生きていることが珍しい
死よりも、生きてる方が珍しい。というのも、人間は80歳ぐらいで死ぬ。どんなに健康的に生きても、いつかは死ぬのである。そして、その後は生き返らないだろう。少なくとも生き返った人を見たこともないし、聞いたこともない。だから、死んだらずっと死んだまま。
だとしたら、生きているほうが珍しい。およそ80年間だけ生きて、あとは死んだままなのだから。あぁ、なんと生きているのは珍しいのか。気づいたときには、生きているから(あたりまえ)、この奇異さには気づかずにいる。このことを考えるだけで、嫌なことがあっても、生きていようと思わないか。
ずっといなかった僕が、この時代にうまれ、時が経てばまたいなくなる。プラトンが想起説を示した時、あの世のイデア界から魂はやってきて、死ぬとまだイデア界に戻ると言った意味がなんとなくわかる。きっと、この存在のありようを表現していたのだろう。
時々、僕が「こう考えたら生きていようと思わないか?」というフレーズを言うのは、自殺をとめる方法を僕なりに考えているからだ。でも、正直なことをいうと、自殺をしてはいけない理由を説明するのは難しいと思う。ただ勘違いしてはいけないのは、理由の説明ができないからといって、自殺を肯定しているわけではないということだ。ただ、僕には納得のいく理由が思いつかない。
一般的に「自殺はよくない」とされている。それは一種のフィクションだと思う(だからといって、すぐさま肯定とはならない)。そもそも、世の中にはフィクションがある。たとえば、人権だってそうだ。誰が人権を見たことをあるだろう。生まれた時に、人権をもらった人はいるだろうか。あなたのどこに人権はあるのだろうか。
でも、人権はある。みんなに人権はあるとすることで、社会は平等で自由な社会を手に入れた。だから、それでいいんだ。フィクションがだめなのではない。そのフィクションを疑ってはいけないという雰囲気のほうが、僕は怖い。
疑ってみたい。「日本人」とは何か。これもまた、フィクションではないか。