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過度な人間的

 自分が大学生のとき、周囲の人間があまりに「動物的」だと思った。

 ここで言うのところの動物的というのは、自分の欲望に従順で、その欲望に疑いや罪悪感を持たない傾向を指す。動物は、ご飯をたべたいと思えばところ構わず食べる。食べ物のためであれば命令も素直に聞く(すべての動物にあてはまるわけではないが)。周囲の人間も、欲望にあまりにも素直だと思っていた。運転しながらスマホを見る人、ところかまわずご飯をたべる人、性欲に従う人。それらすべてが、あまりに動物的に見えた。


 どうわけか知らないが、どうやら人間は「動物的」になりつつあるようだ。「理性的」を掲げた近代は、すでに崩壊し、動物的を素直と解釈して良きものとみなす社会がこれからの社会になる。そう思っていた。そして、そういう人間に僕はなりたくないとも感じていた。何も考えずに欲しいままに生きるのではなく、「なぜ」を問い、世界の歴史のなかで生きていきたいと思った。いま思えば、そこにはある種の優越感があったのかもしれない。


 しかし、ある部分で人間は、動物的であったほうがいいといえる。目的のない現代では、考える人間はあまりにもいきづらい。何のために僕はいきているのか。目的がないとすれば、僕は何をすればいいか。したいことをすればいい?、だとしたら僕は何をしたいのか。どういう人間になりたいのか。別に有名になりたいわけではない。別に偉い人になりたいわけでもない。でも、平凡な人生はいやだ。じゃあ、どう生きていきたいのか。それがわからないのが現代だ。そこに悩み苦しむ人が、ときに精神を病み、社会生活を送れなくなるのだろうか。


 それに対して動物は、生きることに迷わない。猫や犬が自分の人生に悩むだろうか。彼らは、考えない。彼らからすれば生きるに悩む人間を理解できないだろう。

 目的がない漠然とした世界に迷う人間の姿をみると、人間はむしろ「人間的、あまりに人間的」になりすぎたのかもしれない。では、どうすればいいのか。人間も動物だから、動物的に戻ることは可能だろうか?しかし、一度理性的、人間的なふるまいを覚えてしまえば、動物的な生き方は間違った生き方となる。それをわかってでも、動物的な生き方をするのであれば、理性的な人間が動物的な生を貫くのは、自分で自分を騙す行為だといえる。


 自分を騙す行為を無視することはできない。なぜなら、それを行い、その行為を受けるのは、すべて自分であるから。自作自演で嘘をつくことはできない。自分は、偽れない。だから、あまりに人間的すぎる人間は、その人間性、理性性を貫き通すしかない。なぜ、僕はいきているのかわかないと思うのであれば、それをずっと考えるしかない。もしかしたらこれかな、これをしている自分は楽しいぞ、と思えるものを探し続ける。つまり、人間的になってしまった人間は、過度な人間性のなかで生きていくしかない。


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