では、生きてるってなに?
前回は、死について書いた。死はわからないものだとしても、私たちが生きていることは間違いない。生きているから歩けるのであって、生きているから考えることもできる。
では、「生きているってなんだろう」。電車に乗ると、同じ車内にいる人みんなが生きていると僕は思っている。もしかしたら、人間の姿をした動く機械じゃないか、実際に存在するのは僕しかいないのではないか、と考えることもできる。しかし、僕は独我論を採用しない。単純に、周囲の存在者を人間だと信じてしまうし、そこに問題意識が生じない。
もし、僕以外のすべての人間が人造人間(あるいは人口知能で動く機械)だとしても、それに気づくヒントが一切なければ、僕は同じ人間だと思って生きていく。むしろ、僕も人口知能で動く機械ではないかと自分を疑うかもしれない。
僕は、バークリのような世界も信じていない。つまり、自分が見ていない世界がもしかしたら存在していないとは考えない。たとえば目の前にあるパソコンを見ている間、後ろにある家の壁がなくなっているとは思わない。なぜかというと、僕はそれを知ることがどうしてもできないから。どうやってそんなことわかるのかと思ってしまう。だから、なんだが独我論にはなれない。
それよりも、「生きているってなんだろうか」。単純に、自由に話して、自由に体を動かしていれば、「生きているなぁ」って思う。周囲の人も、そのように体を動かしているから、生きているのだろうと思う。もし病気などで体の自由がなくても、なにかを意図して「〜しよう」としていれば、生きているんだなぁと思う。
だから、もし人工知能によって動く機械が、人間と同じような見た目を備えたら、僕は「君も生きているんだなぁ」と思うかもしれない。もしかしたら、将来的に人工知能で動く機械にも、人権があると主張するかもしれない。別にそれでいいじゃないかと思うのだが、あまりにも楽観的か。




