好きと嫌いの構造
少し前に、人間同士で使う「好き」と「嫌い」について言及した。その区別について、もう少し話を展開したいと思う。
人間は、なぜある人を好きになるかはいまいちよくわからないものだ。たとえば、「なぜ、あの人が好きなの?」と尋ねられたとき、しばしば人は返事に困る。そのときの好きが、LoveであろうとLikeであろう状況は変わらない。そうであるのに対して、「なぜ、あの人が嫌いなの?」という問いに対しては、人々はすぐに返事を返す。「あいつは、わがままなんだ」「自己主張が強いのが、わたしムリ」など。
嫌いは「部分的なもの」「要素」で成り立つ。この例でいえば、「わがまま」「自己主張が強い」が部分的なものである。そのため、人は簡単に相手の嫌いな要素を口に出すことができる。しかし、好きはそういうわけではないようだ。たとえば、「あの人は、優しいから好き」「かっこいいから好き(面食い)」というのはあまり聞かない。
どちらかといえば、「優しくて、素直で、純粋なところが好きです」と言ったような、いくつかの要素が重なったものが好きの理由としてあげられる。「私は家庭的なので好きです」と言わないし、あまりにも素っ気なく真意だとは認められない(ここでもし、「家庭的なところも好きです」といえば、しっくりくると私は感じる。なぜなら、「〜なところも」は、全体としての像があることを垣間見せるから)。
恋人同士で「なぜ、私が好きなの?」という問答をしたところで、そこで登場する回答が満ち足りないのはそのせいである。つまり、嫌いに対して好きは「全体的なもの」であるから、いくつもの要素をあげつらったところで、その質問へ回答にならない。というのも、いくつもの要素をあげたところで、要素が組み合わさったところの全体について言及ができないからだ。それゆえ、どうしてもしっくりしない会話になる。
これらの結果として、人は悪口を簡単に話すが、相手の好きなところを話す好口(私が命名)は話しにくいといえる。さらに言い方を変えれば、相手の嫌いところや苦手なところは、要素であるのですぐに見つけることができるが、好きなところはすぐに見つけにくいともいえる。というのは、好きな部分を知るには、相手のある程度の全体像を掴むまでの付き合いと時間が必要になるからだ。




