好き嫌いという判断基準
学校や会社などの集団行動は、人間関係の上で成り立つ。
「おれは、あの人が好きじゃない。どちらかというと嫌いかな」と知人が言った。
彼がいうところの「あの人」は、たしかに変わった人ではあった。私は、「ああいう人もいるだろう」という程度に思っていたが、彼はどうもその人を許容できないらしい。詳しく話を聞いてみると、その好きでない人(嫌い人)と直接はなしをする機会はなかったが、外からその人の言動を見る限り、好きになれないらしい。
僕は、それを聞いてびっくりした。というのも、好き嫌いの判断が早急であるからだ。人間の一面だけをみて、判断するのはあまりにも一方的ではないか。
嫌いだ発言から一週後、彼は嫌いなその人とグループになって協力しあうことになった。そういう環境になっても、最初の数日は「やっぱり、苦手」と言っていた。
しかし、一週間ぐらい同じグループとして活動していると、彼の様子が変わってきた。その嫌いな人と楽しく話をしているのである。詳しく聞いてみると、「あいつ意外といいやつだ」と言うのである。
周囲の人間を観察しただけだが、人間関係を「好き嫌い」で判断する人が増えている。しかも、早急に判断を決める人が時折見受けられる。「あの人は、口やかましいから苦手」と思うと、その気持ちが離れない。今回の彼のように、何かの理由でその嫌いな相手と交流する機会がないかぎり、その気持ちは変わらない。結果として、彼が抱いた「嫌い」「苦手」という感情は、偏見であったといえる。その人の一面だけでその人の人柄をわかった気になったのである。
こういう形がより極端になれば、「俺はあいつが嫌い。だから、話しかけられても相手にしない」と決めつけることになる。実際、周囲にこういう人はいないだろうか。この考え方は、タチが悪い。というのも、自分が嫌いと思うのは、相手に原因があると思い込んでいるからだ。しかし、嫌いという感情は、その感情を持つ人によって生み出されたことを忘れてはいけない。
すべてを相手のせいにして、「嫌い」「憎い」というのであれば、これは、一種の差別感情に近づく。
私の知人である彼は、人を評価する基準として「好き」「嫌い」という言葉を使う。「あの人は尊敬できる」と言ったとしても、「あの性格が好きだなぁ、だから尊敬できる」という話になってしまう。つまり、尊敬もまた「好き」に還元されてしまうのだ。
しかし、人間は食べ物ではないのだから、「好き(おいしい)かどうか」以外の判断基準があってもよいはずだ。もっといえば、好き嫌いという判断基準は下さないようにすればいい。つまり「判断保留」である。
自分にとって、自分がわからないのが人間である。自分以外の他人は、もっと未知の存在者である。他者もまた常に時間のなかで変化し続けているという意味からしても、他者は捉えどころがない存在者ともいえる。つまり、「あの人のことは、まだまだわからないところだらけだ。だから、好き嫌いの判断はできない」と言って、保留にしてしまえばいい。それを自分が死ぬまでし続ければ、好き嫌いという判断基準は意味をなさないものとなるだろう。




