第7話 王女の決断
市場での襲撃の後、エリシアは王宮へ呼び戻された。
石畳の回廊を歩く足取りは重く、胸の奥で不安が渦を巻いていた。
(また“王女”としての務めを果たせと言われる……でも今の私は、それだけでいいの?)
謁見の間に通されると、父王と側近たちが待っていた。
父王は高い玉座に腰掛け、その瞳は冷たく鋭い。
「エリシア。おまえは王女として民の前に立ち、不安を鎮めよ」
低く響く声が、広間全体を満たした。
エリシアは一歩前に出た。
「民は“声”に怯えています。ただ安心を与えるだけでは――」
「黙れ」
父王の声が鋭く遮る。
「民に必要なのは真実ではない。安定だ。王家が揺らいでいると思わせるな」
言葉を飲み込んだ瞬間、胸がずきりと痛んだ。
(本当にそれでいいの? 何も変わらないまま、また裏切りが繰り返されるだけじゃ……)
側近たちは父王に同調し、「王女は微笑み、祈りを示せばよい」と告げる。
まるで人形のように振る舞えと言われているようだった。
謁見を終えると、エリシアは自室へ半ば閉じこめられるように連れ戻された。
窓の外には王都の灯りが見え、昼間の市場のざわめきが幻のように蘇る。
「……私は、何をしているの」
声に出すと、胸の奥の空虚さがますます広がった。
ベッドの端に腰を下ろし、ルカとミレイアの顔を思い浮かべる。
迷宮で支え合ったこと、市場で共に戦ったこと。
あの時だけは、王女ではなく“ひとりの仲間”でいられた。
(あの二人となら……真実にたどりつけるかもしれない)
けれど同時に、王女としての務めが肩に重くのしかかる。
父の言葉、民の視線、そして王宮に渦巻く陰謀。
「私は……どうすればいいの」
両手を胸に当て、震える声でつぶやいた。
そのとき、窓の外を風が渡った。
月明かりが差し込み、白いドレスの裾を揺らす。
まるで「選べ」と促しているかのように。
エリシアの心は、揺れに揺れていた。
王女としての責務か、それとも仲間としての真実探しの道か。
答えはまだ出ない。
だが確かに――その時は近づいている。
翌朝。王宮の謁見の間は、いつも以上に重苦しい空気に包まれていた。
高い天井には巨大な旗が垂れ下がり、赤い絨毯が玉座へとまっすぐ伸びている。
玉座に座る父王――アドラル王の存在は、広間を支配していた。
「エリシア」
王の低い声が響く。
「昨日の市場での襲撃は、すでに民に知れ渡った。王家は揺らいでいる。だからこそおまえが前に立ち、安心を示さねばならぬ」
エリシアは一歩進み、深く礼をした。
だがその瞳はまっすぐに父を見ていた。
「父上。民が求めているのは、ただの言葉ではありません。真実です。
声が囁いている“裏切り”を解き明かさなければ、不安は消えません」
玉座の間にざわめきが広がる。
側近の貴族たちが互いに顔を見合わせ、口々に囁いた。
「王女殿下が声を口に……」「そんなものは不吉だ」
王の眉がぴくりと動いた。
「黙れ、エリシア」
その声にはいつも以上の怒気がこもっていた。
「死者の声など、民に聞かせてどうする。真実を知れば国は乱れる。必要なのは秩序だ」
「秩序……? それはただ隠しているだけではありませんか」
エリシアは一歩踏み出す。
「もし王宮の中に裏切りがあるのなら、それを放置して秩序など成り立たない!」
王の瞳が鋭く光る。
「……おまえは王家の娘だ。疑念を広めることは許されぬ」
沈黙が広がった。
エリシアは胸が苦しくなった。
(やはり父上は……声を恐れている。真実を知ることよりも、王家の体裁を守ることを選んでいる)
「父上……」
彼女はかすかに震える声で続けた。
「私はただ……この国を守りたい。それだけです」
しかし王は冷たく言い放つ。
「ならば王女として従え。おまえの役目は祈りを示すこと、それだけだ」
その言葉は、鋭い刃のように胸に突き刺さった。
エリシアは拳を握りしめる。
(私は……ただの飾りなの? 何も変えられない存在なの?)
広間に重い沈黙が落ちた。
父王と娘の視線がぶつかり、決して交わらない溝を浮かび上がらせていた。
重い扉が閉ざされる音が、冷たく響いた。
エリシアの部屋の外には、二人の兵が無言で立ち、出入りを監視している。
実質、幽閉と変わらなかった。
広い部屋には豪華な調度品が並んでいた。
金糸で織られたカーテン、宝石が散りばめられた鏡、柔らかすぎるほどの寝台。
けれど、エリシアの胸には何の安らぎもなかった。
「……閉じ込められた」
小さな声でつぶやく。
王女として贅沢な空間にいても、心は牢に囚われたようだった。
窓からは王都の灯りが見える。
市場のざわめき、民の恐怖の声、そして――ルカとミレイアの姿が脳裏に浮かんだ。
(あの二人は、今も声に向き合っている。私だけがここで何もできないなんて……)
ベッドに腰を下ろし、両手をぎゅっと握りしめる。
(私は王女。父上に従えば、表向きは国を守れるかもしれない。でも……)
胸が痛んだ。
ルカのまっすぐな瞳を思い出す。
迷宮で恐怖に震えながらも、仲間を守ろうと立ち続けた少年。
彼の姿が、エリシアの心を強く揺さぶっていた。
「……ルカ」
無意識にその名を口にする。
(あなたは声を聞き、真実を追おうとしている。私も……あなたと同じ場所に立ちたい)
しかし、父の言葉が耳に残る。
「王女は秩序を示せ。それだけでよい」
「……違う」
エリシアは立ち上がり、窓辺に歩み寄る。
夜風がカーテンを揺らし、月明かりが白い頬を照らした。
「私はただの飾りじゃない。私自身の意思で、この国の未来を選びたい」
声に出すと、不思議と胸の奥が少しだけ軽くなった。
その瞬間、決意の種が小さく芽生えたのを、彼女は確かに感じた。
遠くで犬の遠吠えが響く。
それはまるで、仲間がすぐ近くで自分を呼んでいるかのように聞こえた。
「ルカ、ミレイア……私は一人じゃない。必ずまた会える」
エリシアは夜空にそっと手を伸ばした。
閉ざされた部屋の中でも、心だけは自由を求めて羽ばたこうとしていた。
深夜の王宮は、昼間の華やかさをすっかり失っていた。
大理石の回廊はひんやりと冷たく、壁にかかる燭台の火が小さく揺れる。
その陰に紛れて、黒い影が音もなく走っていた。
フードを深くかぶり、顔を布で隠した男たち――カイエン卿の配下である。
「……王女の部屋はこの先だ」
低い声が交わされ、二人の影が頷いた。
扉の前には衛兵が立っていたが、彼らの動きはぎこちない。
まるで薬でも盛られたかのように、意識が朦朧としている。
影の男はにやりと笑い、素早く合図を送った。
「監視は済んでいる。あとは観察するだけだ」
扉の隙間に小さな符を滑り込ませる。
かすかに光が走り、符が壁に溶け込んでいった。
それは「内側の気配を映す」魔術。
王女の一挙手一投足を、彼らの主――カイエン卿に届ける仕組みだった。
部屋の中では、エリシアが机に向かって祈りをささげていた。
長い髪が月明かりに揺れ、その姿は清らかで、どこか儚い。
影の男が小声でつぶやく。
「王女は民の前では強気だが、こうして一人でいるときは……ただの少女だな」
「ふん、だからこそ操りやすい。主の望みどおりに動かすだけだ」
冷たい声が返る。
そのやり取りは誰の耳にも届かない。
エリシア自身も、見えない視線が注がれていることに気づいていなかった。
だが――ふと、窓の外で犬の吠える声が響いた。
「……クロ?」
エリシアは小さくつぶやく。
ルカと一緒にいるはずの犬の姿を思い出し、ほんの少しだけ心が和らぐ。
その笑みを、影たちは符を通じて見ていた。
「仲間を想って微笑むか……ますます好都合だ。仲間を人質に取れば、王女など容易く従うだろう」
闇に潜む囁きが、夜の王宮に溶けていく。
――その頃、離れた館でカイエン卿は静かに目を閉じていた。
符を通して届く光景を感じ取りながら、口元に笑みを浮かべる。
「王女も、墓守の小僧も……声と同じだ。導かれるだけの存在よ」
その冷酷な声は、夜の闇と共鳴して響いていた。
王宮の裏庭は、昼間とはまるで別の静けさに包まれていた。
夜風に揺れる木々の葉がささやき、月明かりが白い石畳を照らしている。
その暗がりの中に、ルカとミレイア、そしてクロの姿があった。
「ここで……合ってるのかな」
ルカが落ち着かない様子で辺りを見回す。
ミレイアは頷き、指を唇に当てた。
「声に導かれたの。きっと来るわ」
その言葉の直後――。
茂みを抜けて現れたのは、フードを深くかぶった少女だった。
月光に白い髪が輝き、フードを外したその顔に、ルカは息をのんだ。
「エリシア……!」
王女はかすかに笑みを浮かべた。
「来てくれて、ありがとう。どうしても……話したかったの」
三人は木陰に腰を下ろした。
クロが嬉しそうに尻尾を振り、エリシアの膝に頭を寄せる。
彼女はその毛並みに手を置き、しばし無言で撫でた。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「私は……王女としての務めを果たせと命じられた。民に祈りを示すだけでいい、と。
でも、それじゃ何も変わらない」
ルカは拳を握った。
「父上に……?」
エリシアは頷く。
「本当は私も、声が告げる“裏切り”を確かめたい。だけど王女である限り、父上の命令には逆らえない。
私が動けば、王家への不信がさらに広がる」
その声は強さと同時に、深い迷いを含んでいた。
ミレイアが優しく言った。
「エリシア。あなたはどうしたいの? 王女としてじゃなく、一人の人間として」
その問いに、エリシアの胸が震える。
「……私は……」
ルカが言葉をつなぐ。
「僕は、エリシアにいてほしい。王女とか関係なく、仲間として」
まっすぐなその言葉に、エリシアは目を見開いた。
胸の奥に熱いものがこみあげ、思わず顔を伏せる。
「……そんなふうに言ってくれるのは、あなたたちだけ」
沈黙の中、夜風が木々を揺らした。
だが三人の間には、静かで確かな絆が流れていた。
「ありがとう。私、少しだけ迷いが晴れた気がする」
エリシアは微笑み、ルカとミレイアを見つめた。
「まだ答えは出せないけれど……必ず決める。王女としてではなく、私自身として」
クロが「わん」と短く吠えた。
まるで「その時が来る」と告げているかのように。
深夜の王宮。
蝋燭の炎が小さく揺れる自室で、エリシアはひとり机に向かっていた。
羊皮紙の上には何も書かれていない。
ただ白い余白を前にして、彼女の心は迷路のようにさまよっていた。
――王女としての道。
――仲間と共に歩む道。
「どちらを選べば……いいの」
かすかな声が夜に溶けた。
父王は言った。
「真実はいらぬ。民に必要なのは秩序だ」
でもルカは違う。
「真実を追わなきゃ、未来は変わらない」
両方が正しいようで、両方とも重すぎる。
エリシアは窓を開け、夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。
冷たい空気が喉を刺す。けれど、その痛みが少しだけ心を澄ませてくれる。
――ルカの顔が浮かんだ。
迷宮で恐怖に震えながらも、決して逃げなかった少年。
市場で民を守るために必死で走った姿。
彼の瞳にはいつも迷いよりも、まっすぐな意志があった。
「私には……あの強さが足りない」
ぽつりとつぶやいた瞬間、胸がきゅっと締めつけられた。
だが同時に、あの言葉がよみがえる。
――「僕はエリシアにいてほしい。王女とか関係なく、仲間として」
思い出しただけで、心が熱くなる。
王女としての自分ではなく、“ただのエリシア”を求めてくれた。
その事実が、何よりも救いだった。
「私は……どうしたい?」
問い直す。
父の望む王女ではなく、仲間が望む自分でもなく。
“私自身”が、何を望むのか。
沈黙の中、答えはゆっくりと形をとり始めた。
(私は……この国を守りたい。だけど、それは隠すことでじゃない。真実を見つめ、選ぶことで守りたい)
その瞬間、迷いの霧がすこし晴れた気がした。
エリシアは机に置いていた短剣を手に取った。
装飾こそ華やかだが、重みは確かなものだ。
「これは……王女として授けられた護身の剣。でも、今は私の誓いの証」
彼女は静かに刃を見つめ、胸の奥で固く誓った。
「私は、王女である前に――一人の人間として仲間と共に歩む」
外の空がわずかに白み始めていた。
決断の時は近い。
夜が白み始めるころ、王宮の回廊は静まり返っていた。
兵士たちはまだ半ば眠りに落ちているように気が緩んでいる。
その隙を縫って、ひとりの少女が足音を殺して歩いていた。
――エリシア。
薄いマントに身を包み、髪を布で隠す。
王女の証を示す宝飾品はすべて外した。
ただの旅人のような姿で、彼女は大理石の扉を押し開ける。
「これでいい……。私は今日から、ただの“仲間”として歩く」
心の中でそうつぶやくと、不思議なほど胸が軽くなった。
迷宮で震えながらも前に進んだルカの背中を思い出す。
ミレイアの静かな微笑みを思い出す。
そして――自分の中で芽生えた“選んだ意思”。
東の空が赤く染まり始めたころ、裏庭の門を抜けた。
そこにはすでに二つの影が待っていた。
「エリシア!」
駆け寄ったルカの声は、夜明けの空気を震わせた。
「本当に……来てくれたんだ」
エリシアは小さく笑みを返した。
「待たせてごめんなさい。私、やっと決められたの」
ミレイアもほっとしたように頷く。
「あなたの瞳、もう迷ってない」
エリシアは二人の前に立ち、真っ直ぐに言葉を紡ぐ。
「私は、王女である前に……ひとりの人間として、あなたたちの仲間でありたい。
たとえ王宮に背くことになっても、私は“声”を追う旅に同行する」
朝日が昇り、三人の姿を照らし出した。
その光は昨日までの迷いを洗い流すように清らかだった。
ルカは強くうなずいた。
「ありがとう、エリシア。僕たちも……もう離れない」
クロが吠え、尾を振りながら三人の足元を駆け回る。
その無邪気な声が、まるで新しい旅立ちの合図のようだった。
エリシアは腰の短剣に手を置き、静かに誓う。
「この剣は王女の象徴じゃない。私自身の誓いの証。――もう、迷わない」
三人は並んで歩き出した。
夜明けの王都を背に、真実を求める旅路へ。
だが、その背中を遠くから見つめる影があった。
屋根の上に立つ黒衣の影兵が、冷たい目で彼らを追っている。
「……動き出したか。主に伝えねば」
その囁きは風に消えた。
彼らの旅路には、すでに暗い陰謀が絡みついていた。