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20.エルフィリア

 ずっとずっと昔の話だ。

 顔も、声も、かけてくれたはずのたくさんの言葉さえ。

 長い時間の中でずいぶんと摩耗して、もうほとんど思い出せなくなってしまった。

 だけどこれだけは今もまだ、確かに覚えている。


『おかあさん、見て見てなのです! お花さんが元気になるまほー!』


 それは、エルフィリアが一番初めに魔法を使った時の記憶。

 母が大切に育てていた花が枯れかけてしまっていて、母が悲しそうだったから、どうにかしたいと、そう思って。

 まだなにも、理論も術式も知らなかった。

 だけど必死で魔法について勉強して、失敗を何度も繰り返して、エルフィリアはその魔法を生み出した。

 魔法とは、願いの力だ。

 行使者の願いそのものが魔法となる。

 もっとも、おとぎ話ではそう言い伝えられているというだけで、魔法学上ではありえないと一蹴されているような、そんな眉唾な話だけれど。

 だけど確かにその時だけは、自分の中に生まれた願いが一つの魔法を創り上げたようにエルフィリアは感じていた。


『エルフィリア……? どうして……あなた、どうやって魔法を……?』


『おかあさん、お花さんが病気になっちゃったって泣いてたから! でも、これならもうだいじょーぶなのです! お花さん元気になったのです! これならお花さんも、おかあさんも、笑顔でいられるのです!』


『……ふふ、そう。そうなのね』


 母は朗らかな笑みを浮かべて、エルフィリアの頭を撫でた。


『よく頑張ったね。それから、ありがとう、エルフィリア。とっても綺麗な魔法……お父さんと一緒に冒険者として生活してきた中でいろんな魔法を見てきたけど、あんなに優しい魔法、初めて見たわ』


『やさしい、なのです?』


『ええ。あなたはいずれ、お母さんより……ううん。もしかしたら、賢者様よりも立派な魔法使いになっちゃうかもね』


 自慢の娘を語る母の笑顔が、エルフィリアは好きだった。


(……この時はまだ、私がほとんど魔力を持っていないなんて、お母さんも知らなかったのです)


 エルフィリアが初めて魔法を使ってから、時折自分の魔法使いとしての武勇伝を話していた母。

 だけどエルフィリアが常人の五分の一程度しか魔力を持っていないことがわかると、母はまったく魔法の話をしなくなった。

 それはエルフィリアを見限っただとかなんだとか、別にそういうことじゃなくて、母を純粋に慕っていたエルフィリアにそれ以上余計な憧れを抱かせて、無茶で苦しいだけの道を歩ませたくなかっただけなのだろう。

 父や母が生きていた頃は「健やかに育ってくれればそれでいい」とよく言われていたものだ。


(今の私は……きっと、親不孝者なのです)


 母が望まなかった、無茶で辛くて苦しくて、報われるかもわからない真っ暗闇の道を歩いている。

 ふとした拍子に、思うことがある。

 どうして自分は魔法使いを目指しているのだろう? と。

 母への憧れを捨て切れないからだろうか。それともいつものように意地になって、魔力なんてなくても魔法使いになれると、周りにそう知らしめてやりたいからだろうか。

 そしてそれは本当に……これからの人生のすべてを捧げてでも、達成しなければならない目標なのだろうか。

 いくら努力を重ねたところで、実際に成し遂げられる可能性が零に等しいなんてことは、自分自身が一番よくわかっているはずなのに。


(……私は……)


 意識が浮上する。

 エルフィリアの意識が、夢から醒めていく。






「ん……ここ、は……」


 ぼうっ、とわずかに開いた眼。

 ぼんやりと定まらない視界と、熱っぽい頭。それから、鉛でも纏っているかのように重い体。

 気分は最悪に近い。ただ、近いだけで最悪というわけでもない。

 全身が心地のいい温もりに包まれている。上がりすぎた熱を冷ますかのように、額に少し冷たい感触がある。


(私の部屋の、ベッドなのです……?)


 額に乗っていたタオルに手を添えてみる。

 まだ冷たい。つまり、今は部屋に誰もいないが、ついさきほどまで誰かがここにいて、エルフィリアの看病をしていたということになる。

 そしてこの状況でその誰かの正体なんて、エルフィリアは一人しか思いつかない。

 そんなことを考えていると、扉の向こうからとてとてと、少しだけ急いだような足音が聞こえてくる。

 噂をすれば、いや、噂はしていないけれど。ちょうどその足音の主のことを考えていたところだ。

 扉が開き、エルフィリアの予想通りの人物が姿を現す。


「あ、エルちゃん……! その、起きて大丈夫なの……?」


 駆け足で近寄ってきた少女、クロムがエルフィリアの顔を覗き込む。

 ぼーっと焦点が定まっていないようなエルフィリアを見て、クロムの瞳が不安げに揺れる。


「大丈夫、なのです。迷惑、かけたのです……」


「ぜ、全然大丈夫そうに見えないけど」


「そんなことないのです。ほら、こうして起き上が――へぶっ」


 起き上がろうとしたところでふらりと体が傾き、ベッドから転げ落ちる。


「え、エルちゃん!? 無理しないで……」


 クロムは頭から落ちたエルフィリアを慌てて抱え上げると、ベッドに戻して布団をかけ直した。


「うぐぐ……一生の不覚なのです。屈辱なのです……」


「一生の不覚が陳腐すぎない……? 調子が悪いのに無理して体を動かしちゃダメ」


 クロムにしては珍しく、強く言いつけるような口調、真剣な声音。

 この状況下でどちらが正しいかなんてわかりきっていたので、エルフィリアも反論せずに口を閉じた。

 そんなエルフィリアに満足したのか、クロムはほっと息を吐くと、持ってきていたお皿を思い出したように差し出した。


「これ、野菜のスープ。温かいものを食べるといいって聞いたことあったから」


「スープ……? クロム、料理できたのです?」


「やったことないけど、エルちゃんが料理してるところ、たまに見てたから」


「……不安なのです」


「ごめんなさい……でも、なにも食べないよりは……」


 クロム自身、うまくできたという自信はないのだろう。

 申しわけなさそうに顔を落とし、それでもどうか、なんてエルフィリアを見る。


「食べないなんて一言も言ってないのです。あと、一応お礼を言っとくのですよ」


 そもそも、悪いのは無理をして倒れてしまったエルフィリアの方だ。

 クロムが責任を感じる必要も、ここまでしてくれたのに責められるいわれもない。

 ゆっくりと体を起こしたエルフィリアにクロムは少し心配そうだったが、自分で食べられると一言告げて、エルフィリアはクロムからスープを受け取った。


「ど、どう?」


「……ん。悪くないのです」


 野菜が大きかったり、固かったり、スープがちゃんと出汁を取れてなかったり。他にもいろいろと……。

 本当は結構ひどいありさまだったが、そのすべてを飲み込んで、エルフィリアは食事の手を進めた。

 どことなく隠しているが、クロムの手にはいくらかの包帯が巻かれていた。

 慣れない包丁を使ったせいだろう。ましてやクロムはこれまで生きてきた中で一度も包丁を触ったことがなかったはずだ。

 正しい切り方も知らず、ろくな知識もなく、曲がりなりにも一つの料理を作ったのだから、その苦労は察してあまりある。

 しかし怪我に気づかれることも、病人であるエルフィリアに回復の魔法を使わせることも、クロムは望まないだろう。

 だからエルフィリアはあえて気づかないふりをして、クロムが作ったスープを黙々と口へ運び続けた。


「……なんでずっと見てるのです?」


「え。えっと、他にやることないから?」


「やることないって……そういえば学園を休んだのですよね。私のせいで……悪かったのです」


「ううん。だってエルちゃんも、わたしが倒れちゃったらこうしてくれたはず」


「どうですかね。私がお前を邪険にしてるのは重々承知じゃないのです? 適当に放置するだけかもしれないのです」


「ううん。エルちゃんはそんなことしない。絶対」


「ふん。知った風なことを言うのですよ」


 スープを食べ終わる。クロムはエルフィリアから皿を受け取ると、近くの机の上に置いた。

 エルフィリアは起こしていた体を再びベッドに横たえて、天井を見上げる。

 沈黙。どちらもなにも話さない時間が、数十秒ほど続く。


「で、本当にいつまでいるのです」


「看病しなきゃ」


「それは助かるのですけど、別に常に一緒にいることもないのです。さっきも言ったですけど、他にやることもあるんじゃないのです? 勉強とか」


「む、むぅ」


「まだあんまりわからないのですよね。それなのに学校を休んだのですから、きっちり家で勉強しておいた方がいいのです」


「じゃ、じゃあ、エルちゃんの部屋で勉強する。そうすれば看病と一緒にできる。効率的」


「それじゃあクロムが勉強に集中できそうにないのです。なんでそんなに私と一緒にいたがるのですか。私は一人でも大丈夫なのです」


「だって……エルちゃん、わたしが目を離したら、また無理しそうだから」


 今回エルフィリアが熱を出してしまった要因は、ほとんど睡眠も休憩も取らず毎日のように魔法の研究を続けていたことで間違いない。

 元々、クロムはエルフィリアのことを気にかけていた。その旨をエルフィリアにもそれとなく伝えたりした。それでもエルフィリアが無理をしすぎたから、こうなった。

 そんなエルフィリアをクロムは監視しているのだ。また無理をしないように。


「そんなに心配する必要もないのですよ。さすがにこんな状態でまだ研究しようなんて思わないのです」


「そう、かもしれない。でも、そうじゃないかも……」


「この指の傷を見るのです。今日できた切り傷なのですよ。回復魔法もまともに使えないこんな状態じゃ、するしない以前にそもそもできないのです」


「でも、最近のエルちゃん、いつも焦ったような顔してる。今は確かにおとなしくしてるかもしれないけど、ちょっとでもよくなったらきっと……また一人で無理をする。そんな気がするの」


「こんなことがあったんだからさすがに反省くらいするのです……」


「その反省は、無理をしないってことじゃなくて、自分の体を壊さないようにってこと? 体を壊さないように……でも、限界ぎりぎりまで酷使して。それならやっぱり放っておけない」


「なに言ってるのです? いったいどうしたのですクロム。なんか変なのですよ」


 まるで説教でもするかのようなクロムの口調に、エルフィリアは少し困惑していた。


「変なのはエルちゃんの方。そしてその変は……本当は、初めてエルちゃんのやりたいことを聞いた時から、本当はずっと心のどこかで思ってたこと。だけど、最近は本当にそれが頭の中によく浮かんでくるの」


「はあ? マジでなんのことなのです?」


「……ねぇ、エルちゃんがやろうとしてるそれは、本当にエルちゃんがやりたいことなの……?」


 迷いと不安に揺れる瞳が、エルフィリアを射抜く。

 ……クロムは、エルフィリアがここ数日研究している魔法のことを知らないはずだ。

 だけどどうやら彼女の勘は、エルフィリアが最近していることが悲願である魔力量を増やす方法に関係していることは察しているようだった。


「エルちゃんはずっと、何度も、自分の魔力を増やしたいって言ってた。魔力を増やして、本当の意味での魔法使いになりたいって……でもわたしには、それがエルちゃんの本当の願いだとは思えないの」


「だから、お前はいったいなにを言ってるのですか。魔力を増やすことは子どもの頃からの私の願いなのです。魔力が有り余るくらいあるお前にはわからないだろうですけど」


 思わず喧嘩腰になってしまうが、それもしかたがないことだ。

 魔力があるクロムに、魔力の有無について語られる。持つ者が持たざる者へ。

 それはエルフィリアにとって決して聞き流すことのできない言葉だ。


「違う。願いの一つだってことは、わたしもわかってる。でも、ただなりたいってだけの願いじゃない。そんな気がするの」


「お前にいったい私のなにがわかるって言うのです」


「なんとなく、わかるの。だって、目が覚めて、初めてエルちゃんに会ったあの時から、わたしはずっとエルちゃんを見続けてきたから」


 エルフィリアを見つめるクロムの目線は、まるでなにかを深く懇願しているかのようで。


「魔法のことを話す時、エルちゃんの目はいっつも輝いてる。楽しそうで、嬉しそうで……本当にやりたいことをやってるって感じがした。でも、魔力を増やす方法を探そうと頑張ってる時だけは、いつも違う」


「違うって……」


「渇いて、渇いて……喉が渇いて水を求める時みたい。苦しくてしかたがないのに、その苦しみをどうにかしたいってずっとずっと思ってるのに、その方法がわからなくて……本当は足を止めたいのに、止めたら絶対にその渇きが収まらないことだけはわかってるから、止まることができない。あてもなくさまよい続けて、まるで救いを求めるみたいに……」


「……」


「エルちゃんは魔力を増やしたいって願いのことを、悲願、って言ってた。本当に……その通りだった。成し遂げたいんじゃない。成し遂げなくちゃいけないって……エルちゃんはたぶん、そう思ってる。悲願、渇望……ただの望みじゃなくて、エルちゃんのそれは、渇くほどの望みなんだって……そう思った」


 魔力を増やして、立派な魔法使いになりたいのではない。

 魔力を増やして、立派な魔法使いにならなければならない(・・・・・・・・・・)

 それこそがエルフィリアの本当の望み、願いなのだと、そうクロムはそう言っている。

 だからこその悲願。だからこその、渇望。

 欲しくて欲しくてしかたがない。自分の心を削ってでも、その悲鳴を押し殺してでも。

 どうしても、『それ』が欲しくてしかたがない。


「それがどうしたって言うのです? 願いの形なんて人それぞれなのです。お前に否定されるいわれはないのですよ」


 エルフィリアとて、そんなことは重々承知だ。

 これまでずっとわかっていなかったのは、クロムの方なのだ。

 エルフィリアは最初からそれを理解していた。

 自分のそれが、純粋な憧れや意地だけのものじゃないことなんて。

 この願いが歪んでいることなんて。

 だから悲願だと口にしていたのだ。

 そしてその意味を今、クロムは正しく認識しただけに過ぎない。


「そう……かも。わたしにエルちゃんの願いを否定する権利なんてない、のかも……」


 すべてを覚悟の上でのエルフィリアの返答に、クロムは顔を伏せる。

 そうだ。クロムがエルフィリアに出会う前から、エルフィリアはずっと『それ』を、たった一人で目指してきた。

 誰にも期待されず。誰にも理解されず。誰にも応援などされるはずもなく。

 昔から。そして、今もなお。

 今更クロムがなにを言ったところで、エルフィリアが止まることなどありえない。

 けれど……。


「ねぇ、エルちゃん。どうか、どうか……お願いだから、一つだけ教えてほしいことがあるの」


 自分ではエルフィリアを止められない。

 それは理解した。

 だけどクロムには、まだ一つだけどうしても気になることがあった。

 それだけは聞いておかなければ、クロムは一生納得することができないだろう。


「いい?」


「……言ってみるのです」


 静かに続きを促したエルフィリアに、クロムは問う。


「エルちゃんはどうして、魔法使いになりたいの?」


 どんなことよりも単純で、根本的な問い。

 どうして魔力を増やしたいか。それは、正しい意味での魔法使いになりたいから。

 なら、魔法使いになりたい理由は?

 母への憧れ? 単なる意地?

 違う。どちらも違う。ただそれだけでは、渇望なんてほどのものを抱くなどありえない。

 だとしたらいったい、その理由は……。


「…………」


 少しだけ、躊躇した。

 どうして魔力を増やしたいかではなく、どうして魔法使いになりたいか。

 その質問はエルフィリアにとって、一番されたくないものだったから。

 目をそらそうとした。

 だけどあまりにもまっすぐにクロムが見つめてくるものだから、顔をそむけることができない。

 エルフィリアを見るクロムの瞳の奥には、さまざまな感情が交錯している。

 そしてそのどれもはエルフィリアを気遣うようなものだ。

 その思いが視線を通してエルフィリアの心を叩き、その内側に眠る、一番初めの思いを引きずり出す。


「…………温かかったから、なのですよ」


 気がついた時には、エルフィリアはそれを口にしてしまっていた。

 本当は、言うつもりなんてなかったはずだった。

 だってそれは、自分の心の弱さを認めることと同義だ。

 だけど一度言葉を紡ぎ出してしまったエルフィリアの口は、もう止まることができない。

 要領を得ず、首を傾げているクロムに、エルフィリアは言う。


「ずっと昔、お母さんが大事に育てていた花が病気になって、お母さんから笑顔がなくなったことがあったのです。そしてそれをどうにかしたいと思った私は、花を元気にする魔法を使ったのです」


 さきほども夢で見た、過去の情景。

 あれこそがエルフィリアの原点。魔法使いとしてのエルフィリアの、すべての始まりだった。


「お母さんは、そんな私に……ありがとうって嬉しそうに笑って、頭を撫でてくれたのです」


 嬉しかった。母の役に立てた自分が。母に認めてもらえたことが。

 だからエルフィリアはあの時、魔法使いになりたいと思ったのだ。

 でも、エルフィリアにはろくに魔力がないとわかると、母は魔法の話をしなくなって。

 だからエルフィリアは……。


(……いや)


 ……本当は。

 本当は、それでもよかった。

 それが、母を笑顔にできるものなら。母に認めてもらえるものなら。

 魔法じゃなくてもよかったんだ。

 だけど、エルフィリアはそれでも魔法を選んだ。

 それはなぜなのか。

 その答えは簡単だ。


「温かかったのです。本当に、温かかった……ただそれだけ、なのです」


 魔法を使って、母を笑顔にできて、頭を撫でてもらえた。あの温もりが愛おしかったからだ。

 記憶にある、あの温もりが味わえた瞬間が、魔法を使ったあの日、あの時だけだったから。

 ただ、それだけだ。

 母を笑顔にしたい。母に認めてもらいたい。

 そして、もう一度あの温もりを自分に与えてほしい。

 それこそがエルフィリアの『本当』の望みだ。

 あの時の母は、エルフィリアを自分の誇りみたいに、エルフィリアを誰よりも優しい、自慢の娘として。

 一点の曇もない慈しみと愛を乗せて、エルフィリアの頭を撫でてくれた。

 顔も、声も、かけてくれたはずのたくさんの言葉さえ。

 長い時間の中でずいぶんと摩耗して、もうほとんど思い出せなくなってしまったのに。

 あの温もりだけが、今もまだエルフィリアの胸の内に強烈に残ってしまっている。

 忘れられない。

 あの温もりが、愛情が、もう一度欲しい。


「まったく……バカみたいなのです」


 母を笑顔にしたい。母に認めてもらいたい。

 その思いこそがエルフィリアが魔法使いを目指すこととなった原点。

 そしてそれさえ果たせるのなら、本当は魔法じゃなくてもよかったはずで。

 もっと別の、母が心から喜んでくれることなら、なんでもよかったはずなのに。

 でも、もう父も母も、大事な人は誰一人としてエルフィリアのそばにはもういない。

 大切だった多くの思い出の中、エルフィリアの中に唯一はっきりと残っているものは、あの時の頭を撫でてくれた温もりだけ。

 魔法を使って、母を笑顔にできたという事実と、その時の記憶だけ。

 他にはなにもない。

 だから、魔法使いを目指すしかなかった。

 かつて母は、エルフィリアに魔力がないことを知って、魔法の話をしなくなった。

 なら、ちゃんとした魔力を手に入れて、エルフィリアが立派な魔法使いになって。

 たくさんの人を笑顔にして、たくさんの人に認めてもらえたなら。

 もういなくなってしまった母もきっと、自分のことをもう一度撫でてくれたはずなんだと。

 ……バカげた話だ。

 もう二度と手に入らないとわかりきっているものに、母が死んで何年も経った今もまだ、手を伸ばし続けている。

 もう二度と手に入らない温もりを、両親を失ったあの日から、ずっと探し続けている。

 悲願。渇望。

 よく言ったものだ。

 魔力を増やしたところで、立派な魔法使いになれたところで、エルフィリアの本当の願いなど叶いはしない。

 母にもう一度頭を撫でてほしい。その願いは絶対に叶わない。

 叶わないとわかっているのに、そのことを心が認め切れなくて、もしかしたら、なんて。

 希望を捨てることもできず、立ち止まることもできず。

 本当に、親不孝者だ。

 父と母が望んでいたことは、エルフィリアが健やかに育っていくこと、ただそれだけだったのに。

 自分はそれを知っているはずなのに。


(なのに、私は……)


 自分の気持ちを口にして、振り返っていくうちに、自分という存在がどうしようもないくらいくだらなく思えてきて、目を瞑る――。

 ふと、そんな時。

 ぽんっ、なんて。

 不意に、頭の上に手を置かれる。


「よしよし」


(…………は?)


 なでなでされている。

 クロムの手には包帯が巻かれているが、それでも肌が露出している部分は確かにあって、じかに撫でられている。

 いや、そうじゃなくて。


「な、なにしてんのです?」


 エルフィリアが困惑気味に問いかけると、クロムはきょとんとした様子で答えた。


「なにって……エルちゃん頭を撫でてもらうの嬉しかった、みたいに言ってたから」


「い、いや、そりゃ言ったですけど、それはあの時お母さんにしてもらった時のことをですね」


 なんとなく、クロムと初めて出会った時のことをエルフィリアは思い出していた。

 あの時も彼女はこうして、怯えていた自分に近づいてきて、今みたいに頭を撫でた。

 怖くない、怖くない。

 そう、子どもに言い聞かせるように。


「……わたし、地下室で魔導書を見た時、すごいって思った」


「きゅ、急になんなのです?」


 脈絡のない話の切り出しに、さらにエルフィリアの頭がこんがらがる。


「エルちゃんが書いたものがいっぱいあった。エルちゃんが作ったものがいっぱいあった。あの部屋には、エルちゃんがこれまでずっと魔法使いを目指してやってきたことの全部があった」


 そうして語っている間も、クロムはエルフィリアの頭を撫でる仕草をやめようとしない。

 エルフィリアは困惑のまま、クロムの言葉を聞き続けていた。


「ねぇ、エルちゃん。エルちゃんの使う魔法を初めて見た時、わたしもエルちゃんみたいになりたいって、エルちゃんみたいに綺麗な魔法を使いたいって、そう思ったの」


 それは入学式の時、クロムが寝言で言っていたこと。


「エルちゃんは、わたしの憧れ。エルちゃんに魔法を教えてもらってることが、わたしの自慢なの。エルちゃんは誰より魔法が好きで、誰より魔法に真剣。じゃないとあんな綺麗な魔法は使えない」


「な、なんなのです……? なんで急にべた褒めなのです?」


「ねぇ、エルちゃん」


 朗らかな、慈しむような。

 心の底から浮かべたと、疑いようもなく信じ込めるような心地のいい笑みで。

 クロムは、言う。


「よく頑張ったね」


 それはいつかどこかで聞いたそれと、まったく同じ言葉。

 ――よく頑張ったね。それから、ありがとう、エルフィリア。


「エルちゃんがどれだけ頑張ってきたか、わたしだけは知ってるから」


「…………」


 同じだった。

 言葉、だけじゃない。

 温もりも。笑顔も。その思いも。

 あの日の、あの時の、頭を撫でてくれた、母のそれと。

 ずっと探して、ずっと求めて。

 手に入らないことから目を背け、弱さを誤魔化すように悲願だなんて口にして、魔力を増やすことに視点を置き換えて。

 その、ずっと望んでいた本当の温もりが……確かに今、そこにあった。

 それに、気づいてしまって。


「エルちゃん……泣いてるの?」


「……へ……?」


 自分でまったく気がつかないほど無意識に、エルフィリアは涙を流していた。

 クロムに指摘されて、頬に手を当てて、ようやく自分でそれに気がついた。


(な、なんで……)


 目元を拭う。ごしごしと、何度も拭う。

 なのに、おかしい。

 次から次へと、ぼろぼろと雫がこぼれ落ちてくる。


(ど、どうして私はこんな気持ちになってるのです? 相手はクロムなのですよ……? 凛々しくて優しかったお母さんとは、全然程遠いのです。な、なのに)


 抑え切れない歓喜が、抑え切れない情動が、どんどん溢れ出してきて、止まらない。


「わ、わた、私は」


「……大丈夫だよ。わたしはいなくならないから。ずっと、エルちゃんを見てるから」


(ま、またこいつはプロポーズみたいなことを……)


 ――何年も、何年もだ。

 まだ両手の指で数えられる程度の歳の頃。そんな幼すぎる頃に両親を亡くしてしまって、今の今までずっと一人で、誰に助けられることもなく頑張り続けてきた。

 渇いて渇いてしかたがない望みが。

 苦しくて苦しくて、本当は投げ出したくて。

 でも、投げ出したところでなにも変わらないことだけは知っていて。

 叶わない望みを。届かない願いを。ずっと、いつまでもその虚しさを抱いて生きていくと、そう思っていた。

 でも今、その永遠に満たされないはずだった渇きが、癒えていく感覚がある。

 胸にぽっかりと空いた穴が埋まっていく。手に入らないと心の底では諦めていた思いを、その温もりが優しく包み込む。


「な、生意気……なのですっ。クロムのくせに……!」


「あっ、エルちゃん」


 エルフィリアはクロムの手を振り払うと、がばっと布団を被って背中を向けた。

 甚だ不本意だった。まったくもって遺憾だ。

 母とクロムが同じはずがない。

 母はもっと凛々しかった。母はもっと優しかった。母はもっと、笑顔がうまかった。

 だけどどうにもエルフィリアの心は、その温もりが同じものだと感じてしまっている。

 だって、こんなにも嬉しい。

 認めてもらえたことが。褒めてもらえたことが。

 こんなにも強く主張してくる自らの思いは、エルフィリア自身にだって否定できるものではない。


「……勉強道具、持ってくるから」


 どうやらクロムは泣き出したエルフィリアをしばらく一人にしておいた方がいいと判断したようで、そう言うと、一人で部屋を出て行ってしまった。

 ……なんとなく、少し、それを残念に思う。

 恥ずかしくて振り払ってしまったけれど、もしかしてクロムなら、そんなエルフィリアの本意を察して、布団を剥いでまた頭を撫でてくれるかもしれない……なんて、実はかすかに期待していたから。


(なんでこんな時ばっかり鈍感なのですっ……!)


 やっぱり母とクロムは違う。だって母はもっと察しがよかった……気がする。

 結局、エルフィリアは一〇分近くもの間、ずっと泣き続けていて。

 クロムが戻ってくる頃には、泣きつかれて眠ってしまっていた。


「……もう、無理しないでね」


 戻ってきたクロムはエルフィリアの頭を再び撫でて、そう口にする。

 そのほんの一瞬、クロムにはエルフィリアが小さく微笑んだように見えていた。

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