絶望にある楽観性
なぜ人は自殺をするのだろうか。学校や職場のいじめ、生活苦など様々な要因があげられる。今の日本人のなかには、「自殺したいと思うのは病気です」と考える人もいるかもしれない。もし、簡単に病気とみなすのであれば、自殺願望というのはあってはならない状態ということになる。それは異常ということになる。しかし、異常と不健康は違うと思う。
自殺したいと思う人は、以前から、僕は楽観的だと思ってきた。というのは、いま目の前にある苦しみが、死ぬことで晴れると思っているからだ。死は何かわからないのに。それなのに、自殺することで、自分は解放されると考えるのである。それは楽観的な思考ではないだろうか(楽観的であることは、良くも悪くもない)。
僕であれば、死が何かわからない限り、今以上の苦しみがもしかしたら、死んだ後も続くかもしれないと懸念する。死んだからといって、自分にとって有益に働く保証はどこにもないのである。だけど、自らの命を断つ人は、死に希望を抱く(自殺した人に直接聞いたわけではないが・・・)。
こういう話をすると、「死を選ぶ以外に、希望を持てないぐらいにその人は苦しだのでは?」と思う人がいるかもしれない。たしかに、そうだと思う。だけど、どうして死だけは希望として残ることができたのか。そこが僕には分からない。そこに希望が持てたこと、そこには楽観的な要素があったのではないか。その要素は、宗教的な裏付けに基づくものかもしれない。
人間はいつか死ぬ。そんなことはわかっている。都市伝説で、「この話を聞くと、いつか死ぬ」というパターンの話があるが、人間であるかぎりいつかは死ぬ。呪らわれた話を聞かなくても僕はいつかはいなくなる。生きている方が、個人にとって異常な出来事である(生きていることの方が病気かな?)
。そうであるなら、珍しいこの生を生きていたいと思う。これが僕の楽観性である。死から生まれる楽観性である。これが勇気付けられる人は、いないだろう。




