「好き」とはなんですか。
「好き」や「愛」という言葉は、聞くに堪えない。
人がその言葉を熱く語っているだけで、なぜだか僕は恥ずかしくなる。もちろん、自分でも言及したくない。この感覚は、僕だけではないだろう。
それはつまり、「好き」や「愛<する>」というテーマ自体が重い話だといえる。
「好き」とは何か?もし、それが独占欲だとすれば、嫉妬もうまく説明できる。
僕は、Aさんが好きだとする。Aさんを自分の物にしたい。他の人と交際をしてほしくない。もし他の人と仲良くしているところをみれば、他の人に独占されているように感じ、羨ましく、嫉妬を抱くと。
このような一般的な「好き」は、「こちらからの一方的な関係」で成立する。自分がAさんにアプローチをして、相手が嫌だと思っていても、自分が「好きであること」には変わりはない。あれやこれやを尽くして、お互いに合意できる関係になればカップルではあるが、もし一方的なものにすぎないのなら、それは嫌がらせ、最悪はストーカーに発展するかもしれない。
すなわち、独占欲としての「好き」は、少々危険な要素が含まれている。
しかし、人は好かれるために、その相手を楽しませたり、喜ばせたりするものだ。そこに重きをおく「好き」は、独占欲ではなく、奉仕の関係に近い。つまり、「相手のためになることをする」という感情である。Aさんが悲しんでいれば話を聞き、会話で楽しくさせる。こちらが与え続けるという意味での一方的な奉仕関係。これがもう一つの好きである。
もし、Aさんが他の人と楽しくやっていたとしても、先のような嫉妬は生まれない。なぜなら、好きなAさんは楽しんでいるのである。それが「相手のためになる」限りに、自分は嫉妬や羨望を抱かない。もっといえば、Aさんが自分以外の人間と付き合っても、祝うことができる。それがAさんのためになるからだ。そこに嫉妬が生まれるとすれば、その彼氏のようになぜ自分はAさんを楽しませることができないのか、と自己嫌悪に陥るかもしれない。しかしこれは、自己成長を促すポジティブな要素である。
もちろん、このパターンにも危険性がある。それは、「相手のため」と称してお節介焼きになる可能性である。しかし、そのような行為自体が「相手のためになる」とはいえないとして、未然に防ぐことができるかもしれない。そう考えると、独占欲の「好き」の形よりも清らかで美しいと僕は思う。
もちろん、このような理屈だけで人間は動けない。ただ、そうやって理屈を自分で作り上げることで、自分は変わる。「好き」や「愛する」という意味もそうである。先日、ストーカー被害が増えているとニュースで知った。現代の人々は、「好き」をどのように考えているのだろうか。そして、あなたはどのように考えているのか。




