、相対的にただの丸や三角のような図形にしか感じなくなる。それほどまでに入り組んだ、そして無数の術式が組み込まれた、ひどく歪な魔法。
ふらふらとした足取りで近づいて、その紙を手に取って、無意識のうちにクロムはその魔法に見入ってしまっていた。
(なん、だろう……この感覚。見たことなんてない……はずなのに。わたしはこの魔法を、知ってる……?)
エルフィリアに魔法を教えてもらうまで、魔力の使い方だって全然知らなかったのに。
これは、いったいなんなんだろう。
今、エルフィリアが研究している魔法なのだろうか……?
「うぐ……!」
唐突に頭が痛くなって、クロムはその場にしゃがみこんだ。
――やっとの思いでここまで来たのに……なぜ?
――どうしてあなたは『心』を持ったの?
――空っぽになるように育ててきたのに。大切に大切に育ててあげたのに。
――しょせん、魔王の器でしかないあなたが。
紙がひらひらと床に落ち、魔法陣の面が床の方に向いて見えなくなる。
そのままうずくまっていると、少しずつ頭痛が治まってきた。
「今の、は……?」
頭の中に響いた言葉。それに伴う冷徹な瞳が、今もまだ自分を射抜いてきている気がして……。
まだ、ずきずきと痛む。頭じゃなくて、胸の奥が。
(もしかして……エルちゃんに出会うより前の……封印される前の、わたしの記憶……?)
なにもない部屋で、ひとりぼっちで一日を終える。ただそれだけの日常と、魔王という呼び名。
クロムが思い出せていたのは、まだそれだけだ。
だから余計にわからない。
今頭をよぎった言葉が誰のものなのか。自分にとってその人がなんなのか。どうしてこんなにも胸が痛むのか。
「……エルちゃん……」
もう魔法陣を見ようという気にはなれなかった。
紙を床に落としたまま、逃げるようにして地下室を出る。
(本当は……なんとなく、わかってる。わたしの過去とか、正体とか……そういうのが、あんまりよくないものだってこと……)
昔のことなんて別にいい。昔のことは昔のこと。
クロムのその心は、その昔が自分にとってよくないものだと直感的にわかっているゆえのものだった。
クロムは今、幸せだ。
エルフィリアと一緒に過ごしている、この毎日が好きだ。
でも昔のことを思い出してしまえば、今のままではいられなくなってしまうかもしれない。
クロムはそれが怖かった。
今のまま。ずっと幸せなまま。
誰かを愛して、誰かに愛される、そんな幸せな日々をこれからもずっと続けていきたかった。
だから昔のことなんてどうでもいい。
その過去は、エルフィリアと一緒に過ごす未来には必要のないものだ。
もしも思い出すことでエルフィリアとの絆が揺らいでしまうとしたら、そんな過去はいらない。
「エルちゃん……」
今にも泣き出しそうな気持ちになりながら、エルフィリアを必死に探して家の中を歩き回る。
クロムが一度も立ち入ったこともない部屋や、まずエルフィリアがいないだろうという部屋も、くまなく探す。
とにかく今すぐにでも彼女に会いたかった。
クロムはエルフィリアに「おかえり」と、そう言ってもらえるだけで、この胸の痛みがすべて消えてなくなってしまうような気がしていた。
「……? 窓が、空いてる……?」
とある一室。窓が開けっ放しになっている空き部屋を見つけて、クロムは立ち止まった。
……エルフィリアが開けっ放しにしていたのだろうか。
締め忘れ? それとも、なにか理由があって?
もしかすれば外にエルフィリアがいるんじゃないかと思い、クロムは窓に近づく。
「これは……?」
窓枠に挟まっていた一枚の紙を見つけて手に取った。
中になにかが書かれているようだ。
誰かが、エルフィリアが書いたメッセージだろうか。
開けようとした時に、地下室で見た魔法陣のことを思い出してしまって、手が止まった。
(……怖がっちゃダメ。エルちゃんの手がかり、これくらいしかないんだから)
意を決して紙を開く。
その内容はクロムは目を見開いて驚くにはじゅうぶんすぎるほどのものだった。
『お前の家族は預かった。旧魔王城にて待つ。正午までに一人で来い。来なければ人質の命は保証しない』




