ラクになるらしい
「死んでラクになりたい」と言って、自殺するらしい。
これは、ドラマの影響で実際はそうではないかもしれない。すごく嫌なことがあって、そこから逃れるために死ぬ。いじめから逃れるために、暴力から逃れるために。
「自殺をしてはいけないのか?」と聞かれたら、僕は困る。ダメと言える理由が見当たらないからだ。だからといって、「自殺をしてよい」にはならない。
しかし、「死ぬとラクになる」のだろうか。というのも、誰も死ぬとどうなるかはわからない。死人に口無しである、死んだ人間は話さない。だから、死ぬとどうなるかもわからない。
つまり、死は不明なもので、わからないものではないか。それなのに、どうしてラクになるといえるのだろうか。きっと、いまの状況があまりにも苦しくて、これ以上苦しい状況なんて考えられない気持ちから、死んだ方がまだましだと考えるのかもしれない。しかし、もっともっと苦しい状況があるかもしれない。死んだほうがもっともっとツライかもしれない。そう考えてみると死ぬのはやめよっとなるのでは(いや、ならないか・・・)。
もしてかしたら「死んだら無になる」と誰かが言うかもしれない。そうだとすると、死について悩む人はいなくなる。なぜなら、死んだら自分も無になる。自分が無になれば、死を感じている自分はいなくなる。死の先に天国があろうと、地獄があろうと、それすべて無であれば、それらを認識する人がいない。つまり、死ぬと僕がいないことになる。死んでラクになることはない。なぜなら、自分がいないのだから。ないものはないのである(パルメニデス)。
しかし、「死ぬと無になる」もまた死生観の一つである。みんな死んだことない。なのにどうして無だとわかるのか。




