第9話 血塗られた記憶
夜が明けた。
王都の空は澄んでいるはずなのに、ルカの胸の奥には重たい雲が居座ったままだった。
――血が流れる。すぐ近くで。
声の囁きが、まだ耳に残っている。
眠ったはずなのに、何度も夢の中で繰り返され、目が覚めるたびに心臓が跳ねた。
「ルカ、顔色悪いわね」
ミレイアが心配そうに見つめる。巫女服の上に旅用のマントを羽織り、腰には聖具の小袋を下げていた。
「だ、大丈夫。ちょっと寝不足なだけだよ」
そう答えたが、声に張りがなかった。
窓際ではエリシアが髪をまとめながら言った。
「今日は王宮に戻らないといけないわ。父上に会って、報告をしなければならない」
その横顔は決意を秘めていたが、どこか硬い。
ルカの胸がざわついた。
――もし王宮で血が流れるのなら、エリシアは真っ先に巻き込まれる。
声が示した「もっとも近い者」という言葉が再び頭をよぎり、喉が渇く。
宿を出ると、王都の通りにはすでに人の波が広がっていた。
パン屋の香ばしい匂い、商人の呼び声、子どもたちの笑い声。
いつもの朝の光景のはずなのに、ルカにはすべてが薄い膜をかけられたように遠く感じられた。
(この平和そうな景色の裏で……血が流れるのか?)
不安は消えない。
周囲の人々が笑顔を見せれば見せるほど、心の中に影が広がっていく。
「ルカ、聞いてる?」
ミレイアが振り向いた。
「え? あ、ああ……」
「しっかりして。今日のあなたは落ち着きがなさすぎる」
エリシアも足を止めて振り返る。
「昨日の声のことをまだ引きずっているのね?」
ルカは答えられず、拳を握った。
「……僕はただ、嫌な予感がするんだ」
その言葉に、二人の表情が曇る。
信じたい、けれど怯えたくもない――そんな気持ちが三人の間に漂った。
王宮が近づくにつれて、街の空気は変わった。
城門前の広場には兵士たちが立ち並び、通る人々を厳しく見張っている。
いつもは開放的な王都の顔が、今日に限っては緊張に包まれていた。
「物々しいわね……」エリシアが小声で言う。
ルカはうなずいた。
――やはり何かが起きている。
その瞬間、耳の奥で囁きが響いた。
『血は乾かず。裏切りは続く』
ルカは思わず足を止め、息をのんだ。
(やっぱり……声は嘘じゃなかった)
次の瞬間、背筋に冷たいものが走った。
王宮の石壁に映る影が、ふっと人の形に揺れたのを見てしまったからだ。
王宮の石壁に映る影を見た瞬間、ルカの胸は強く締めつけられた。
「……やっぱり何かある」
自分でも抑えられない衝動がこみ上げてきて、気づけば足が墓地の方へ向かっていた。
「ルカ、どこに行くの?」
ミレイアの声が背中から届いた。
「ごめん……どうしても確かめたいんだ」
振り返ると、二人の顔に不安が浮かんでいた。
それでもルカは引けなかった。声に押されるようにして歩き出す。
朝の墓地は夜とは違う表情をしていた。
白く濡れた石碑が朝日に反射し、鳥の鳴き声が空から降ってくる。
一見すると静かで穏やかな景色。
けれどルカには、そこが不気味に感じられた。
(……呼ばれてる)
墓石の列を抜けるたびに、胸の奥で脈打つものが強くなる。
やがて千年王の墓廟の前に立った時、足が止まった。
冷たい石の扉に手を置いた瞬間――。
視界がぐにゃりと歪んだ。
「うわっ……!」
目の前の景色が急に変わり、ルカは思わずよろめいた。
そこにあったのは朝の墓地ではなく、血に染まった大広間だった。
高い天井から垂れる旗、割れた椅子、倒れた兵士。
鼻を刺す鉄のにおいが広がっている。
「ここは……どこだ……?」
答えはなかった。
ただ、目の前で人々が叫び、剣を振るい合っていた。
鎧に身を包んだ者たちが、同じ王家の紋章をつけて斬り合っている。
「やめろっ……やめろ!」
ルカが叫んでも声は届かない。
彼はただの“見届け人”として、光景を見せられているだけだった。
「兄上! なぜだ!」
若い騎士が叫ぶ。血まみれの剣を持つ相手は、彼とよく似た顔をしていた。
「王位は一つだ。生き残るのは俺だけだ!」
次の瞬間、鋭い刃が振り下ろされ、兄弟は血に倒れた。
「……っ!」
ルカの体は震えた。
これは過去の出来事だ。声が伝えようとする、王国の血塗られた歴史。
さらに視界の端には、罪のない民が捕らえられ、無理やり広間に引きずり込まれていく姿も映った。
「お許しを……私たちは何も……!」
その叫びも虚しく、剣が振り下ろされ、赤が広がった。
ルカは頭を抱えた。
「なんで……こんなものを見せるんだよ……!」
声は答えず、ただ冷たい囁きが響く。
『王位の影は血で濡れる。
争いは繰り返され、今も続く』
視界が再び歪み、朝の墓地に戻った。
ルカは膝から崩れ落ち、荒い息をついた。
胸の奥が痛い。
見せられたものは幻なのに、心に刻まれた恐怖は本物だった。
「ルカ!」
ミレイアが駆け寄ってきて肩を支えた。
「大丈夫!? 顔色真っ青よ!」
「……血だらけの記憶を見たんだ……王族同士が、互いに殺し合って……」
その言葉に、エリシアの顔から血の気が引いた。
「……それは……私の一族の記憶……?」
彼女の瞳は揺れ、震える声で続けた。
「王女であることが、誇りじゃなく……呪いに思える……」
ルカは答えられなかった。
ただ、墓守として見届けてしまった以上、逃げられないことだけは確かだった。
ルカが見た光景は、一瞬の幻ではなかった。
墓地の奥で膝をついたまま、彼の頭の中には鮮烈な映像が流れ続けていた。
「これは……千年前の……?」
声は答えない。だが、心臓の鼓動と共に脳裏へ押し込まれる記憶は、確かに古代の王都のものだった。
広間の床には赤い血が川のように流れていた。
倒れた兵士、逃げ惑う侍女、泣き叫ぶ子ども。
その中央で、王冠をかぶった壮年の男が椅子に縛られ、血の涙を流している。
「父上! なぜ戦を止めないのです!」
若い男が剣を握り、縛られた王に叫んだ。
「もう民は疲弊しています! これ以上血を流すのは間違いです!」
だが別の男が剣を振り上げ、弟を睨みつけた。
「黙れ! 王位は一つ。父上の意志を継ぐのは俺だ!」
刃が交差し、金属音が響く。
兄弟が互いに血を流しながら争う姿を、縛られた王はただ涙を流しながら見ていた。
「やめろ……やめてくれ!」
ルカは必死に叫ぶが、幻の中の誰にも届かない。
ただ、王族同士の血が石床を赤く染めていく。
――それは「王位継承の争い」という言葉では片づけられない。
欲望と恐怖と、守るための狂気が絡み合い、人が人を切り裂いていく。
やがて弟の剣が兄の胸を突き破り、兄は崩れ落ちた。
「兄上ぇぇぇ!」
弟の叫びは広間に響いたが、その声さえもすぐに剣の音にかき消された。
ルカは震える手で胸を押さえた。
(これが……王家の歴史……?)
誇り高き血筋のはずが、互いに殺し合う記憶にまみれている。
その現実が、彼の心を冷たく締めつけた。
その時、声が静かに囁いた。
『王位を巡り、血は流れた。
忠義も裏切りも、すべては繰り返される』
「繰り返される……?」
その意味を考えるだけで背筋が凍った。
つまり、過去の惨劇は――今も再び起ころうとしているのか。
視界の幻がゆっくりと薄れていく。
赤く染まった広間は消え、朝の墓地の景色が戻ってきた。
石碑の列が静かに並び、鳥の声がかすかに聞こえる。
だがルカの体はまだ震え続けていた。
「ルカ!」
ミレイアとエリシアが駆け寄ってきた。
ルカは必死に息を整えながら言った。
「……王族同士が殺し合ってた。千年前の……血塗られた記憶を見たんだ」
エリシアの顔から血の気が引いた。
「それは……私の一族の歴史……?」
声は震えていた。
「王位を守るために、兄弟さえ斬り捨てた。
民も……無実の人たちも犠牲になった」
ルカの言葉に、エリシアは唇を強く噛んだ。
「そんな……私の誇りだった血が、そんな呪われたものだったなんて……」
涙がこぼれそうになるのを必死にこらえている。
その姿を見て、ルカは胸を痛めた。
墓守として見せられた記憶を告げることは義務だったが、それが彼女を傷つけることになるとは思ってもみなかった。
ミレイアが一歩前に出た。
「エリシア。確かに過去は重い。でも、その過去に飲まれる必要はないわ」
「……でも……」
「血がどうであれ、あなたがこれから何を選ぶかが大事なの。
過去の呪いを断ち切れるかどうかは、今を生きるあなたたち次第」
その言葉に、エリシアは目を見開いた。
王女としてではなく、一人の人間として未来を選べる――そう言われたのは初めてだった。
墓地の冷たい空気の中で、エリシアはただ立ち尽くしていた。
ルカの口から語られた「血塗られた記憶」が、胸に突き刺さったまま抜けない。
――王族同士が殺し合った。
――民までも巻き込まれ、血に沈んだ。
その言葉は、まるで呪いのように耳の奥で反響していた。
「……そんな……」
エリシアの唇から漏れる声は震えていた。
「私の一族が……民を守るどころか、血に染めていたなんて……」
ミレイアがそっと彼女の肩に手を置いた。
「エリシア……」
けれどエリシアはその手を振りほどき、一歩後ずさった。
「私は……王女であることを誇りに思ってきたわ。
けれど、もしその誇りが血にまみれたものだとしたら……私は、何を信じればいいの?」
ルカは息をのんだ。
エリシアの目は涙で濡れていた。
それでも彼女は必死に気丈さを保とうとしている。
その姿は、王女という立場に縛られた強さと弱さの両方を抱えていた。
「エリシア……」
ルカは声をかけたかったが、言葉が出てこなかった。
墓守の役目は「見届けて語る」こと。
けれど今は、その役目が彼女を傷つける刃になっている。
「父上も……祖先たちも……みんな血を背負ってきたのね。
だったら、私が王女であることも……呪われた宿命にすぎない」
その言葉を聞いた瞬間、ルカの胸が締めつけられた。
エリシアの視線は遠く、まるで自分の存在を否定する深い闇の中に落ちていくようだった。
「そんなことない!」
思わず声を張り上げていた。
エリシアが驚いたように振り向く。
ルカは震える声で続けた。
「確かに過去は血で汚れていたかもしれない。
でも……だからってエリシア自身が呪われてるわけじゃない。
僕は……僕はそう思わない!」
エリシアの瞳が揺れた。
「でも……私はその血を受け継いでいるのよ?」
「血がどうであれ、君が何を選ぶかが大事なんだ」
その言葉は、先ほどミレイアが口にしたものと同じだった。
けれど、ルカの必死さがそれをさらに強く響かせていた。
「僕は墓守だから、過去を聞かされる。
でも未来をどうするかは……生きている僕たち次第なんだ」
エリシアは唇をかみしめ、肩を震わせた。
しばらくの沈黙のあと、小さくつぶやいた。
「……そんなふうに考えたこと、なかった」
ミレイアがそっと言葉を添える。
「過去は変えられない。でも、未来は選べる。
そのためにルカが声を聞いているんじゃない?」
ルカは深くうなずいた。
「僕は逃げない。どんなに怖くても、聞いたものを伝える。
でも、それをどう生かすかは……君たちと一緒に考えたい」
エリシアの目に、少しだけ光が戻った。
まだ迷いは消えない。けれど、彼女は完全に崩れ落ちるのを踏みとどまった。
「……ありがとう、二人とも」
エリシアはかすかな笑みを見せた。
その笑顔はまだ不安定だったが、それでも確かに前を向こうとする強さがあった。
ルカは心の中で誓った。
――たとえ声が何を告げても、この人を闇に落とさせない。
墓地の冷気はまだ肌に残っていた。
エリシアの顔は少し落ち着きを取り戻していたが、その瞳の奥には深い迷いが消えずに残っている。
ルカは何か言おうとして唇を動かしたが、言葉が出てこなかった。
そんな時、ミレイアが一歩前に出て二人の間に入った。
「ねえ、聞いて。過去のことは変えられないわ」
彼女の声は落ち着いていて、墓地のざわめきさえ静まるように聞こえた。
「王族の血に何があったとしても、それはもう終わったこと。
でも……これからどうするかは、私たちの手にあるのよ」
エリシアはかすかに目を伏せた。
「でも、私の血は呪われているかもしれない……」
「呪われてるかどうかを決めるのは、あなたじゃない。
血がどうであろうと、今のあなたの行動が未来を変えるの」
ミレイアの言葉は強くもやさしく、胸に届く響きを持っていた。
その姿を見て、ルカは不思議な安心感を覚えた。
ミレイアは両手を胸の前で組み、祈るように続ける。
「私は巫女だから、たくさんの人の『願い』を聞いてきた。
誰もが未来を信じたくて祈っていた。
だから……私も信じたいの。エリシアが、王女としてじゃなく、一人の人として未来を選べるって」
エリシアの瞳に涙がにじむ。
その言葉は、王女としての責任を押しつけるものではなく、ただ彼女自身を見てくれていた。
「……私が、一人の人間として……?」
「そうよ。王女だからとか、血筋だからじゃない。
あなた自身がどう生きるか、それが本当の意味での“王の選択”になるんだと思う」
ルカも強くうなずいた。
「僕は墓守だから、死者の声を聞く。
でも……未来をどうするかは、生きてる僕たちが決めるんだ」
その言葉に、エリシアの胸に小さな火が灯った気がした。
重たい闇に閉ざされていた心に、わずかな光が差し込む。
「……ありがとう。二人がいてくれるだけで、少し楽になる」
ミレイアはそっと笑った。
「だから一人で背負わないで。私たちは仲間なんだから」
その表情はやさしくも芯があり、彼女が巫女である前に一人の少女なのだと感じさせた。
ルカは心の中で思った。
(ミレイアはいつも、人を救う言葉をくれる……僕も、彼女みたいに強くなりたい)
その時、空気が一瞬ひやりと変わった。
風もないのに、墓石の影がじわりと伸びた気がした。
ルカの背筋に冷たいものが走る。
「……また、声が来る」
そうつぶやいた瞬間、耳の奥にあの囁きが忍び込んできた。
『血はまだ乾かず。
裏切りは続く。
王家の影は、いまも脈打つ』
ルカの心臓が跳ね、拳が震えた。
エリシアとミレイアもただならぬ気配を感じ取って、表情を引き締めた。
「……やっぱり、まだ終わってない」
ルカの言葉に、エリシアは拳を握りしめた。
「なら……私は逃げない。過去に縛られるんじゃなくて、これからを選ぶ」
その瞳には、確かな強さが宿っていた。
迷いは完全には消えていない。けれど、それでも進もうとする力があった。
ミレイアは満足そうにうなずいた。
「そう。未来は私たちの手にあるわ」
墓地を離れようとしたときだった。
ルカの耳に、またしても声が流れ込んできた。
『血はまだ乾かず。
裏切りは続く。
王家の影は今も息づく』
「……っ!」
ルカは立ち止まり、胸を押さえた。
息が乱れる。声の囁きは、さっきよりも生々しく、今この瞬間を指しているように響いた。
「ルカ? どうしたの!」
ミレイアが慌てて駆け寄る。
ルカは額に汗をにじませながら答えた。
「また声が……『裏切りは続く』って……」
その言葉に、エリシアの表情が凍った。
「続く……? まさか……今も、王宮の中で……?」
王族の血が繰り返し争いを生んできた。
もしそれが現在にもつながっているなら、父王や重臣たちの中に裏切り者が潜んでいることになる。
「そんな……」
エリシアの拳が震えた。
「私は父を信じたい。けれど……もし本当に裏切りがあるなら……」
ルカは迷った。
声は確かに何かを示している。
だが、それをそのまま口にすれば、エリシアをさらに苦しめるだけかもしれない。
(僕は……どうすればいい?)
心臓が速く打ち、喉が渇く。
墓守としての役目は「伝える」こと。
でも「仲間を守りたい」という気持ちが、ルカの言葉をためらわせた。
そんなルカの迷いを見抜いたように、ミレイアが口を開いた。
「ルカ。あなたは聞いたことをそのまま伝えればいいの。
真実かどうかを決めるのは、私たち皆で考えればいい」
その言葉に、ルカの胸が少し軽くなった。
ひとりで抱え込む必要はない。
声は墓守に届くが、それを未来にどうつなげるかは仲間と一緒に選べばいい。
その時だった。
墓地の外から、慌ただしい足音が近づいてきた。
鎧のぶつかる音。息を切らした兵士の声。
「城下に異変あり! 北門で騒ぎが!」
その叫びに、ルカたちは顔を見合わせた。
「異変……? まさか……」
声が再び、ルカの耳を刺した。
『血が流れる。すぐ近くで』
全身に寒気が走った。
さっきまでの囁きが、遠い過去ではなく「今」を告げていたのだと理解した瞬間だった。
ルカは唇を噛みしめた。
「急がないと……王宮で何かが起きる!」
「わかった、行きましょう!」ミレイアが叫ぶ。
エリシアも決意を込めてうなずいた。
「私が確かめるわ。王女として、民と父を守るために!」
三人は駆け出した。
墓守、巫女、そして王女。
それぞれの立場を越えて、同じ方向へと走っていく。
王都の空は明るいはずなのに、ルカには黒い雲が広がっていくように見えた。
胸のざわめきは止まらない。
――次の瞬間、血が流れる。
それを確信せざるを得なかった。
三人が墓地を飛び出し、王都の通りへと駆け込んだ時、街の空気はすでに変わっていた。
朝の喧騒が消え、代わりに不安とざわめきが広がっている。
人々は小声で何かをささやき合い、兵士たちは慌ただしく走り回っていた。
「北門で騒ぎ……って、何が起きてるの?」
ミレイアが息を切らしながら問うと、すれ違った商人が叫ぶように答えた。
「知らないのか!? 城門近くで兵が斬り合ってるんだと!」
「兵が……斬り合い!?」
エリシアの顔が青ざめる。
それはルカが見せられた“千年前の記憶”と同じ光景だった。
王を守るはずの者たちが、血で血を洗う争いを始めてしまう。
ルカの耳に、また声が響いた。
『血は繰り返す。
王宮の心臓を突け。
裏切りの刃は、もう動き出している』
「やめろ……!」
思わず耳をふさぐが、声は頭の奥で鳴り響く。
胸の鼓動が痛いほど速くなる。
「ルカ!」
ミレイアが支えるが、ルカは必死に足を前へ進めた。
「行かないと……王宮で、何かが……!」
やがて視界の先に、黒衣の人影が見えた。
フードを深くかぶり、背を低くして王宮の方へと急いでいる。
その歩みに迷いはなく、まるで何かを狙って進んでいるようだった。
「……あれは?」
エリシアが眉をひそめた。
黒衣の人物の手元には、わずかに光る金属の刃。
王宮の紋章を隠し持った短剣だった。
「衛兵……? でも、なぜそんな格好で……」
ミレイアの声が震える。
ルカの心臓が跳ねた。
(あれが……裏切り者……!)
その瞬間、また声が重なった。
『見届けよ、墓守。
血は止まらぬ。
王宮の光は、闇に裂かれる』
全身に冷たい電流が走った。
視界がぐにゃりと歪み、一瞬、王宮の大広間が血に染まる光景が重なって見えた。
「いやだ……! そんな未来、見たくない!」
ルカの叫びが喉を裂いた。
だが声は容赦なく続ける。
『避けられぬ夜明け。
血塗られた記憶は、今も続く』
黒衣の人影は王宮の門を抜け、奥へと消えていった。
それを追おうとするルカの足は震えていた。
だが、彼は逃げなかった。
「僕が……止めなきゃ。墓守として、仲間として……!」
その言葉に、ミレイアとエリシアも強くうなずいた。
「一緒に行くわ!」
「私も、逃げない!」
三人は決意を胸に、王宮の中へと駆け出した。
その背中を見送るように、墓地の方から冷たい風が吹いた。
まるで千年前の亡霊たちが「次はお前の番だ」と囁いているかのように。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
ルカが見た「血塗られた記憶」は、これからの王宮編に大きく関わっていきます。
次回はいよいよ、王宮での不穏な影が動き出します。どうぞお楽しみに!