「お気持ち」含みのあるシリーズ その1
1話
「お気持ち お手盛り」
「お気持ちを表明します」
――と書いた瞬間、私はどこかで負けた気がした。
ほんとうに“お気持ち”なのか、それとも“お気持ちを表明する自分”を演出したいのか。
そんな疑念を抱いたまま投稿ボタンを押したのが、そもそものはじまりだった。
周囲の反応は、想像以上に薄かった。
いいねもコメントも、ほんの数件。
中には「なんか最近、含みがあるよね」と言った友人もいた。
含み? ――そんなつもりはなかった。
ただ、自分なりに“誠実に”書いただけなのに。
でも、どうやら世の中の“お気持ち”は、お手盛りでなければウケないらしい。
*
(前略)
いいねもコメントも、ほんの数件。
それでも、しばらくは気にしないふりをしていた。
けれど数日後、職場でふと耳にした。
「○○さん(=主人公)、あれ、なんか含みあったよね」
「お気持ち、って……誰に向けてだったの?」
誰に?
誰にでもなく、ただ、自分に正直に書いただけのつもりだった。
なのに、どうして“意図”や“ターゲット”を探られるのだろう。
――まるで、感情を素直に出すことが、社内政治の一手みたいに扱われている。
その週のミーティングで、部長が言った。
「最近、感情的な投稿が多いようです。社の一員として“お気持ち”の表し方には配慮を」
私は思わず息を呑んだ。
“お気持ち”は自由じゃないの?
配慮――という言葉が、あの日の「お気持ちを表明します」を思い出させた。
あれは配慮がなかったのか。それとも、“お手盛り”が足りなかったのか。
会議後、隣の席の後輩が囁いた。
「気にしなくていいですよ。うちの“お気持ち管理”は昔から厳しいんで」
お気持ち管理。
そんなものが存在すること自体、もう冗談のようだった。
――本音を言えば、私はただ、
「誰かが亡くなったニュースに、心を痛めた」と書いただけ。
政治的でも、批判的でもなかった。
それなのに、感情の表現が管理される。
“お気持ち”が、“お手盛り”でなければ通用しない社会。
私は次の投稿の下書きを開いた。
タイトルはこうだ。
> 「お気持ち、再調整中。」
送信ボタンの上で、指が止まる。
また、何かを含んでいると言われるだろう。
それでも、押さずにはいられなかった。
――お気持ちを、誰かの都合で測られることに、
もう、うんざりしていたから。
*
2話
「お気持ち 整えてます」
「お気持ち、整えておきました!」
広報部の若手が、明るい声で言った。
モニターには、社員のコメント文が並ぶ。
災害被災地へのお見舞い、社会問題への賛同声明、創立記念日のお祝い。
どれも丁寧で、どれも似ている。
「“心よりお見舞い申し上げます”を“深く心を痛めております”に差し替えました」
「“ご冥福をお祈りします”は、宗教色が強いので削りました」
「“私もできることを考えたい”は、“微力ながら支援を検討しております”に」
整っていた。
まるで、誰かの気持ちが“完成品”として出荷されるみたいに。
私はそれを見ながら、
あの日、自分の“お気持ち”投稿が炎上未遂に終わったことを思い出していた。
――こういうことだったのか。
あの時、私の文章が「含みがある」と言われたのは、
整っていなかったからだ。
誰にも傷つけられず、誰も傷つけない“お気持ち”。
それが、今の職場で生き延びる最低条件らしい。
広報部長が言う。
「この会社の“お気持ち”は、社会の鏡なんです。乱反射しないように整えてこそ、伝わるんですよ」
乱反射――。
そうか。
整えるというのは、光を均すこと。
だが同時に、陰影を奪うことでもある。
若手が私に向かって言った。
「○○さん(=主人公)も、もしまた発信するなら、下書きチェック出してくださいね」
笑顔で。悪気なく。
私は曖昧に頷きながら、ふと思った。
“お気持ちを整える”って、
自分を矯正することと、どこまで違うんだろう。
夜、デスクに残って、こっそり書く。
> 「お気持ち、整える前に、痛みを感じていたい。」
送信はしない。
ただ、保存だけしてパソコンを閉じた。
――整った気持ちなんて、もう、どこにも残っていなかった。
*
3話
「お気持ち 寄せてシェア」
「お気持ち、寄せてシェアしましょう!」
社内ポータルの告知に、その言葉が踊っていた。
広報部が新しく始めた“社内ソーシャルキャンペーン”――
テーマは「日々の小さな感謝を言葉に」。
投稿フォームには、絵文字とハッシュタグが自動でつく仕様。
“#ありがとうチャレンジ”
“#共感の輪”
“#心ひとつに”
まるで、感情がテンプレートの中に収まるのを前提にしているようだった。
「これ、強制じゃないですよね?」
会議中、誰かが小さく呟いた。
「もちろん任意です!」
と人事の女性が笑う。
「ただ、投稿数が評価シートに反映される予定でして」
任意とは。
私は一瞬、笑いそうになった。
“お気持ち”が、もう“指標”になっている。
共感を寄せてシェアすることが、
もはや業務の一部なのだ。
昼休み、同僚がスマホを見せてくる。
「これ見て。部長の投稿、めっちゃ整ってる」
――《いつも支えてくれる仲間に、心からの感謝を。
感情は伝え合ってこそ、チームは強くなる!》
背景には、無料素材の青空。
コメント欄は「いいね」「わかります」で埋め尽くされていた。
私は画面を閉じ、コーヒーを啜る。
もう“お気持ち”に疲れていた。
夜、自宅のノートに書く。
> 「お気持ち、寄せすぎて自分がどこかへ消えた。」
投稿はしない。
シェアも、しない。
ただ、そっとノートを閉じる。
窓の外で、風が音もなく通り過ぎる。
“お気持ち”はどこへ行くのだろう。
寄せ合い、整え合い、シェアされて、
最後に残るのは――
ほんとうに誰の“気持ち”なのか。
*
4話
「お気持ち もういいや」
“お気持ち、投稿まだですか?”
チャットの通知音が、また鳴った。
あの「寄せてシェア」キャンペーンは、
気づけば恒例行事になっていた。
今月のテーマは「感謝のリレー」。
来月は「前向きの共有」。
まるで季節の挨拶みたいに、“お気持ち”が回ってくる。
でも私は、もう何も書く気になれなかった。
前は言葉を整えて、寄せて、シェアして、
みんなと同じ場所にいようとした。
けれど、どれもやってみたら、
“自分の気持ち”だけがどこかに置き去りになっていた。
昼休み、同僚が明るく言う。
「ねえ、“お気持ち”書かないと浮いちゃうよ!」
「浮いてるくらいでいいや」
そう答えた自分の声が、思っていたより静かだった。
午後、会議室で発表があった。
「次期の広報方針として、“お気持ちの可視化”をさらに推進します!」
拍手が起こる。
私は、手を叩くふりだけしていた。
その瞬間、ふと気づいた。
整った“お気持ち”が、まるで新しい制服みたいに配られている。
着ない自由は、誰も話題にしない。
帰り道、ふと立ち寄った駅のベンチで、
スマホを開く。
下書きに残っていた未送信の投稿たち。
「お気持ち、整える前に痛みを感じていたい」
「お気持ち、寄せすぎて自分がどこかへ消えた」
どれも、送信されないまま眠っている。
私は、新しく書いた。
> 「お気持ち、もういいや。」
送信ボタンを押さないまま、
画面を閉じる。
今は、伝わらなくていい。
誰とも、寄せなくていい。
風の音がして、
ほんの少しだけ、心が軽くなった。
“お気持ち”を手放したら、
ようやく“気分”が戻ってきた気がした。
―――
あとがき風に
「お気持ち社会を歩く」
いつのまにか、“お気持ち”が貨幣みたいに扱われるようになった。
払えば礼儀、足りなければ無神経、
多すぎればうさんくさい。
かつて“気持ち”は内側にあった。
揺れたり、隠れたり、時には届かなくても、確かに“自分の中”にあった。
けれど今は、それを「外に出すこと」自体がルールになった。
出し方、量、タイミング。
ぜんぶ“整って”いなければ、認められない。
「お気持ちを表明します」から始まったこの話は、
結局、“お気持ち”を手放すところで終わった。
でもそれは、諦めではない。
“無所属”の気持ちとして、もう一度自分に戻る再生の始まりだ。
――誰かに寄せない、整えない、シェアしない。
それでも確かにここにある“感じ”だけを抱えて、
今日も世界を歩いていく。
もし次に誰かが言うだろう、
「お気持ち、どうですか?」と。
そのときは、笑ってこう答えたい。
「うん、いまのところ、自由です。」




