第3話 非常事態――現状、不明 その二
―――年号 日時ともに不明
現在地 不明
現地時刻 JST 1450
「ん……」
―――眩しい。
全身から力が抜けていて、起きているのか眠っているのかもわからないあやふやな感じ。
そんな曖昧な感覚のなか、瞼をつらぬく白い明るさを感じて零司は目を覚ました。
薄く開いた目、その視界いっぱいに広がる透き通るような青い空。
そこを右から左へゆったりと流れていくのは、綿のように柔らかそうな白い雲の群れだ。
そんな鮮明な白と青のコントラストを背景に、高空を数羽の鳥が気持ち良さそうにのんびりと風に乗って飛んでいる。
普段、視界の8割に建物や車が映っていた自分にとって新鮮な光景である。
どんなに天候に恵まれても、練馬の駐屯地ではこんな景色は絶対に見れないだろう。
「……すぅ……はぁ…」
なんとなく胸一杯に空気を吸って、ゆっくり静かに吐き出す。
そうすることで、強張っていた身体から力が抜けていった。
気持ちが良い。
息をするたび、鼻腔に広がる草のほのかな匂いがどこか懐かしい。
日頃の訓練で土草の匂いは嗅ぎ慣れたと言うのに、おかしな話だ。
(そう言えば、こうやって地面に仰向けに寝っ転がるのも久しぶりだ……)
まどろみを引っ張り、未だ覚醒しない頭で零司はぼんやりと考える。
その次に浮かんだのは、仕事休みの日にはこういった穏やかな曜日を満喫したいものだという実直な気持ち。
そのうち基地の営内の屋上にでもベンチを引っ張り出して、コーヒーを飲みながら読書に勤しんでみようか?
と、ここまで考えたところで、
「………はぁ!?」
素っ頓狂な声を出して我に返った。
いやいやいやあり得ないだろう! なに悠長に感慨に浸っているのか!?
白い雲など流れていていいはずが無い。 本日は台風の強風域が絶賛直撃中で、もれなく暴風域もくっついてきているのだ。 『悪天候』のひと言では到底済まない、大荒れ模様のはずである。
そんな日は、白雲どころか雲の切れ目すら拝めないような一面が鈍色の空でなければおかしい。
濁っていた思考が一気にトップギアに叩き上げられ、視界がぐんと鮮明になる。
零司は飛び起きて辺りを見回す。
「……冗談だろ?」
愕然とした。
自分が寝っ転がっていた場所、そこは広大な草原のど真ん中だった。
周りの大地は若草の緑で覆われ、少し離れたところにはこの場を囲むようにして雑木林が生い茂っていた。
彼方に見える連峰は鋭角的な稜線で縁どられ、山肌には降り積もった雪が霜降り状のテキスタイルを幾重にも折り重ねて描いている。
それらすべては凛と透き通った空気で覆われ、常に癒しと慈しみで守られているようだ。
見渡す限り、ありのままの姿を晒す自然。
自分がちっぽけに感じるほどの圧倒的な存在感。
このような光景は日本では見たことが無い。
富士の袂にはこんな場所があるのだろうか? いやそれ以前に、夏の今の時期、雪が降るか? これだけ涼しいか? セミはどこだ?
あまりの出来事に、トップギアで回転する頭でも思考が追いつかなかった。
「どこだ……ここ」
目の前の光景が現実のものではないかのように零司は言葉を漏らす。
ついさっきまで、自分は中隊の隊員たちと共にクーガーの中にいたはずだ。
オリエンタルシールドに参加するはずが延期となり、やむなく富士の裾野の公道を走って練馬に帰還する途中だったはず。
それから原因不明の事故が発生して、機材が使用できなくなって、敵襲の可能性ありということで全周警戒に出て……
「そうだ中隊は!? クーガーはッ!!」
次第に覚醒していく頭で気づき慌てて周りを見回すが、そこに自分の乗っていた装甲車の姿はなく、外に出て指揮するはずであった隊員も誰一人としていない。
それどころか走っていたはずの公道や表札も、これだけ開けた視界があるにもかかわらず後続の部隊も、演習場の一部すらも見つけられなかった。
「どうなってんだ……」
唖然として言葉を漏らした。
おそらく、ここは自分たちの乗った装甲車が走っていた場所ではない。
それ以外のどこか遠くの―――そこまで考えて零司の頭を最悪の考えがよぎる。
(遭難したのか? 俺は……)
思い立って嫌な汗が背中を伝った。
考えられないことではない。
クーガーを飛び出した先は、ホワイトアウトにも似た視界がほぼゼロと言ってもいい状況だった。 理由はともあれ周囲は濃霧に包まれ、凄まじい暴風雨が吹き荒れる悪条件に完全な無線閉鎖。
車輌の周囲に展開したは良いが、その後、何らかの理由で自分だけ部隊からはぐれたという事も……
(いや、そんなことあり得ない)
こういう状況下での訓練は、今までに何度も受けてきた。
あのコンディションで一方的に攻撃を受け、味方が撤退するとしても、取り残されずに追いすがるだけの技術も持ち合わせている。
自分一人がはぐれることなど考えられない。
そもそも、隊から一人でも行方不明者が出れば仲間が探しに出ているはずだ。
それらの隣片すら見受けられないということは……
そのとき零司は視界の端で点滅していたある物に気付いた。
ARTSの機体情報を表わすダイアログだった。
驚きに声を出すより先に脊髄反射のような早さをもって体が動いた。
「アビオニクス、ならびに全システム起動。 地形情報Bに更新。 レーダー、全周探波を半径200メートルにかけて展開。 主機出力をクルーズで維持。 DMTM、全身の駆動系チェックはAからBをパス、戦闘出力で待機。 FCSスタンバイ」
右手が左腕のタッチパネルを操作して出力を叩き上げ、音声認証で必要な項目をセレクト。 零司は瞬く間に、身につけたARTSを実戦で稼動できる状態に移行させていく。
次々に立ち上がるダイアログを確認しては目線で閉じ、機体のコンディションを確認。
視界の下へと断続的に流れていく情報を読み流して、
「問題は……特に無い…わけがないよな」
機体そのものの使用に関しては何も問題はなかった。
装備する火器のステータスにも異常はなく、奇跡的に全てのハードが無事だ。
ただ、現代戦では必須の戦術データリンクが完全に切れていた。
加えてGPS、無線といった情報交換システムに関わるものも使用が出来ない。
緑や青の項目のなか、特定の部分だけ黄色いErrorという文字が空しく点滅している。
試しに、回線や発信方式を変えて何度か発信してみるも、手近にいる中継局……すなわち自分の部隊や他の隊でARTSを装備する者、FTCをはじめとした付近の駐屯地からの応答はなく、果ては車列に並んでいたはずのシキツウともつながらなかった。
それどころか、何かしらのノイズすら検知できない。
まるで全ての回線が物理的に遮断されているようだ。
自分のARTSが起動したのであれば他の装備も機能が回復し、通信も行えるだろうと思ったのだが……
「どうなってんだ。 クソッ!」
悪態をつき、内心で零す。
――――――ツイてない。
いったい何が起きたのだ。 本当に工藤の言う攻撃が起きたのだろうか?
せめて隊と連絡がつけば向こうの状態も知ることが出来るし、こっちもどうにかしようがあるのだが、それすらままならない。
事実と現状を把握できないのが、いやにもどかしい。
今できることはデータリンクを受信状態にして、友軍からの通信が来ることを祈るだけだ。
あとはこの場がどこなのかを特定することか?
零司が腕を組んで考えていた、そんな時だった。
ヘッドセットから短い電子音が鳴った。
「……何だ?」
続いて視界の端に立ち上がったダイアログに『動体感知』の文字。
全周索敵で待機させていた複合センサーが、何かを探り当てたようだった。
方向は6時、つまり真後ろ。 距離は120メートル。
振り向く。
そこには深い雑木林があり、針葉樹のような木々が鬱蒼と生い茂っていた。
所々からは木漏れ日が斜めに差し込んで神秘的な光の道を宙に描いているが、奥に行くにつれブッシュは濃くなり、あまりに多く繁茂する植物のせいで120メートルも先になると何も見えない。
零司は再度、網膜に投影された索敵情報に目をやるがそこに敵影はない。
センサーの故障、あるいは誤報だったのだろうか?
だがARTSのセンサーは、小動物などを感知しても敵でない限り弾くように設定されている。 それにこの障害物の多さだ、何かを見逃していてもおかしくはない。
「……」
ライフルを引き寄せ、その場にしゃがみ込む。
どうする? レーダーを使って索敵すべきだろうか?
だが対象が今一番懸念している『敵』―――それもこっちと同じARTSを装備した敵だった場合は、間違いなく向こうにこちらの位置と存在が割れてしまう。
しばしの思案。
ややあった後、
「……12時方向、指向索敵一回。 光学センサーをサーマルへ変更、通常なら誤差で弾いている微細熱も拾え」
零司の指示に従い、それまで周囲を満遍なく索敵していた複合センサーが前方に集中する。
反応はすぐに出た。
『1時方向、距離100に動体感知。 熱源あり。 UK(不明機を示す記号)3』
零司の網膜に描かれる報告。
複合センサーのレーダーがスキャニングした情報を、コンピュータが視覚イメージ化した前方の雑木林の立体マップが目の前に開かれる。
乱雑に並んだ木々の隙間を横に貫く一本道のような場所を不明機を示す黄色の矢印が3つ移動していく。
障害物のせいで正確な形は判別できないが、こちらの存在に気付いたような素振りを見せないあたりどうやら敵ではないようだ。
味方だろうか? だが、それにしては移動速度が遅い。
ラン(徒歩での移動)でこちらを探しているのならば納得だが、索敵に使うはずのレーダー波をこちらのセンサーは感じていない。
となれば、向こうはこっちを探す気など毛頭ないということだ。
それにこちらのARTSが故障していない以上、他の機体も基本的に無傷の確率は高い。
つまり、捉えている3機ともセンサーが使用できないという事はまずないだろう。
ならば考えられることはひとつ。
この3つの機影は敵か、もしくは地元の人間か。
どちらにしても、今の状況で警戒するに越したことはない。
……自分たちが何らかの攻撃を受けた可能性が高い今は。
「ICS、状態をクラス1へ。 DMTMをモード2に設定」
音声でAIに指示を出す。
それに反応して零司の身に付けたARTSが形を変えていく。
歩兵用戦闘服の様相を表わしていたスーツは、インナーが露出していた内股や上腕部分などにも装甲が広がっていき、局面で構成されていた装甲はよりエッジの効いたソリッドな物へと変化した。
背中に搭載された主機が出力をミリタリーに押し上げ低く唸り、グレーで統一されたボディの各所に点在するセンサーが淡いグリーンの光を放つ。
頭に被っていただけのヘルメットは顔全体を覆うように展開し、バイザーのそれに似たセンサースリットが獲物を狙う猛禽のように鋭く輝いた。
わずか数秒、その間に零司が身に着けていたARTSは本来の姿へとその形を変えた。
中世の鎧を現代戦に最適化したような形。
それの名は『Type-75Mod1 バルディッシュ改』、東側では最強と謳われるほどの性能を有した日本が世界に誇る純国産ARTSである。
続いて零司は目線でダイアログを操作すると、
「FCS、安全解除。 緊急事態につき、対象に敵対的な行動が確認できた場合、先制的自衛権の行使を行う」
自衛隊が自衛軍になり、憲法が改正された事で可能になった先制攻撃の行使をすべく、火器管制の安全装置を解除した。
「さてと、何が来るかね……」
50式の側面にある棹桿を引いてチャンバーに弾丸を装填。
一連の動作を流れるようにこなし、零司は視界に映るレーダーサイトを見つめる。
さっきから確認しているブリップは林を横切るように走り、合成された立体マップを見る限りでは、移動体はもう少しでそこを抜けるようだった。
鬱蒼と草木が生い茂る場所から出てくれば、こっちも肉眼で確認できるというもの。
藪をつついて出てきたのが味方であれば合流すればいい。
そして蛇のように敵性を示すものならば、自衛のために殺す。
自分の中のスイッチが訓練された兵士のそれに切り替わり、目標地点を見つめる目線が次第に刃物のような鋭さを持っていく。
零司はライフルを構えたまま、近くに隆起していた岩の陰に身を潜めじっと息を殺した。
だが――――――出てきたものは零司の予想の斜め上をいくものだった。
「アレか……って何だあれ」
倍率を上げたカメラで『それ』を目の当たりにした時、思わず呟いてしまった。
馬車である。
中世の貴族でも乗っていそうな、凝った金の装飾がなされたキャリッジ(馬2頭が引くタイプ)の真っ白な馬車。
ご丁寧に轡を引く馬まで真っ白で、一歩一歩走るたびに鬣が風になびいている。
その後ろには、護衛なのか鎧を纏った二組の騎兵が続いていた。
拍子抜けして肩から力が抜ける。
一体なんだ、アレは?
「……地元の人なわけないよな。 ってことはなんかのロケか? でもココは俺らが使ってるし……」
ここ、東富士演習場は過去に何度も映画の撮影などで使用された歴史をもつ。
そのため稀ではあるものの、現地勤務で運が良い隊員は、撮影の打ち合わせに来たクルーや俳優を目の当たりにすることもあるのだ。
しかし今はオリエンタルシールドの実施に伴い民間人は入れないはず。
迷い込んだのならともかく(とは言うが、自衛軍の敷地は完全に柵に囲まれているため、迷い込む確率はかなり低い)事前に使用申請をするはずの一般人が入ってこられるわけが無い。
それ以前に、もしなんらかの撮影だとしたらカメラマンや現場監督はどこにいるのだ? センサーは彼ら以外の人間を感知していない。
零司はヘルメットのなかで眉根を寄せ、網膜に映る二人の騎士を見つめた。
(何の映画なんだ?)
その二人は、お世辞にも前を行く馬車を守る任をこなしているとは思えない姿であった。
身に付けたゴシックプレートアーマーは肩や腕を損傷し、至るところにこびりついた泥や煤といった汚れで本来の銀色の輝きを失っている。
風を受けて翻る赤いマントもぼろぼろで気品の欠片もない。
おまけに片方は纏った鎧の隙間……おそらくは腹部からの出血なのだろうが、かなりの血を流しているようにも見えた。
まるで何者かの襲撃を受け、身を挺して主人を守りつつ敗走しているかのようだ。
国家に使える自分とおなじく、主人に仕える者の忠義心がひしひしと伝わってくる……
仮にスタントマンだとしてもあの演技ならば十分に食っていけそうだ。
「何か知らんが無残なものだ……あんなボロボロな格好をして」
そう呟き、零司は警戒を解いて50式をラフに構える。
内心、自分以外の人間が見つかってホッとしていた。
映画なのか別の何かなのかは知らないが、とにもかくにも、今は彼らに声をかけよう。
撮影だったら邪魔になるだろうがこっちは今、無線も故障していて一大事なのだ。
保安に関わることである以上は彼らも協力してくれるだろう。
右手を大きく振って、目の前をゆく一行に声をかけようとした直後、彼らのうちで馬車に近かった方の騎士が突如として――――――炎に包まれた。
「―――――――――は……ッ!?」
ほんの一瞬の出来事だった。
かなりの速度で上空から降り注いだ火球を受け、爆発的な勢いで炎が広がった。
即死だったのか、跨っていた騎士が力なく地面に転がり落ち、主を失った馬が火だるまになってもがき暴れている。
茫然と立ちすくむ零司。
「何が起きた」という疑問よりも「しまった」という失態の念が頭をよぎった。
――――――どうして忘れていたのだ。
思い出してみろ。
ここはどこだ? 味方はどこだ? 中隊はどうなった? 台風はどこに行った? 暴風の影響は? なぜデータリンクだけが使えない? なぜ山岳の峰に雪が積もっている? なぜセミが鳴いていない? なぜ、なぜ、なぜ……
そして時代錯誤も良いところのあの馬車はなんだ?
尋ねられれば、あまりに状況が変化しすぎて正常な判断能力を失っていたと答えると思う。 事実、自分の身に起きた出来事は長年の訓練を一時的にでも忘れさせるに足るものだった。
さっさと気づくべきだった。
この世界そのものがおかしいという現実に。
零司は火球の辿った道筋を戻り、ゆっくりと空を見上げた。
影が見えた。
太陽の光を背にした、かなり巨大な体躯をもつ何かの影。
目線の先――――――青く透き通り少しの濁りもない蒼穹を、一匹のドラゴンが飛んでいた。